ある夜型生活の大学生による闇散歩の顛末

赤川

ある夜型生活の大学生による闇散歩の顛末

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 神奈川県警、横浜関内署、管内。

 首都高三号線高架下、亀橋交差点前。

 石川沿い、中村町の仏坂ほとけざかに、その交番は存在していた。

 川向うは横浜という大都市の華々しさが垣間見えるが、中村町の仏坂界隈はごく普通の住宅地となっている。


 仏坂ほとけざか交番にその男性が駆け込んできたのは、夜も更けた深夜0時近くの事だった。


               ◇


 異常な出来事に巻き込まれた、と興奮しながら訴える男性の話を聞いた警官であるが、どうにもその内容は普通ではなかった。

 横浜の繁華街に近く、違法薬物などにも関わる可能性を考えた警官は、関内署に連絡。

 間もなくひとりでやって来た生活安全課の刑事の姿に、首をかしげる事となる。


「どーも、関内署の、渡部わたべです。えーと……濱口はまぐち歩夢あゆむ、さん?」


「は、はぁ…………あ、はい」


 未だ混乱し落ち着かない若い男性、濱口歩夢はまぐちあゆむは、テーブルの対面から話しかけられても、気はそぞろ・・・だった。


 渡部を名乗る、その刑事。

 痩せ型で半端な長さの髪はボサボサ。目は寝不足気味のように下がり、肌の血色は良くなく、アゴには髭の剃り残しが目立つ。

 清潔感のある容貌とは、お世辞にも言い難い。


「それでー……何がありました? 先にお話聞かせていただいた者によると、襲われた、とか?」


 軽薄な愛想笑いを浮かべながら、そんな調子で聞き取りをはじめる渡部刑事。

 そのセリフで、混乱気味だった濱口歩夢の記憶が、一気に蘇って来た。


                ◇


 大学2年目の学生、濱口歩夢はまぐちあゆむは夜型人間だ。

 選択する講義は昼以降のモノのみ、バイトは夜から深夜、休みの日は夜通し遊び、だいたいいつも就寝は日が昇る頃。

 なぜそんな生活をしているかというと、これはもう朝はやる気が出ないから、という説明しかできなかった。

 あるいは、夜が好きなのかもしれない。


 子供の頃、出歩いてはいけないと親に言われる時刻、真っ暗で静まり返った近所の周辺を歩いているのは、胸が高鳴りワクワクしたものだ。

 そんな気持ちを忘れてしまったのは、いつからだったか。


 そこまで無邪気にはなれなかったが、二十歳を超えた今になっても、夜の街を歩くのは嫌いではなかった。

 ひんやりして湿った空気。昼間の喧騒の中ではかき消えてしまう環境音。無人の街の風景。

 この年齢になってわざわざ夜の散歩に出かけたりはしないが、友人との酒盛りやバイト帰り、コンビニへの買い物に少し遠回りするなど、意図的に歩くようにしている。


 3時間ほど前も、そんな気分だった。


 ランドマークタワーを仰ぎ見る、横浜みなとみらい。

 高層ビルや大型の公共施設が集中するその区画だが、繁華街とは違い夜間は人通りも少なくなる。

 施設スタッフのバイトを終えた濱口歩夢は、電車で地元へ帰るべく新島駅を目指していた。

 だが終電まではまだ時間があった為、近くのビル内にあるファミレスで晩飯をり、開発途中の区画を回って駅へ向かおうと考えた。


 それが間違いの元だった、と濱口歩夢は渡部という刑事に語る。


「悪夢……って見るでしょ? 意味が分からなくて気持ち悪くて不気味で無暗に怖く感じて。目を閉じたくても閉じられない、起きたくても起きられない、すぐそこに恐ろしい何かが来ているのが不思議と分かっていて、なのにどうしようもない。

