月兎
小野寺かける
月兎
これは僕が大学生だった頃の話だ。
高校卒業を機にバイトを始めたり、大学に入学してから友人が増えるに従って、帰りが遅くなる日が多くなった。終電間際の電車に飛び乗ったこともある。
あれも確か、そんな日の帰り道だったはず。
最寄りの無人駅で降車したのは僕一人だった。歩道沿いにはだいたい百メートルおきに電灯が設置されているものの、電車が走り去ればひと気も明かりも一気に乏しくなる。
しかしふと空を仰ぐと、雲一つないそこにまろやかな色合いの月が浮かんでいた。ちかちかと散らばる星も美しく、じっと見つめていれば流れ星の一つや二つ見つけられそうだ。
幸い明日は予定もなく、母には
天体に興味がある方ではないため、どれがなんの星座かなどは分からない。深い藍色の空にきらめく星は、何光年先に離れた先にあるのだろう。そのあたりも少しくらい勉強しておいたなら、もっと楽しめたに違いない。
しばらく流れ星を探していたけれど、そう簡単に見つかるわけもなく。潔く諦めて、僕は月に視線を移した。
乳白色の輝きを帯びたそれは、さながら夜空を統べる王だ。地面には昼間と遜色ないほどくっきり影が伸び、光の強さを実感する。
そういえば〝月には兎がいる〟という伝承がある。月には兎が住み、餅をついているのだと。
もちろんそんなことはなく、月の表面にある影の模様が兎と臼のように見えるがゆえに成立した話だ。国によっては蟹だったり蛙だったり、受け取り方に違いがあるのも面白い。
改めてじっくり眺めると、確かに兎に見えなくもない。単に昔から聞かされてきたから、そう見えるだけかもしれないが。
こき、と首が鳴る。上を見すぎて少々首筋が痛くなってきた。いつの間にか日付が変わっていたこともあり、大きなあくびも零してしまう。
季節は間もなく梅雨を迎え、雨雲が空を覆う日も増えるだろう。次いつ気が向くか分からないし、せっかくだからと再び月を見上げて、僕は目を丸くした。
月の表面に浮かぶ影が、ひょこひょこと動いていたのだ。
ちょうど伝承と同じく、まるで兎が餅をついているように。
見間違いかと思って何度も目をまたたいた。しかし影は動き続けて、ぺったん、ぺったんと軽妙な音が届いた気さえする。
ほとんど無意識に、僕はスマホを取り出して月にカメラを向けた。月の兎が動いた貴重な瞬間なのだ、撮り逃すわけにはいかない。
一分近く撮影したところで、兎はゆるやかに動きを止めた。いつしかただの影に戻り、先ほどまでと同じ静かさで地上を照らしている。
その後、僕はどうやって帰ったのかはっきり覚えていない。走って帰ったような記憶がぼんやりとあるが、意識がはっきりしたのは翌日の朝だった。
ベッドから飛び降りるなり、僕は友人たちに撮影した月を送りつけ、母にも見せに行った。誰もが驚いてくれるだろうと興奮していたのだが、画面を見るなり母は訝しげに眉を寄せる。
「動いてるって言われても……そりゃ確かにきれいに撮れてるけど、ただの月の写真じゃない」
母の一言に、僕はハッとした。
――もしかしなくても、動画モードにしていなかった。
膝から崩れ落ちそうになったが、どうにか踏ん張って耐える。
その後、友人たちからも総じて「きれいな写真だな」との評価を得たが、僕が求めていた感想はそれではない。けれど静止画を送りつけたのは紛れもなく僕であり、妙な虚しさを抱えながら「ありがとう」と礼を言うしかなかった。
あの日以降、雲のない空に満月が浮かんでいるとたまにそこを見つめてみるのだが、影が動いたことは一度もない。歳を重ねて冷静かつ客観的な判断が出来るようにもなり、今にして思えば、あの夜見たのは疲れや眠気を原因とした幻だったのだろう。
けれどこかで、あれは本当に起きたことだと信じたい自分もいる。
そんな思いを抱えながら、僕はまた、月にカメラを向けるのだ。
月兎 小野寺かける @kake_hika
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