第3話 「潔癖症ミニマリストは、倖せの匂いで陥落する」
「海音っ! ……ああああ……見てしまったか……」
林太郎の声がした。おれは吐き気も忘れて目の前の光景に見入っていた。
背後にはピカピカの部屋。ゴミもちりもなく、本棚の背表紙さえミリ単位で整えられている潔癖症、ミニマリストの部屋があった。
だがいま、おれの目の前にあるのは、物であふれた風呂場だ。
物、というより限定的に『シャンプーボトル』だけがあふれた風呂場だ。
「……なんでこんなに、シャンプーばっかり……おまえ、家系的にハゲるタイプか?」
「ちがう。父も祖父もひい爺さんもフッサフサだ」
「じゃあ、なんでだよ? こんなに大量のシャンプーをおくなんて、おかしいだろ。
『ダイセイコー』『イーマ』『海風』……うわ、なつかしいな、『ジオス』まである! おれ、学生時代に使っていたよ!」
「……だからじゃないか」
ぼそっと林太郎が言った。
「ぜんぶ、お前が使っていたシャンプーだから、置いてあるんだよ」
「は?」
振りかえると、頭脳派ミニマリスト弁護士が顔を赤くしてそっぽをむいていた。
「……なんだって、林太郎?」
「おまえが使っていたシャンプーだから、全部そろえてあるんだよ!
好きなやつと同じ匂いになりたいに、決まってるじゃないか!」
「……は」
林太郎はますます赤くなった。そしてますます、そっぽの角度が大きくなった。
もうほとんど後ろを向いてしまい、耳しか見えない。
耳たぶまで真っ赤になった耳だけが。
赤い耳がふるえるほどの大声で、林太郎は言った。
「俺は嗅覚が、異常にいいタイプなんだ。おまえの髪から香るシャンプーの銘柄なんて、4秒でわかるんだ!」
「あ……そうなの……」
「この8年、ひたすらお前の髪の匂いだけをかぎ続けてきた俺の気持ちが、分かるか!?」
おれたちは、狭い風呂場で顔を見合わせた。
なんだかひどく、おかしくなってきた。
「じゃあ、今は何を使っているか、分かるか?」
「……わからない。なんだか、ぐちゃぐちゃで」
「じゃあさ、かいでみなよ、ほら、今!」
ぐい、と頭を近づける。林太郎が一瞬だけ固まって、それからそっと鼻を押し付けるのが分かった。
「……ティグロ、薬用スカルプノンシリコンシャンプー……」
「すげえ、一発だな。大正解だよ。ぐちゃぐちゃ、おさまったか?」
林太郎はむやみに鼻を押しつけてきた。
「おさまらない……よけいにぐちゃぐちゃになった。どうしてくれるんだ、海音」
俺は笑った。腹の底から笑った、あんまり幸せで。
腹の底から……底……胃袋……。
「ぐじぇえええ! はきそうだ、林太郎!」
「ばか、ここで吐くな、俺の聖域だ!」
「まてない、まにあわないいいい!」
その夜。おれと林太郎は諸般の事情から、一緒のシャンプーを使った。
それ以来、おれたちの髪からは同じ匂いがする。
潔癖症ミニマリストを陥落させた倖せの匂いだ。
【了】
『潔癖症ミニマリストは、嗅覚で陥落する』
2023年3月8日
参考サイト:
アディーレ法律事務所
https://www.adire.jp/lega-life-lab/causes-of-defamation-on-the-internet-and-crimes-to-be-charged1717/
【KAC20233】「イケメン潔癖ミニマリストは、嗅覚で陥落する」 水ぎわ @matsuko0421
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