 いつの間にか寝ていたのか、と思いましたね……その時は」


 自嘲気味にそんな事を言いながら、灰色の事務デスクに視線を落とす濱口歩夢。

 しかし、その目がデスクの天板を見ているワケではないのは、渡部にも分かった。


 最初に気付いたのは、妙な暗さだ。暗過ぎたのだ。

 開発中途の区画に沿って歩いていたとはいえ、道路の逆側は営業中のビルが立ち並び、街灯も整備されていた。

 にもかかわらず、路面も街路樹も色を無くすほど黒々とした輪郭だけになっていく。

 見上げても、街の灯り自体が消え失せたようだった。

 一帯丸ごと停電でもしたのか。そう思いながらスマホを見てみるが、それすら何故か光度が弱く感じる。

 まるで、光自体が力を失っているような。

 または、光を妨げる水のような闇に、周囲が満たされているようにさえ思えた。


 明らかな異常事態が起こっていると理解した濱口歩夢は、適当な友人の携帯番号に発信しながら足を速める。

 ここで、耳を澄ましていた為に周辺の音が一切聞こえない事にも気付いた。 

 ついでに、携帯の電波が全く来ていない事にも気付いた。

 横浜のド真ん中である。どちらもありえない事だ。

 おかしなことばかりで胸の中から不安があふれ出し、今にも駆けださんばかりに歩幅は大きくなり、追い詰められて息も荒くなっていた。


「それで……もう完全に道を見失っていたというか、道が見えなくなったというか……。横浜みなとみらいですよ? 街路灯すらないド田舎じゃないんだから……。

 それで、もう何となくぼんやり明るい方に歩くしかなかったんですけど、そこで動いている何か・・……を見付けたんです」


「『何か』…………ですか?」


 人間の視覚というモノはよくできていて、動くモノを敏感に察知することができる。

 ほぼ真っ暗闇、濃淡しか識別できないその中で、濱口歩夢はヒトらしき動く影を捉える事が出来た。

 それも、ひとつやふたつではなく、辺りにいくつもある。

 その場に留まり上半身を振るような動きを見せるそれを、濱口歩夢は自分のように大停電の中で道を見失っているヒト達だと思った。


『あのッ……すいませーん! これ……何があったんですかねー? 僕駅の方に行きたいんですけどー!!』


 ヒトがいた安心感からか、緊張がやわらぎ声も軽くなる。

 もはや足もとが見えないので慎重に、しかし急いで、濱口歩夢は人影の方に近づいて行った。

 とにかくヒトの姿を確認したい一念。

 相手との距離感も怪しい中、手を振って自分の位置もアピールしていたが、


「グ……ゥウ゛ゥウウウウウ……………」

「ヴ、ン゛ンンンン……」

「オッ……ォアアアアア……ア゛ッ」


 その人影たちの発するおぞましい声に足が止まり、(間違えた)という思いが自然と出てきていた。


 理性的に考えれば、体調が悪いか酔っ払いが暗闇の中でうめいていた、とかそんなところだろう。

 しかし実際にそれを目の当たりにする濱口歩夢は、相手がこの世のモノではないという確信を持ってしまった。

 無論、こんなこと人生初の経験である。


 現実感の喪失に足元が揺らぐ。

 あの世から響くような声は、目の前だけではない左右や後ろからも響いていた。

 そこら中にいた人影が、徐々に大きくなっている。

 音程も高くなり、こちらに呼びかけているのか、さもなくば呪いの声を投げかけているように思えた。

 どっちにしても、気付かれていると思われる。


 どうしていいか分からず思考が止まり、何も考えられない。

 闇の中でなお黒いうごめく影は、ヒトではない別の生き物のように、どこかが引き攣っているかの如き動きで濱口歩夢に近づきつつあった。


『あ、あのぉー……す、すみ、ませんッ!? なん、ですかね!? あのッ! なにか…………!!』


 口が回らない。そもそも何を言っていいか判らない。

 足は自然と後ろへ向かい、濱口歩夢は息を止めながら後退っていた。


『オ゛ッ! オ゛ッ!!』

『ッグゥーン!!』

『ン“ー……! ンウ゛ゥウウウウウウ!!』


『ぅい……いっ!? ひぃいいいいいいいい!!!!』


 それらの顔が、闇の中でも僅かに垣間見えるほど接近する段となった瞬間、濱口歩夢はひとたまりもなく全力で走りはじめる。

 やはりと言うべきか、それらは人間ではなかった。

 端的に表現するなら、焼けた黒い汚濁にまみれ、生々しく濡れた赤い血と白い肉。

 それらが口腔から発するのは、苦痛と狂乱。


 濱口歩夢は、その刹那に見たのだ。

