深夜の徘徊は楽しいものです

沢田和早

深夜の徘徊は楽しいものです

 すでにの正刻を回っていた。今宵は満月。灯火が不要なほど明るい夜なのに男は江戸提灯をぶら下げていた。鷹揚に歩くその姿はどこぞの大店おおだなの若旦那といった風情だ。


「ちょいとお前さん、遊んでいきなよ」


 道端から女が声を掛けてきた。手拭いで頬かむりをしているので顔は見えぬが相当な年増であろう。言うまでもなく女は夜鷹である。


「拙者に言っておるのかな」


 男が答えると気を良くした夜鷹がすり寄ってきた。


「そうさ。懐は潤ってるんだろう」

「何故そう思う」

「誰だって思うさ。満月の夜に提灯ぶら下げて歩くなんて、よほどのお大尽だいじん様に決まってるよ。蝋燭代だってバカにならないんだからね。ねえ、羽振りのいいとこ見せておくれよ」

「残念ではあるがそなたと遊ぶつもりはない。されどここで出会ったのも何かの縁。ほれ、あそこで蕎麦を御馳走してやろう」


 男の指し示した方向に蕎麦屋の屋台があった。夜鷹蕎麦だ。蕎麦の代金が夜鷹と同じなのでそう呼ばれている。


「あたしゃこれでも吉原にいたことがあるんだ。蕎麦一杯じゃ足りないね」

「ならば二杯食わせてやる」

「二杯も食えない。一杯分は銭でおくれよ」

「よかろう」


 こうして二人は蕎麦を食った。女は銭を貰って満足したのか、元の場所へ戻って行った。男はまた歩き出した。


「やはりそぞろ歩きはこのような良き満月の深夜に限る。天から頭上に注がれる月光は極上の美酒のようだ。実に心地好い」


 山海の珍味を楽しむように一歩一歩を味わいながら進んでいく男。突然、その前に一人の侍が躍り出た。


「覚悟!」


 侍の刀が男を袈裟懸けに斬った。反転して後ろに逃れようとした男の前に別の侍が現れ、男の胸を短刀で深く刺した。


「うぐっ」


 男はその場に倒れた。自分の死が迫っているのはわかっていた。だが悲しくはなかった。


「これでよい。こんな月夜にこんなそぞろ歩きができたのだからな」


 男はそうつぶやいて息絶えた。


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