夜もやまばなし

常陸乃ひかる

よもやまばにゃし

 日の入りが訪れても、日中の熱気がまだ町に漂っている。

 建物とアスファルトしかない都心に比べ、意識的に街を緑化しているスマートシティの気候は幾分まろやかだが、昼夜問わずにもわっとしている。


 二ヶ月ほど前、梅雨入りとともに越してきたヨジロウは、この町の匂いにも慣れてきた。夜風に鼻先を撫でられて目を開けると、やおらベッドから抜け出した。

 ヨジロウのパートナー――シオンは大口を開け、彼が目を覚ましたことに気づかず、馬鹿みたいな顔で寝ている。

 彼女の父親はスマートシティの開発プロジェクトに携わっている人物で、そのコネもあり、過渡期かとき真っ只中の町へと移住してきたのだ。今は賃貸でふたり暮らし中。モニターの特権として、ここの家賃はほぼほぼ免除されている。

 とはいえ、子供の頃から田園風景を走り回っていた田舎娘にとって、最先端の恩恵は感じにくいようだ。エアコンの冷気が苦手で、今夜もほぼ全裸にタオルケットを一枚かけ、網戸越しの風と、扇風機の首振りで過ごすくらいなのだから。

 一見すると不用心。だが、『犯罪をしない』という、暗黙の了解のもとで成り立っている地方のほうが、よほど治安が悪いのも事実である。近所づきあいこそが最たるネットワーク、なんて戯言は通用しない時代だ。

 ――ヨジロウから、あくびが漏れた。

 日付が変わってもなお、単調なAメロを腹から絞り出している都会のセミたちに目を細めたヨジロウは、眠気が吹き飛んだ今夜をどう過ごそうかと一考した。

 ふと、野外の虫ではなく、腹の虫が気になり始める。

 というのも、シオンという女はヨジロウへの愛が重すぎて、食事量、塩分量、アレルギーにいたっても徹底管理し、健康的な生活をさせるのだ。ヘルシーボディになった分だけ空腹感が増している。

 そうして彼の本能は一気に燃え上がり、で器用に網戸を開けると、二階の部屋から他家の塀に飛び移り、深夜の町へと下りていった。


『まあ、誰かがメシをくれるわけじゃないが』

 常習犯のヨジロウは、慣れた足取りで、当てのない散歩を始める。綺麗な漆黒の毛並みを揺らしながら、いつもの垣根にマーキング。長い尻尾を振り回し、あちこちの匂いを嗅ぐ。

 民家の石柱。横に置かれたタヌキの置物。エノコログサ。道路標識のふもと

 昔の姿を残したままの住宅街を抜け、再開発された繁華街へ移動すると、円柱型の掃除ロボットが巡回していた。人間の子供ほどの大きさで、モニターとカメラがついたそれはネットワーク管理され、この時間帯は防犯も兼ねている。

 当然、『防犯』はペットにも適用される。ヨジロウも漏れなくマイクロチップを埋めこんでいるので、不用意にカメラへ映ってしまうと、すぐさま飼い主シオンに連絡が届いてしまう。すると彼女は町からどやされ、ヨジロウが彼女から叱られ、今後は窓を閉めきった生活を強いられるのだ。

 ちなみに所属不明のノラが町に紛れこんだ場合、保護猫団体が血眼で捕まえにくるらしい。ちょっと怖い。

 食べ残されたフライドポテトの一本くらい落ちているかと思ったが、とんだ見当違いだった。無用の街に尾を向けたヨジロウは住宅街へと引き返した。


 帰宅ルートを変えて町をブラついてみるが、やはり誰の姿もない。防犯カメラが多すぎて、監視されている不安を抱き、家に引きこもる人間も少なくないという。

 不意にヒゲが揺れた――風向きが変わったほんの一瞬、ヨジロウは嗅ぎ慣れない匂いを感じた。方向は斜め上、刹那の殺気に似た圧迫感。咄嗟に最大限の脚力バネを駆使して飛び上がると、すぐ側の石塀を蹴って後方に飛び退いた。