 目蓋まぶたすら無く剥き出しになった血染めの眼球に、ただ空っぽな地獄がわだかまっているのを。


『あぁあああああああああ! ばぁああああああああああ!!』


 瞬間、濱口歩夢も狂っていたのだろう。

 意味のない叫びを上げながら、怪物を引き付けるのも体力が尽きるのも考えず、ただデタラメに走る。


 行く先々で、同類の怪物に遭遇した。

 そのいずれもが、逃げ惑う濱口歩夢へ、皮を剥がして肉をさらけ出したような両腕を向けてくる。

 右に怪物がいれば左に逃げ、左に怪物がいれば右に逃げ、正面に怪物がいれば何も考えずきびすを返した。

 疲労で心臓が爆動し、乳酸で動けなくなった両脚が互いを蹴っ飛ばし地面に倒れる。倒れながらも四肢を着いて犬のように地面をかき、とにかく走った。


 そこまでしても、逃げ切るどころか怪物の数は増えていった。

 まるで人混みの酷いスクランブル交差点のように、四方を見回しても怪物だらけになってしまう。

 全ての怪物が、濱口歩夢の方を見ていた。

 囲まれており、とてもじゃないが怪物の間を縫って走れる気がしない。


『あ、あぁあああ……! ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんあさい、許して、許して、助けて…………!!』


『ゥウ゛ゥウウウウ……』

『ハー……ハァー……ハァアアアー…………!』

『ヒィイイ! ンィイイギィイイイイ!!!!』


 悲鳴とも歓喜とも判別できない精神にさわる鳴き声を響かせ、怪物は許しを請う獲物へお構いなしににじり寄っていく。

 もはやネズミが這い出る隙間すら無く、恐怖の極致にある濱口歩夢は壊れた顔でそれを待ち受けるしかできなかったが、



 そこに、眩い光が駆け抜けた。



『オギッ――――!?』

『ア゛ッ! ア゛ッ!!』

『キヤァアアアアアアアア!!!?』


 黄金の光が帯となり、汚濁を被った肉の怪物を数体纏めて薙ぎ払っていく。

 次に、いくつもの光が流れ星のようにはしったかと思うと、周囲の怪物をまとめて貫き、その場を明るく照らし出した。

 何が起こっているのか分からず、呆けたように口を開けて立ち尽くしていた濱口歩夢の視界に入って来たのは、黒いハーフコートを身に着けた何者かだ。

 コートに付いたフードを目深に被っているので、顔は見えない。


「あっちだ! まっすぐ行けばこの世界から元の世界に戻れる! 行け!!」


 この世とは違う、別の世界。

 短いセリフだったが、それはいま最も濱口歩夢を納得させてくれる内容だった。

 黒いハーフコートがどういう相手かは分からないが、それを疑う余裕など今の濱口歩夢には一切無い。

 言われた通り、黒いハーフコートが黄金に光る棒のようなモノで指示さししめした方向へと、最後の力を振り絞って駆け出す。


 一瞬、どうしても気になり途中で背後へ振り返ると、ただ金色の光が怪物を片っ端から叩き伏せている様子しか分からなかった。


                ◇


「それからはもう…………。どこをどう走ったかとか、覚えてないです。正直ここがどこかもよく分からないし。

 ただ、高速道路を走るクルマの音が聞こえて、それでようやく帰って来た・・・・・……って、感じましたね」


 若い大学生の証言を一通り聞き、交番勤務の警察官たちは、一言も発することができなかった。

 本人が最初に言ったように、悪い夢のような荒唐無稽な内容。

 だが確かに、そこにはつい数十分前に体験したような、リアルな臨場感が宿っていたのだ。


「なる、ほど、ねぇ………‥」


 しかし、灰色の事務デスクの対面に座る貧相な刑事、渡部だけは気の抜けた相槌リアクションを返していた。

 ペンの尻で頭などかき、どうにも真剣みが無い。


「……えーと? それで、被害届とかはどうされますか?」


「…………は?」


 そして、次に来た質問が理解できず、思わず裏返った声を漏らしてしまう濱口歩夢である。

 今の話を聞いて、どうしてそういう話になってしまうのか。


「いや、あの、本当なんですよ! ついさっき俺はサイコホラー映画みたいなバケモノに襲われてぇ――――!!」


「えっ、それはうかがいました。えー、浜田歩夢はまだあゆむさん、大黒大学の学生さんで、ザッピング横浜へお勤め。

 バイトが終わってからすずらん通りを新島公園方面へ行き、ランドマークプレイスのファミリーレストランで夕食を食べてから、フジエックスビル方面の造成地の裏側を回って新島駅へ向かおうと、した……と。

