夜の散歩

柚木呂高

夜の散歩

 街は夜に色づいて、かくも甘い酒を啜る。然るに、誰でもその時間が楽しさを呼び起こす者ではない。とりわけ仲が良いわけでもない人の中で気を遣ってお酌をしたり、相槌を打ったり、話したくもない話を話したりするときは、心が沈んでいくものだ。酒の席にはカラオケも用意されており、それが私の気持ちを深く沈めた。特別歌手でもない素人の歌声を聴いて何が楽しいものか、そして私自身もまた上手くもない歌を歌うのが酷く苦痛であった。音楽は好きだが、カラオケは好きではない、これを理解できない人間は確かにおり、この会に於いてもやはりそういう人間は誰彼構わず歌声を披露せよと下知するものだ。その矛先が私に向かってく来て、断ればいいのに空気を壊したくないという情けない理由からそれを受け、せめて自分の好きな歌をと思い、歌い始めると、今度は誰も知らない曲だからという理由で途中で切られてしまった。私は、取り繕うように笑うと強い自己嫌悪を感じた。早く帰りたいという気持ちでいっぱいになって、そんな気配が体から滲んでいたのか、それとも単につまらないやつと思われたのか、次に歌を催促されることはなかった。


 終電近くになって、帰路につく人々が現れたのを良いことに私もこの場を後にした。残った人たちはこのまま甘露な夜の眠らぬ夢を見るのであろう。楽しみに興じ彼らは歌い飲み笑う、とても良いと思う、私自信がそこには居られないだけで、それ自体に不満はない。終電に揺られて、さっきまでの隔意ある状況を引き摺り、陰鬱な気持ちに沈む。車窓は暗く、時々街の明かりが横にスーッと流れていくのが見える中、殆どは黒に映る自分の疲れた顔だ。嫌な夜だなと思った。車内には同じく酔ったような人や、疲れて項垂れている人など、休日の前の夜の都会らしい客層だった、私も含めて。


 孤独は人々の間で育まれる。最初から孤独な人は孤独を感じないというし、その通りなのだろう、私の孤独感は年齢を重ねるごとにどんどん膨らんでいき、今ではそれで空でも飛べそうなほどパンパンに膨れ上がっている。電車を降りて改札を出ると、街頭とまだ開いている店の明かりで煌々と光っている街を足早に歩いて行く。大学の駐輪所の通りを通って、公園に差し掛かった辺りに、いやに長い影がある。最初は木かと思ったが、どうももぞもぞと動いているようで、生き物、いや人であることがわかる。しかし、それは二メートルをゆうに越えており、手足のバランスの崩れた奇妙なシルエットが不気味であった。私は思わず声をあげて腰を抜かしてしまった。がその影がゆらゆらと動いてこちらに声をかけて来た。


「ああ、どうも、驚かせてしまって申し訳ないです。私怪しいものではございません、たまたまここを通りかかっただけの者でして、いやはや、起き上がれますか、ちょっと手を差し出せないもので、すみません」


 よく見るとそれは竹馬に乗った四十代くらいの男性だった。肩まである髪を額を見せるように真ん中で分けて、薄く顎髭を生やしている、草臥れた容姿をしてはいるが、目には生気がやどり、狂人のようには見えない。手は竹馬の棒をしっかりと握っており、私のために少し前かがみになってくれているとは言え、ひどく大きく見えた。


「おばけかと思ってしまいまして、その、お恥ずかしいです、大丈夫です、自分で起きれます」


 そう言うと私は心配そうな彼の目の前でしっかりと両足で立ち、深呼吸をした。しかし、幽霊や妖怪の類ではなかったにしろ、この夜中に竹馬で闊歩している中年というのは余りにも様子がおかしい、狂人でないとしたら何かしらの理由があるのだろうが、怪しさという点では幽霊や妖怪とさして変わるところはないのかもしれない。ともすれば私は面倒な相手と遭遇してしまったのかもしれない。変態かもしれないし、厄介な人かもしれない。私は自然と身構えた。


「今、身構えたでしょ、大丈夫、僕が竹馬に乗っているのは、低所恐怖症のせいなんだ、僕は自分の背の高さにコンプレックスを持っているんだけれど、それが誘因して低い場所がに恐怖心を抱くようになってしまったんだ。だから竹馬に乗って高さを確保しないと怖くて歩くことすらままならないんだ。そして夜。夜はいい、暗い足元が遠近感をなくしてくれるから、いつもよりも気持ちが良く歩けるんだ。だから僕は夜に竹馬に乗って散歩に出かけるというわけさ。どうも、怪しい者じゃありません」

