第5話 夜の散歩

真っ暗な、完全な真夜中で、独立した唯一の月と無数の星がきらめいていた。




一人の夜。




白線から落ちないように手を水平にピンと伸ばし、バランスをとりながら歩いて行く。




自分が、闇夜に完全に溶け込むのが気持ちよい。




コーヒーの底に埋まっているような夜は私をひきつけ、侵していく。立ち止まって、うずくまる私に何も言わないけど、いつも見捨てずそばにいてくれる。




白い息を吐きながら歩いていると、煌々とひかる自動販売機を見つけた。




喉の渇きを覚え、白線から降りて自動販売機に近づいた。欲していた飲み物は、売り切れ、の光る文字。諦めて、白線に戻った。




風が吹き、空き缶が音を立てて転げまわる。




ちょうど私の足下で止まったので、思い切り振りかぶって蹴った。


空き缶は空気を震わせながら、おおきく宙を舞い草むらに消えていった。




通りすがりの古びた一軒家の玄関には大きな看板があった。




近づき、目を凝らしてみると、「神様はいつでもあなたを見ている」と黒い文字で書かれていた。




ちらりと庭の方をみると、真っ白なマリア様の銅像が大きな十字架と共に立っていた。




マリア様の足元にはほうぼうと草が生え、何が入っているのか分からないゴミ袋が散乱していた。なぜかイルミネーションが木に巻き付けられている。




目をつむり、手を合わせているマリア様が突然目を見開いて私の方をぎょろりと見た、気がした。




私はぎょっとしてもう一度マリア様をよくみると、マリア様はいつも通り目をつむって拝んでいた。




ほっとして、歩を進めていると、道の途中でぷつりと白い線が切れてしまっている。




私は「止まれ」の「れ」の字に思いっきりジャンプをして着地をした。ま、とれ、の上を歩き、曲がり角の先の新しい白い線に飛び乗った。




風がふき、葉がさわさわとざわめいた。




乾いた唇がひりひりと痛む。




街灯の下でバックの中をあさってリップを手に取った。




小学生の頃、リップクリームを塗る行為がすごく大人っぽく見えて、特に意味もなく何度もリップクリームを塗っていたことを思い出した。


鏡に唇を突き出して、上唇だけ塗り、唇を合わせる。その後、小指で整える。




自分がまるで真っ赤な口紅を塗った、妖艶な大人の女になったみたいだった。




岩垣から飛び出た枝葉に頭があたり、ポロリとなっていた実が取れてしまった。




街灯に照らしてみてみると熟した桃だった。ちょうど今が食べごろで、明日になってしまったら腐ってしまうような熟し具合だった。




どうしたものかと桃を片手に考えを巡らせていた。




この桃を玄関先においてもおかしいし、道端に置いてもゴミになるだけだと思う。




じゃあ、無駄になってしまうのなら食べてしまおう、と私はぺらりと皮をめくり、がぶりとかみついた。じゅわりと汁が染み出し、喉を潤した。




くたびれたサラリーマンとすれ違った。猫背で、着ているスーツはよれよれだった。




引きずるような足音で、のそりのそりと歩き、目には何も映っていなかった。




暴力を受ける子供が、自己防衛のために心のスイッチを切ったような、そんな顔。日常という枠に自分を押さえつけ、自分にとらわれ、自分で自分をしばっていた。




振り返り、完全なる夜に飲み込まれてゆく後ろ姿を見つめる。




彼はセピア色のもやを引きずって歩いていた。 




寒い、つらい、寒い、つらい、寒いと心の中で呪文のように唱えているのが、ここまでもれている。




何があったんですか。




大丈夫ですか。




つらいですか。




何のために生きているんですか。




どうして生きているんですか。




授かった生を全うするためですか。




人間って大変ですよね。宇宙観点からしたら、私も、あなたもゼロだから、苦しかったら、死んでも多分大丈夫ですよ。




そう後ろ姿に心の中で声をかけ、また白線の上を歩き出した。






家に着き、そっと彼を起こさないように隣に滑り込む。秋の匂いを薄めたような彼の匂いが鼻をかすめ、胃のしたあたりが熱くなる。自分の居場所を認め、あの頃の自分ではないことに安心する。




すやすやと眠る彼の寝顔を見ると鎖骨がキシキシと痛む。前髪を撫で、キスをした。




彼は、んんーとくぐもった声を出して寝返りを打った。




きっと起きたら、ボサボサの髪型で、私にキスをしてくれるだろうし、いつものふにゃりとした笑顔で、ぎゅっと抱きしめてくれるのだろうなと思ったら、




明日も生きてやってもいいかなと思った。

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私と書いて、僕と読む 茶茶 @tya_tya00

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