深夜の散歩と夜泣き蕎麦

スズヤ ケイ

深夜の散歩の異変

 夜の散歩はいいものだ。


 月と星の光にぼんやりと照らされる情景。

 頭上へ満天に広がる星空。

 ひやりとした澄んだ空気。


 どれも明るい内には味わえない逸品である。


 私はそれらを楽しみに、こうして夜空の下を歩くのを日課としている。


 しかしその日、いつものコースである河原の土手に見慣れないものがあった。


 道の脇にひっそりと佇む古びた屋台。

 真っ白なのぼりには、やけに達筆な字で夜泣き蕎麦と書いてある。


 ここを散歩コースにしてから随分経つが、こんな店は初めて見る。


 明かりが灯っているのを見て興味が湧き、私は立ち寄ってみることにした。


「こんばんは。やってますか?」

「へいらっしゃい! やってますよ!」


 暖簾のれんをくぐると、屋台の裏で作業をしていた大将が、威勢よく返事をしながらこちらを振り返る。


 すると意外なことに、その顔は目も鼻も口もなく、つるりとしたのっぺらぼうであった。


「……とりあえず、かけそば一つください」


 私が動じずに注文すると、大将が逆に狼狽うろたえ始めた。


「お、お客さん、驚かないんで?」

「まあ、仕事柄見慣れてまして」

「なんてこった、祓い屋か! ひえええ!」

「ああ、大丈夫ですよ。今日はオフなんで、問答無用で祓ったりはしません」


 途端に逃げ腰になる大将に、私はできるだけにっこりと笑いかけた。


「しかし、この令和の世にむじなの夜泣き蕎麦を見るとは思いませんでした」

「へえ……色々と場所を変えてはいるんですが。近頃は客足もさっぱりで、途方に暮れてるんでさぁ」


 素直に蕎麦を茹でながら、大将がしんみりとこぼす。


「そりゃあ、今時の人はこんな辺鄙へんぴな場所で夜を明かさないでしょうしね」

「やっぱりそう思いやすか?」


 大将は眉に当たるであろう場所に八の字のしわを寄せながら、どんぶりを差し出して来た。


「かけそば一丁お待ち!」

「いただきます」


 私は割りばしを持って手を合わせると、早速蕎麦をすすり始める。


「うん。美味しいですね。こんなところで商売させておくのがもったいない」

「いやあ、久々のお客さんにそう言ってもらえると嬉しいねえ」


 大将は満更でもなさそうにつるつるな頭をかいた。


「実はね、今日で店終いにしようかと思ってたんでさぁ」


 私が夢中で蕎麦をすすっている間に、大将がぽつりと切り出した。


「客も取れねえ、脅かす事もできねえんじゃ、商売あがったりだ。仲間達が消えていく中、あっしだけはとがんばってきやしたが、そろそろ潮時かねえ、と……」


 そう言って肩を落とす大将。


「でもまあ、最後にお客さんに美味いと言ってもらえて吹っ切れやしたよ。ありがとうございやす」


 彼なりに晴れやかな雰囲気を出して、大将は深々とお辞儀をしてみせた。

 完全に引退を心に決めたのだろう。


 しかし、この蕎麦の味を途切れさせるのは惜しい。


 そう考えた私の脳裏に天啓てんけいが下った。


「もし宜しければ、良い場所を紹介しましょうか?」

「へ?」


 その時の大将は、狢の癖に、まるで狐につままれたような面相をしていた。







 数日後、私は知り合いの営む遊園地へと足を運んでいた。

 目的はもちろん、先日の狢だ。


 彼はお化け屋敷の付近に屋台を出し、フードコートを賑わせる一店舗に加わったのだ。


 ここのオーナーは人に友好的なあやかしに寛大で、本物をお化け屋敷のキャストに雇っているくらいである。


 ここならば狢の特性も十分に発揮できるだろうと相談したところ、快諾して貰ったという訳だ。


 彼の屋台を遠目にしばらく眺めていたが、お客はきゃあきゃあ言いながらも、のっぺらぼうの蕎麦を楽しんでいるようだ。


 これならば心配あるまい。


 時代が新しくなるにつれ、生きるのが難しくなってゆく者達はいる。

 しかし残せるものだけでも、できるだけ残していきたいものだ。


 私は先日食べた蕎麦の味を思い出し、よだれをこらえつつ狢の屋台へと足を向けた。

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深夜の散歩と夜泣き蕎麦 スズヤ ケイ @suzuya_kei

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