 ヨジロウが歩いていた場所には一匹の同族が、舞い降りるように――それでもって、音もなく着地した。

『二段ジャンプするネコなんて久々に見た』

 それは猫雑誌の表紙を飾れそうな華奢なフォルムと、膨らみの少ない頬、艶のある白い毛並み。ヨジロウよりも若い風貌――おおよそ三、四歳の女は、その場でくるりと体を回し、ブルーの眼を向けてきた。

『不意打ちしかける不良娘ノラネコにしては随分とキレイなこって』

『あなたこそ、やけに毛並みが良いじゃない。飼いネコドメスティックキャットさん?』

『あぁ、悪かったよ。俺はヨジロウ、すぐそこに住んでる。あんたは?』

『わたしはフィーア。暇を持て余した成金人間のアクセサリー』

『悪趣味な自己紹介だな……』

『んふふ、事実を述べただけ』

 フィーアと名乗った女はすぐ、『不意打ちは謝るわ』とつぶやき、塀の上へジャンプした。続けて目を細め、ヨジロウを見下ろしたあと、

『今夜は……話し相手がほしかったの』

 物憂げに顔を逸らしてしまった。

 無視するのも癪だったので、ヨジロウも塀の上へ一飛びし、エジプト座りをして耳だけを傾けた。

『あなた、脱走癖でもあるの?』

 フィーアは語尾を笑いながら、同じように後ろ足を畳んで、お尻を塀につけた。

『あぁ。メシが不味くてな』

『メ、メシ……とは?』

『いや、なんでもない。俺は最近家移りしたんだが、フィーアはずっとここに?』

『えぇ、生まれも育ちもこの町。もう三年が経つかな』

 生温い風が吹きすぎてゆく。わずかに油物の匂いがして、余計にヨジロウの腹の虫が騒いだ。どこかの若い人間が、夜食でも作っているのだろう。


『脱走しても大丈夫なのか? 良いトコのお嬢さんっぽいし、主人が――』

『人間は嫌い』

 家庭環境に口を出すべきではなかったか。ヨジロウの質問は、言い放つようにシャットアウトされてしまった。

『言ったでしょ、わたしは人間のアクセサリー。飼い主をえさせるだけの道具なの。飼い主はわたしにご飯を与える時と、カメラを向ける時以外はまるで無視。だから、わたしがどこに居ようが興味ないの。脱走したとしてもね』

 つくづくヨジロウの環境とは正反対だった。シオンは暇さえあれば体を触ってくるので、ちょくちょく威嚇してやるのだが、それさえも「可愛い!」とほざく。

 あの女は気が狂っている。

 が、フィーアの話を聞くと、自分の環境はまだマシだと思えた。

 反面、自分よりも不幸な者が居る――という慰めは、決して慰めの言葉にならないのだ。人間にもイヌにも、当然ネコにも『個』がある以上、不幸比べは解決にならないということだ。


『だからわたしは、ヒマに任せて街ブラをするようになったの。昔は仲間も居た、アウトローの連中だったけど』

『発情期のオスなんて大変だったろう』

『そうね、襲ってきたオスはもれなく殴り倒したわ。そうしたら、みんな言うこと聞くようになっちゃって、もう大変。んふふ』

 身の上を語っていたフィーアは、物憂げに月を眺めてしまった。

『恐ろしい女……』

『あなたみたいに、一撃を回避できる奴が居なかっただけ』

『元田舎暮らしナメんなよ。つーか、仲間がってことは――』

『そう、みんな保護された。人目もカメラも気にせずに闊歩していれば、すぐに捕まるわ。ま、今は幸せに暮らしてるかも……っていう、オチもない昔話よ』

 フィーアは何度も作った笑みを見せ、早々にピリオドを打とうとしていた。けれど、いじらしくも本心を語りきれていないのは明瞭で、

『話したい気分なんだろう? まだなにかあるなら、ぶちまければ良い』

 ヨジロウは、彼女の見え隠れしている意図へ働きかけずにはいられなかった。ネコ正座をしていたフィーアはそっと香箱こうばこを組み、両目を閉じる。呼吸を整えるようにしばらく体を上下させていたが、開眼すると『つい最近……』と切り出してきた。