「それはお気の毒ですね、それでは、夜のお散歩楽しんでください」


 そう言って私はその場を離れようとした。何しろ相手はどうあれ竹馬に乗った低所恐怖症のおじさんなのだ、どうあっても相容れないし、私も私で共感することが難しくもあり、相手を傷つけてしまう可能性もある、互いに関わり合いにならない方が幸せな関係というものがこの世には存在し、これもまたその一つのように思われた。ところが相手はそうは思わなかったらしい、「ちょっと待ってください!」と言うとわざわざ左手を竹馬から離して、私の肩を掴んだ。私はぎょっとしたが、失礼になるかと思ってその手を振り払わずにいた。すると、彼は絶妙にバランスで震える左足のまま、私に話しかけてきた。


「もし、私があなたの生き別れの父親だと言ったら、信じてくれますか」

「父は家にいます」

「ああ、待って今のは冗談です、場を和ませるためのジョークです、どうか怯えないでください! もし宜しければ、どうか僕と夜の散歩をご一緒に如何ですか」

「お互い知らない者同士ですからそう言うのはちょっと困ります」

「夜は寂しいものです、ですからどうか一緒に」


 警察に通報したほうが良いだろうか、私は知らない人に食い下がられてとにかく恐怖に駆られていた。特にその人物が竹馬に乗って夜の街を闊歩する者である場合恐ろしさもひとしおである。人は理解できないものを恐怖する習性がある、それはこの場合にも当てはまり、私は一回り以上も年上の知らない男性に声をかけられる事自体恐ろしいと言うのに、相手は更に理解不能な存在なのだから仕方があるまい。私は早くのこの場を去りたくて仕方がなかった、しかしその手はガッチリと私の左肩を掴んでおり、離してくれそうにない、私は助けを呼ぶことも出来たが、陰鬱な夜、最後の最後まで惨めな終わり方をするのがとても嫌だった。そうなるとどうなるか、私は自分の意思を捨てて彼と一緒に夜の散歩をするという選択をする。それはそれで惨めではないのか、いや、そうではない、知らない誰かと夜にその場の出会いで散歩に出ると言う体験は日常を非日常へと変えてくれる。彼が本当に低所恐怖症で、竹馬から降りられないのであれば、私をレイプすることはできないであろう。私は意を決するように男性の方へ向き直ると「わかりました」と返事をした。


 男性は喜び私から手を話すと再び竹馬を握ると、「さあ行きましょう、付いてきて」と言って歩き始めた。竹馬のせいで背が高いからか、彼の歩は早く、私は追いかけるのに苦労したが、それを途中で気付いてか、歩幅を狭く歩調を合わせてくれた。明るい駅前から離れて、それでも多くの電灯が並ぶ公園沿いの道を歩いていくと横断歩道が見えてきた、すると男性は陽気にこう言った。


「足元にご注意ぃ~」


 するとどうだろう、横断歩道の白線の外が水のように波打っているではないか。かれは器用に白線の上を竹馬で渡りながら、パンくずのようなものを道路に投げる。すると魚が何匹も出てきてパクパクとそれを食べる。私は落ちないように足元を見ながらゆっくりと白線を渡る。道路が揺れて魚が跳ねるとそれが飛沫となって私の足にかかる、冷たい、まるで水のようだ。思うに夜の水とコンクリートの道路は確かに見分けが付きづらい。然るにこの道路が川のように見えるのはどう考えてもおかしい。しかもこの場合見えるのではなく完全にそうなのだ、水の上に渡された白線の橋を渡りきると私はもう一度振り返ってそこを見る。静かな道路があった、波もなにもないコンクリートの道路だ、だとすると先程見たものは一体何だったのだろう。たぬきに化かされたような気分になっていると、男性は振り返りもせずさもそれが自然なことのようにズンズンと進んで行く。


「良かったらあなたもどうですか」


 男性はそう言うとどこからか形も崩れていないサヴァランを取り出して渡してくれた。彼は自分の分のサヴァランも片手に持っており、片手で器用に竹馬を操作しながらそれを食べている。私は何か毒のようなものが入っているのではないかと警戒はしたが、毒を喰らわばの精神でそれをままよと頬張った。ラムの香りが心地よくクリームとフルーツの甘さが口いっぱいに広がった。