 そこで不審者複数人に追いかけられたんですね。いや怪我などされなくてよかったですねぇ。

 あ、転んで手を擦りむいたんでしたっけ? 一応手当はしたそうですが、念の為病院に行かれます?」


「はあ……!?」


 今度は、理解できないどころか混乱するような事を言われ、ハッキリとそれが声に出てしまう。

 このやる気のない刑事は、いったい何を聞いてたのだろう。


 濱口歩夢が遭遇したのは、間違いなく常識では考えられない異常現象だ。

 それを、さも何でもない事のように常識の型にハメた調書を取るとは。

 事実に蓋をし、現実から目を逸らす、ただ仕事を終えようとする事なかれ主義としか思えなかった。


「あの刑事、さん? アレ・・は『不審者』とかそういう普通の人間じゃなかったですよ! あんなのがうろついているんですから……機動隊とかSATとかで対処しなきゃマズいんじゃないですか!?」


「そうは仰いますがねぇ……。

 濱口さん、日本は全国、隙間なく警察官が管轄地を巡回して異常が無いかを日々確認しているんです。日本の交番システムと、治安維持の備えは世界一ですよ。

 西区6丁目も担当の警官にパトロールに行かせましたが、特に異常なモノは見つかりませんでした。それにここ数時間、あの一帯が停電になったという通報もありません」


「それは……別のせか……いや、でも…………!!」


「もちろん被害届を出されれば、こちらとしても捜査はします。ですが、今のところ濱口さんのお話から分かるのは、異常な風体と様子のおかしい集団に脅された・・・・、というだけなんですねぇ。特に暴行を受けたとか強盗の被害に遭った、というワケでもないようですし。

 いえ決して濱口さんが嘘を口にしているとは申しませんが、もしかしたらどこかで薬物など精神に異常を起こす何かの影響を受けている可能性も、この場合高いと思われます。

 どうでしょう? ケガもされてますし、一度病院で薬物反応の検査もされてみます?」


 自分の訴えをまともに取り合ってもらえない、と一度は頭に血が上った濱口歩夢だったが、淡々として説明するやる気のない刑事の話に、逆に冷や水をぶっかけられる思いをしていた。

 確かに冷静に考えてみると、転んで擦過傷を作った以外に当時起こった事のあかしなど無い。それすら、単に自分が転んだという証拠に過ぎない。

 薬物などはやっていないが、自分が経験した事を考えると、確かに何かそういうモノをどこかで吸い込んだという可能性は、否定できなかった。

 病院の血液検査などでそれが判明した時、故意ではないと警察は信じてくれるだろうか。それを立証する為に、また面倒なことになる気がする。

 薬物接種の疑いで警察の捜査を受けた、など、自分の生活や風評、悪くすると就職にも響きそうだ。


 不可思議な恐怖体験よりも切実な問題が持ち上がり、考え込む濱口歩夢は何も言えなくなっていた。


                ◇


 結局、濱口歩夢は被害届を出さず、病院へも後日自分の足で行くと言い、終電を逃していたのでタクシーで家に帰って行った。

 警察としても、薬物検査などは特に行わず。

 濱口歩夢がおかしな目に遭ったという地域の巡回を強化する、という結論で話は終わりとなった。


 もう夜の街を好んで歩く気も無い。

 時が経つほど、濱口歩夢はその夜の出来事がよく判らなくなっていた。

 あの貧相な刑事の言う通り、起こった事といえば自分が不気味な人影に囲まれて、真っ暗闇の中を逃げ惑ったというだけだ。

 寝て目を覚ますと、あの悪夢も本当にただの夢だったのではないかと、そんな風に思えてくる。

 それでも、もう自ら進んで闇の中に入ろうとは思わない。


 闇とは本来、中で何が起こっても不思議ではない、ヒトの認知外の領域なのだ。

 障害物、悪路、何かしらの生き物、あるいは暗がりに潜む理由のある悪しき人間。

 それらは全て闇の中の怪物であり、ヒトならざる者の存在する危険な世界である。

 闇を軽んじ軽々に踏み入る者は、その対価を払わされることになるのだ。


 濱口歩夢は、夜型の生活を改めた。

 闇の中で脚を取られることのない、足下の確かな明るい場所でだけ生きていけばそれでいい。

 就活とその後の生活の為に、今のうちに昼型に切り替えておくのもいいだろう。

 夜の闇は、極力避ける。

 それこそが、日の光の下でしか生きられない人間の、分相応な人生なのだ、と思い。









 ある夜型生活大学生の、深夜の散歩で起きた出来事は、以上である。

 ここから先、裏の世界アンダーワールドを知らない人間は、読むしる必要はない。









 神奈川県警横浜関内署、生活安全課、渡部和成わたべかずなり巡査部長。

 夜の夜中に仏坂ほとけざか交番までおもむいた渡部刑事は、濱口歩夢はまぐちあゆむの事情聴取を終わらせると、そのままさっさと交番を出て行った。

 それくらいなら自分たち交番勤務の警官だけで良かったろうに、いったいこのヒト何しに来たんだ?

