オリンピック深夜の部・散歩10キロメートル

清水らくは

オリンピック深夜の部・散歩10キロメートル

 あたりは本当に真っ暗だった。観客は全くいなかったが、カメラの向こうには何万という人々がいるのだ。緊張しないわけがない。

 スタート地点には、各国から選りすぐりのミッドナイトウォーカーたちが集まっている。元競歩選手や、登山家などもいる。もちろん強敵だが、深夜散歩歴十年の俺にもプライドがあった。

「ヨーイ」

 機械音の号砲が鳴る。この音だけはどうしようもないため、人の住んでいないところがスタート地点になるのである。

 ここから600mは、最低限の照明だけが用意された、特に暗いエリアである。やはり元アスリートや登山家などが先行していくが、俺は焦らずに進んでいく。ここは全然勝負するようなところではないのだ。

 皆の息遣いが聞こえる。独りで深夜散歩していたころには、聞こえなかったものだ。俺は仲間が欲しいと思ったことはないが、ライバルがいるのは心地よかった。



 あれは、10歳のときだったと思う。深夜、俺はこっそりと家を抜け出すようになった。夜の街は静まり返っていて、自由にあちこちに行けて偉くなったような気分になった。俺は学校が嫌いだった。みんなに合わせて何かやるのが苦痛だった。

 深夜、俺は一人で自由だった。

 親に気づかれたことも、警察に補導されたこともある。怖いお兄さんに殴られそうになったこともある。それでも俺は、こっそりと家を抜け出した。中毒になっていたのかもしれない。

 ある日、俺を見つけた警察官が言った。「そんなに深夜散歩したいなら、オリンピックを目指せばいいのに」

 冗談だったのかもしれない。けれども俺は、「なってやるよ」と思ったのだ。



 森を抜け、住宅街に入ってきた。先を行く人たちの数が減っている気がする。怪我や迷子で何人かリタイアしたのかもしれない。

 深夜散歩では走ってはいけないのはもちろんだが、一定以上の音を立ててもいけない。ご近所さんに迷惑をかけないのが散歩なのである。音が察知されると、ペナルティである。3つのペナルティポイントで失格となる。

 俺は深夜散歩歴が長いので、気づかれないように歩くことにかけては自信がある。1台のドローンが、前の選手のところで青い光を発していた。失格者が出たようだ。

 この競技には、先導者がいない。あくまで自分だけで進んでいくのが散歩なのである。住宅街の道は入り組んでいる。そのため、先頭選手は道を間違えやすい。また、他の選手にくっついていくと、共倒れになることもある。ルートを50メートル以上外れると、即失格である。

 地図はすべて頭の中に叩き込んである。この競技は、迷惑になるため夜の下見が禁止されている。多くの選手は昼間に試歩するが、俺はあえてそれをしない。明るいときのイメージとの違いで、頭が混乱してしまうことがあるのだ。

 とにかく、夜の様子を想像しておく。そうやって俺は戦ってきた。

 一人、また一人と抜いていく。マイナー競技と思って転向したきた選手たちは、深夜に慣れきっていない。俺は、深夜の、そして散歩のベテランだ。静かに、そして着実に進んでいく。

 暗くてもはっきりとわかる、赤いユニフォームが見えてきた。あれは深夜散歩界のキング、中国のこう選手だ。背が高く、とにかく健脚なのだ。そして、ずっと夜に働く仕事をしてきたとのことで、夜目が効くようになったらしい。根気強く記憶力も抜群、天賦の才を与えられたミッドナイトウォーカーだった。

 俺はまだ、高選手に勝ったことがない。

 人生で、こんなにはっきりと何かを目標に持ったことはない。高選手に勝って、一番になりたい。

 月の出ていない日だ。風はなく、汗が体にまとわりつく。給水をとって、口と体を潤す。深夜散歩は苦しく、そして心地よい。



 長い橋を渡る。もう少しで、散歩が終わる。

 ゴールは、人工島の空き地だった。開発計画が中断し、土地が余りまくっていた。人がおらず、平らで、広い。散歩のゴールにはもってこいである。

 高選手の背中は、遠くなっていた。彼の散歩は、完璧だ。一定のリズムを保ちながら、無音を貫く。一つもペナルティポイントを取らず、独歩している。

 俺は二つのペナルティをとってしまった。

 100メートルほど先で、高選手がゴールするのが見えた。遅れて、俺もゴールする。とたんに体から力が抜けて、俺は座り込んでしまった。

「おめでとうございますー」

 ささやくような声で、アナウンサーが近づいてくる。住民がいないところなので普通の声を出しても迷惑は掛からないのだが、小声で話すのが深夜競技のマナーとなっているのだ。

「あ、いやあ、負けちゃって」

「でも、オリンピック深夜の部、日本人初の銀メダルですよー」

「ああ、そうなんですか」

 これがオリンピックだということも、自分が日本人だということすら忘れていた。

 俺は立ち上がった。

「今、誰に会いたいですかー?」

「あー……シロですかね」

「えっ?」

「近所の猫で。よく会うんですよ。初めて見た時は子猫でした。いやあ、かわいいですよ」

「は、はい」

「今日は猫、いませんでしたね。では、失礼します」

 ゴールに着くことが散歩じゃない。家に帰るまでが、散歩である。家族の知らない間に、窓からこっそり入ってやろう、と思った。朝起きたらテーブルの上に銀メダルが置いてあったら、面白くない?


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オリンピック深夜の部・散歩10キロメートル 清水らくは @shimizurakuha

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