『わたしがいつもみたいに夜の徘徊をしていたら、足を引きずっているネコを見かけたの。近寄ってみると、その子は保護されたはずの、アウトローの仲間だった。なぜかノラ時代よりもやせ細り、衰弱してて……』

 フィーアは一拍置いた。躊躇っている様子も見受けられる。

『話を聞くと、貰い手の女から頻繁に乱暴されていたって。それに耐えかねて牙を剥いたら、逆上した女に窓から投げ捨てられ、足を負傷した。それでも、わたしたち仲間のことが忘れられず、何日も彷徨さまよって、つるんでいた場所へ戻ってきた』

『ひでえ話だ。でもネコを引き取った人間は、保護団体の監査が定期的に入るはずだし、データだって紐づいてる。人間だってタダじゃ済まないだろ』

『そうね。そのイカれた女は、こないだ逮捕されたわよ』

『そりゃそうだ――』

『その子が死んじゃったあとで』

 ヨジロウは返す言葉を失った。因果応報という表現を使うべきか悩むほどに、むかっ腹が収まらなくなり、牙を噛み合わせた。

『救おうとはしたの。わたしは持てるだけの食事を家から持ってきて、その子に与えた。その子は、ご飯を少し食べて……消えそうな声で、お礼を言ってくれた。それから、しばらくして動かなくなっちゃった』

 ヨジロウには聞かないフリもできた。陳腐な言葉での慰めも、感情のまま大声で怒り散らすことも。けれど今すべき行動は、どれも違うと思った。

『でもさ、人間のすべてがそうとは限ら――』

『言われなくてもわかってる! わかってるから余計に、目の前で死んだその子が不憫で……! あ、えと……ごめん』

 どうやら、この選択肢も違ったようだ。ヨジロウは反省とともに、なにも言い返さず、彼女の言葉に耳を傾け続けた。


 小金持こがねもちが、流行りという理由だけでスマートシティに移住し、ゴミほどの承認欲求から、似つかわしくないブランド品を身に着け、同じような成金豚野郎をはべらせ、最終的に動物を飼うところへ行きつき、それをSNSで拡散する。なぜなら、自分が幸せであるように振舞い続けなければ死んでしまう生き物だからだ。

 が、そんな哀れな人間に飼われることでしか自分を見出せない生物も居る。

『――わたしよりも不幸なネコは、世界にたくさん居る。けれど、それは……慰めの言葉にはならない。だってわたしは……あすも、その先も生きるから』

 フィーアが、わかりやすく目を落とした。ヨジロウも同じようにうつむいたあと、

『あのさ、フィーアは――』

 すぐに顔を上げた。が、もう誰の姿もなくなっていた。しなやかな純白の体は、悠遠の闇へと消えてしまったのだろうか。今夜の風がどれだけ気持ち良くとも、ヨジロウへの慰めにはならなかった。

 そうして重い足取りで部屋に帰ると、尿意で目覚めたであろうシオンがトイレから戻ってきたところだった。

「なにしてるのヨっちゃん!」

 という大声が耳をつんざいた翌日から、シオンは窓を閉めきり、嫌いなエアコンを我慢してつけるようになった。

 人間はネコの幸せを願い、ネコは人間にとっての幸せに従い続ける。


 連日、大口を開けて馬鹿みたいな顔をして寝ているシオンが、一生知ることのない――むしろ、知らなくて良い悲しみがある。

 あの日の夜は、ヨジロウ本人が死ぬまで忘れないのだから。

『あのさ、フィーアは――』

 けれど彼女が姿を消す直前、ヨジロウがどんな言葉をかけてあげようとしていたのか、それだけはずっと思い出せなかった。

 大事な感情も出来事も闇に呑まれ、一時の幻だったとさえ錯覚する。


                                   了

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