真夜中の出会い
香久乃このみ
真夜中の挑戦
門限の厳しい家に育った私は、それまで21時以降の外の世界を知らなかった。だから実家から解放された私がまずしたのは、深夜の散歩だった。
(すごい、空気が透き通ってる……)
錯覚なのは理解していたが、人影がほとんどないため大気に濁りがないように感じる。そこは私にとって、初めて足を踏み入れる世界だった。
(ちょっと怖い。でも、ワクワクする……)
体に染みついた『門限』が、罪悪感を生む。同時に、それを破ってやったという奇妙な爽快感があった。
その時、前方から人影が近づいてくるのが見えた。
ヨタヨタと歩くずんぐりとしたシルエットが、街灯の下で正体を現す。赤ら顔の、五十がらみの男だった。髪も服も、いやに垢じみている。
男の濁った眼と視線が合う。その口元がニタァと歪んだのが見えた。
(まずい……!)
本能が警鐘を鳴らす。おぞましさと予感で肌がピリピリした。私はきびすを返し、元来た道を戻ろうとする。だが、すぐに迫る足音が聞こえてきた。
(いやっ!)
強張る足を何とか動かし、私は駆け出す。けれど、悪意に満ちた足音はどんどんと近づいてくる。
「うへへ」
下卑た声にぞわりと鳥肌が立ち、恐怖で頭の奥がキンと冷える。今になって、深夜に家から出たことを心から後悔した。
(警察? でも、どこ?)
家を出て暮らし始めたばかりの、新しい街。土地勘はまだない。
(助けて! 助けて!!)
意識が遠のくほどの恐怖を感じながら、ふわふわとした足元を何とか踏みしめ逃げ続ける。その時だった。
「ようこちゃん!」
大学生くらいの青年が私の前に出てきた。さっと私の肩を抱き、庇うように体を反転させる。
「え? あの」
「ようこちゃん、帰ってこないから心配になって迎えに来ちゃった!」
(ようこ……って、誰?)
にこにこ笑いながら言った後、青年は赤ら顔の男をキッと見据える。
「この子に何かご用ですか?」
「! ……いや、別に」
男は恨めしげな目つきで何やらゴニョゴニョ言っていたが、舌打ち一つすると去って行った。
「……ヤバかったぁ」
男の気配が完全になくなると、青年は私から手を離した。
「あ、触っちゃってごめん! 違うんだ!!」
目が合った私に、青年は焦ってまくしたてる。
「なんか変なのに追っかけられてるみたいだったから、その、知り合いの振りしたらなんとかなるかな、って! 痴漢とかそう言うんじゃないから、その」
助けてくれたヒーローが、うろたえながら弁明をしている姿に、おかしくなる。
「ふふ、大丈夫です」
安心させようと笑って見せた瞬間、涙がぽろりと零れた。
「あれ? あ、あれ?」
私は慌ててごしごしと顔を擦る。涙と体の震えが止まらなくなった。
「大丈夫です、あの、違うんです。ありがとうございます。助かりました」
「あ……、うん、えっと……」
青年はしばし困ったように私を見下ろしていたが、やがてぎこちなくはにかんだ。
「相手がナイフを持ってる人じゃなくて、お互い助かったね」
青年は芝居がかった動きで胸をなでおろす。
「あー、こわかった―」
彼のその言葉に、私はまた笑いながら泣いたのだ。
結局あの日はお互い名乗ることもなく、別れてしまった。
そしてあれ以降、私は深夜の散歩をしていない。
彼にもう一度会いたい。
けれど次に同じ目に遭った時、誰かが助けてくれる保証はない。
二つの気持ちの間で揺れながら、私は今日も夜空を見上げている。
――完――
真夜中の出会い 香久乃このみ @kakunoko
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