第16話 沙羅と雷電

 真っ白な褥の上、白い衣を纏った私を抱きしめる腕があった。

 日焼けした傷だらけの腕。

 彼が戦を駆け抜けた証。


「好きだ……君を一目見た時から私は君のことが忘れられなかった」

「お戯れを。初めて出会ったのは戦の場。剣を交えた相手に惚れたというのですか」


 そう、彼との出会は戦だった。

 お互い剣と剣を交えた敵同士だったのだ。


 私の名は緋野沙羅ひのさら

 と呼ばれる大陸はそれまで戦乱の世で、我が緋野家も隣国の蒼間家と長い間領土を争っていた。 

 戦場において私と彼は互角に戦っていたと思う。

 何度か剣をぶつけ合い、押し合いになった時、初めてお互いの顔を間近で見た。


 驚く程秀麗な顔に、一瞬だけ心が揺れた。

 ほんの一瞬だけだが。

 その時撤退の法螺が鳴り、私は戦うのをやめた。

 家臣が連れて来た馬に乗り立ち去る際、向こうから名を名乗ってきた。


「我が名は蒼間雷電そうまらいでん。貴女の名は?」

「緋野沙羅」

「沙羅か……覚えておこう」



 和平協定の申し出があったのは蒼間家の方だった。

 蒼間雷電は、私を妻にすることを強く望んだのだ。

 緋野家当主だった父親は、その申し出を承諾しつつも私に密命を下した。

 

 蒼間雷電を殺せ、と。


 我が緋野家が恐れていたのは、蒼間家当主ではなく、息子である雷電の方だった。

 雷電は父親の軍師として活躍するほど聡明な人物。

 そんな人物が何故、私を妻に望んだのか分からない。

 向こうは向こうで何か企みがあるのかもしれない。

 和平協定が結ばれたとはいえ、蒼間側も私が刺客として嫁いできていることは織り込み済みの筈。

 おかしな動きがあると分かれば、私はすぐに殺されるだろう。

 どんな冷遇も覚悟していたが、夫となる蒼間雷電は私を温かく迎え入れてくれた。

 そして彼から想いを告げられたのだ。


 好きだ、と。


 初夜。

 雷電は私をゆっくり押し倒し、まるで労るように額や頬に口づけをしてきた。

 口づけに夢中になる雷電に私は布団の下に忍ばせていた短刀に手を伸ばそうとしたが、その手はすぐに捕らえられた。

 雷電は私の両手首を軽く押さえつけ、唇を重ねてきた。

 驚く程柔らかくて温かい……彼は貪るように深い口づけを求めてきた。

 生まれて初めて交わす濃厚な口づけに私は次第に身体の力が抜けてゆくのを感じた。

 


「……こ、このようなこと。つい最近まで敵同士だったというのに」

「もう、そなたと私は夫婦だ。何も問題はない」


 私は今一度、彼の顔を見る。

 黒い目、黒い髪の毛……いや、よく見ると濃紺であることが分かる。

 私は雷電に問いかける。


「先程私が何をしようとしたか分かっていて、それを言うのか?」

「殺せるものならいつでも殺せ。そなたにならいつ殺されてもかまわないと思っている……ただ、そう簡単には殺させないが」


 そう言ってから雷電は私の首筋に軽く歯を立てた。

 しびれるような感覚に私の身体は震え、思わず相手の名を呼んでいた。


「ああ……雷電ッッ……」



 私の身体には癒えぬ傷があった。

 肩と胸、そして背中に。

 傷跡は決して癒えることはない。

 どう見ても醜い身体なのに、ライデンは私のことを美しいと言ってくれた。

 領土を守った証でもあるこの傷も愛しい、と。

 実家からは使い捨ての駒のように扱われていた私にとって、雷電の言葉は泣きたいほど嬉しかった。

 いつも激しく求められ、愛されていく内に、凍り付いていた私の心は氷解し、いつしか雷電を愛するようになっていた。

 けれども私は蒼間家と敵対する緋野家の娘。

 本当の気持ちを告げることは許されなかった。



「若君、あの娘は殺すべきです……緋野家はあの娘を使いあなたの命を狙っているのです!!」

「黙れ。 あの娘は俺自身が望んだのだ。今度そのようなことを申したらお前を斬る」

「……っっ!?」


 蒼間家の家臣の中には、私を殺すよう忠告する者達が何人もいた。

 私が緋野家の刺客としてここに送られて来たことは間違いない。

 けれども私自身はもう実家の意向に従う気はなかった。

 自分を捨て駒のように使ってきた実家よりも、自分を愛してくれる人間の為に生きたいと思ったから。

 ただそれを主張したところで、蒼間家の家臣達は信じてくれないだろう。

 出来ることなら、雷電と共に暮らす日々が一日でも長く続くことを願っていた。


 だが時代は無情にも私達を引き裂いた。


 ある日、実の兄が兵を連れて蒼間家を訪ねてきた。

 雷電は兄を歓迎し宴を開くことに。

 私は兄の訪問に嫌な予感がしていた。

 父は……なかなか暗殺を実行しない私に業を煮やしたのだろう。

 雷電と兄が杯を交わしたその時、緋野家の家臣の一人が立ち上がり雷電に斬り掛かろうとした。

 私は両手を伸ばし雷電の前に立ちはだかった。

 緋野家家臣が振り下ろした刃によって、肩から胸にかけて私は斬られた。


「沙羅、貴様、何故蒼間雷電を庇った!? 緋野家の命を忘れたのか!?」


 思わず叫ぶ兄を、蒼間家の家臣が取り押さえた。

 宴の場は一変して、戦場となった。

 蒼間家の家臣と緋野家の家臣は刀を抜き、斬り合いとなったのだ。

 しかし兄も所詮、蒼間雷電を殺す為だけに父が寄越した捨て駒に過ぎない。多くの兵士を連れていたわけではないので、緋野家の家臣や兵士はすぐに制圧された。

 戦いが終わり、私は雷電に抱き起こされた。


「沙羅……何故、俺を庇って? ……お前は俺を殺しに来たのではなかったのか?」

「あなたは私に愛することを教えてくれた。だからあなたの為に生きて、あなたの為に死にたい……そう思えるようになったのです」



 かすれた声で私は雷電に告げた。

 体中激痛に苛まれている筈なのに、自然と笑みがこぼれた。

 今、やっと自分の想いを告げることができた。

 それがとても嬉しかった。


「お、奥方!! 私は……私は……あなたをずっと疑っておりました!! お許しを!!」


 以前、私を殺すように雷電に進言していた家臣が涙声で訴えているのが聞こえてきた。

 私は首を横に振る。


「あなたは家臣として、間違ったことは言っていない……あまり自分を責めないで」


 周囲からはすすり泣く声が聞こえてきた。

 蒼間家の家臣や、使用人達だ。

 私を快く思っていない人もいたが、私を蒼間家の妻として丁重に扱ってくれる人も多かった。

 死ぬときは一人だと、ずっと思っていた。

 家のために戦って死んでゆく……自分が死んでも誰か悲しむことなどないだろうと思っていた。 

 生まれ育った緋野家にとって自分はただの駒に過ぎなかったから。

 

 ふと頬に冷たい感覚がしたので雷電の顔を見ると、大粒の涙が彼の目からこぼれ、私の顔に落ちていた。


「嫌だ……沙羅。嫌だ、嫌だ、嫌だ!!」


 鬼神と呼ばれる程、戦場では恐れられていた雷電なのに、彼は子供のように泣きじゃくっていた。

  



 雷電、泣かないで……。


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