「美味しい」

「それは良かった、お気に入りのお店のものなんです」

「お菓子屋さんにも竹馬に乗ったまま行くんですか?」

「そうです、こうやってかがんで店内に入って買います。確かに怒られる店もあるのですけれど、理解を示してくれる優しい店もやはりあるものですよ」

「それは、いいことですね」


 それは心からの言葉だった、私は自分が職場で気を遣いながら自分の立ち位置を危うくしないため、極力目立たぬようにする、それというのも私は人の親切や情というものを恐らく信用していないからだろう、彼のように振る舞い、彼のルールを貫くような姿勢を真似て生きることは私には出来ないと感じる。私とは別種の人間であるとつくづく感じるのだが、どうしてだかこの竹馬に乗り続けることにした奇妙な男性を羨ましく思っている自分を自覚する。


 男は止まらず、しかし私に合わせて緩やかに歩を進めてゆく。ある街灯の下にたどり着くと、男性は「おや、こんなところに旬ですね、お一つ頂いちゃいましょう」と言って、街灯に手をのばすと、その中から大ぶりのキウイを一つもぎり取った。それをナイフで半分に切ると、半分を私によこして来る。私は躊躇いながらも受け取るとそれはやはり紛れもなくキウイであり、白い星のような模様を鮮やかな緑の果肉が包んでいる。


「スプーンがなくて申し訳ないです」


 そう言うと彼はそのままキウイにしゃぶりついた。私も酒気も手伝ってか、この状況で気が強くなって来たのか、それを真似てしゃぶりついた。甘く、酸味も殆どない熟れたキウイの味がした。余った皮をティッシュに包んで外套のポケットに入れようとしたら男性が横からそれをひょいと取り上げて、自分のキウイの皮と合わせて両手でパンッと叩いた。するとそれは小鳥の羽根となってサァっと夜の風に吹かれて飛んでいってしまった。


「そのまま捨てるとなんだか罪悪感があるでしょう、だから僕はいつもこうするんです」

「一体何をしたのですか、手品ですか」

「そのようなものです」


 今宵は小さな冷たい風が吹いて、酔った頬を優しく撫でる。陰鬱な夜の優しい側面。不思議が付き纏う謎の男性。こんな夜も悪くないかもしれないと、私は段々と思い始めていた。会社のつまらない飲み会に付き合わされたあとの、日付も変わった深夜、奇妙な男性の夜の散歩について歩くという非日常的時間が、私の心を何故か安らかにしてゆくようであった。


 道路沿いに出るとこんな時間だというのに車がまばらに走っている、夜に眠らないのは私だけではなく、こんなにも多くの人がまだ活動をしている。あのまま飲み会に参加していたらば、その目覚めた人々の中で孤独を一層強く感じたものだが、この静かな夜の道にあって、過ぎ去る人々の影や車、この奇妙な男性を見るに、妙な仲間意識を感じるようだった。私は、自分の心境の変化に驚いている、ただの夜の散歩が不可思議の連続で私のこごった心を揉みほぐすように作用している。歩道橋を渡り、川沿いの公園近くまで来ると、男は立ち止まって川を指差した。


「ここがいっとうきれいなんですよ」


 その言葉を聞いて私は覗き込むように川を見ると、そこには春の花々の花びらが煌々と輝いて川を埋めているのを見た。それらは一枚一枚が発光して薄く透き通っており、まるで氷で出来た花が散華してスポットライトを浴びているかのように見えた。それが黒い夜の水の上でゆらゆらと光っている。溶けて消えてしまうのではないかと思うほど繊細な線をしたそれらの花びらは、それでもただ光を放って揺れている。


「春の残滓がまだ残ってるんですね、こんな冬にでも。もう一年近くもですよ、ずっと春はあるもんです。どの季節にも、面白いですよね」

「言ってることは理解できませんが、こんなものは初めて見ました、確かに美しいですね」

「気に入ってくださって良かった」


 男性はこちらに体ごと振り向くと、深々と頭を下げて言った。


「今日の散歩はここまでです、お付き合いいただきありがとうございました。本当はもっと色々な場所をご紹介したかったですが、夜も更けてきましたし僕も眠たくなってしまいました」

「ベッドも高いのですか?」

「ふふふ、二段ベッドの上段ですよ、いいでしょう。それではお嬢さん、さようなら」


 そう言って男性は夜の暗闇の中に溶けて消えていった。私はと言うとぽつんと一人取り残されてそれでも妙に満足した気分になっている。川はもういつの間にやら普段の暗い夜の川に戻っていた。私は帰路について歩いていた。何だか歌い出したくなるような夜だった。そうしたら、先のカラオケで曲を消されたのを思い出した。ところがどうしてだろうか、それほど気にならなくなっていた。奇妙な男性は夜に消えた。夜は閉じるものだ。私は今日はぐっすりと眠れるような気がした。

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