 そうは思っても、相手は『巡査部長』と上の階級のヒトだったので、交番勤務の警官たち(巡査長と巡査)も何も言えず。


 また、渡部刑事が聴取をしている最中、関内署の所長から『渡部刑事に任せる』旨の連絡も受けていたので、できる事は何もなかった。


 くたびれたスーツなど貧相な身なりの刑事が、関内署の駐車場脇にある喫煙スペースでスマートフォンを取り出す。

 発信すべき電話番号は登録していない。記憶してある番号を、手動入力だ。

 呼び出し音が4回5回と鳴ってから、その相手は通話に出た。


「あー、どうもー影文かげふみさん、渡部でーす。

 先ほど例の被害者ガイシャの方、帰りましたー。特に被害届なども出さないそうです」


『どーも渡部刑事、お世話になりまーす。

 助かりました。あのヒトこっちで保護する余裕が無くて……。

 無事にアンダーワールドからは出たようなので、ファージに殺されていることはないと思ったんですけど。

 何か具体的に覚えているとか知っているみたいなこと、言ってました?』


「いやいや。よっぽど慌てていたのか、アレは何も覚えてませんね。

 『ファージ』、ですか? 何か黒くて気味悪い人間みたいな何か、としか思ってないようでした。

 助けた人物・・・・・も、顔とかは見なかったようで」


『リヒターはいつもそうですから……。まぁ記憶消去とかはしなくてよさそうで、一安心ですかね。

 それと、こちらでも一応他に巻き込まれたヒトがいないか注意しては見たんですけど…………』


「あー、大丈夫です。ウチの課長もしばらくあのあたりの聞き込みやらせるって言ってるんで。

 それで影文さん、今回のその……異常を引き起こしたブツ・・、というのは?」


『回収しました。今回はオーパーツによる限定的なオーバーフロー……一時的に裏世界が作られただけなんで。

 他にそういう物体がない限り、またそんな異常が起こることはないと思います』


「やれやれ勘弁願いたいですねぇ……。またぞろ一介の警官がそんな事に巻き込まれちゃたまりませんよ」


 今回の異常現象、渡部刑事はその背景をほとんど知っていた。

 上役の生活安全課課長、それに関内署の所長も、事態の収拾の為に渡部刑事を仏坂交番に行かせたのである。


 この世界の陰に潜む、裏世界アンダーワールドとでも言うべき領域。

 それはシンクホールやエアポケットのように生活圏のすぐ傍でに口をあけ、時として不運な人間を吞み込んでしまうのだ。

 今回は特に、不運が重なった。

 長年に渡り思念を集め裏世界を形成してしまう、オーパーツ。

 それが、ある事件により表の世界に放り出されてしまったのである。


 渡部刑事の通話相手、『影文』に『リヒター』という人物が急ぎ回収におもむいたが、不運な夜型大学生が散歩中に足を踏み外し、オーパーツの広げた裏世界へ落ちてしまった。

 それが、今回の出来事の顛末だ。


 渡部刑事は通話を切り、スマホを懐にしまうとタバコを咥え大きく吸い込む。

 火の付いた先端から、細い紙巻が橙色の燐光を放ちながら炭化していった。

 紫煙を吐き出しながら、思い出すのは自身がこういう事に関わるようになった切欠だ。

 それ以前の自分なら、裏の世界アンダーワールド裏側の社会アンダーコミュニティーだと聞いても、妄想か陰謀論のたぐいとしか思わなかっただろう。

 それが全て事実だと身を以て・・・・理解させられたとしても、既に良い歳した汚いオッサンである自分は、生き方を変える気もその力も無いのである。


 ただ、自分の背中越しの世界に何が潜んでいたとしても、どうか濱口歩夢のように、関わる事がありませんように。

 そのように祈りながら、今日唯一の一服を消し、何事もなかったかのように今まで通りの日々へ戻っていくのだ。




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