幕間 夜

 暗い回廊を姫白英はひとり歩く。

 夜はもう遅い。今日は月影もない。

 そんな夜、彼は宝玉宮を出て中央殿にいる。

 徳秀を宝玉宮で雇えたのはよかったのかどうなのか。

 おかげで玉蘭を彼に任せて白英は今ここにいるわけだが、しかし白英はまだ徳秀を完全に信頼してはいなかった。


 ――いや、別に俺が信頼していないのは徳秀だけに限ったことではない、か。


 馬玉蘭を信頼するか。白英はまだ決めかねていた。

 もちろん、玉官としては今は信頼するほかない。

 今、珠国の後宮に玉官は1人。彼女が間違えれば、すべてが間違いになる。

 それでも、すべてを語るにはまだ早い。姫白英はそう判断していた。


 回廊の果てには仰々しい扉があった。その前には衛兵が立っていて、白英を認めると軽くうなずいた。

「お待ちです」

「ああ」

 衛兵は中に確認することもなく、扉を開けた。

 本来ならば許されることではないが、白英に対してはそうしてよいということになっている。

 この中央殿、皇帝の寝殿において、白英はそれだけの権限を与えられていた。


 ――まったく、ずいぶんと信頼の厚いことだ。


 並みの人間なら恐縮してしまうような待遇を、白英はどっしりと受け入れている。少なくとも人前ではそう振る舞う。

 白英が部屋に入ると、扉は音もなく閉められた。

「姫白英、ここにまかり越しました」

「ご苦労」

 恭しく面を伏せた白英に対し、返ってきたのは皇帝の声ではなかった。

「――東宮様」

「うん、俺だ」

 感情の籠もらない声で、男はしゃべった。

 男は寝台の横で、だらりと椅子に掛けていた。

 世界広しといえど、皇帝が横になる寝台のかたわらでこの振る舞いが許されるのは、東宮一人だろう。

「……天子様の前です。もう少ししゃきっとなさるのがよいかと」

「相変わらず小うるさいな、元気そうでけっこうけっこう。しかしまあなんだ、しゃきっとしようとだらっとしようと変わりはない。どうせ見てはおられぬ」

「…………」

 東宮の言葉に、改めて白英は皇帝の様子をうかがう。

 皇帝は寝ていた。

 端的に言うならそうなるが、しかしその様相はただ寝ていると言うにはあまりに苦しげであった。

 口は半開き、目も少し開いているが、覗いているのは白目である。時折、口から声にならない音が漏れ聞こえてくる。小刻みに手足は震え、ひとときも休まることはない。

 そして声を掛けたところで応答は一切ない。寝ていると言うよりは、昏睡と言った方がよいだろう。

「今日はこれでも、一瞬起きたらしいぞ」

 そう言って東宮は肩をすくめた。

 起きたのを見ただろう側近は、今はこの部屋にはいない。

 人払いは東宮の手でされた後だ。

「まったく……人間というのは意外に生きるものだな」

 東宮は皇帝にそう言って鼻を鳴らした。

 なんとも不敬な言葉だが、それに対してどうこう言ったところで東宮は聞くまい。

 それでも――。

「病身の親に子がかける言葉ではありませぬな」

「天子様への礼儀の次は親への孝か? 本当に手を替え品を替えよくしゃべる」

 東宮は、少しだけ笑った。気持ちの良い笑みではない。せせら笑うような顔だった。

「常々思うんだがな、親不孝を説くなら、まず親には尊敬出来るような親であってほしいものだ、と」

「……それはあまり一般的な孝への考えではありませんね」

 孝。親への敬いというものは無条件でなされるべきである。少なくとも、この国ではそういうことになっている。

「一般的……か」

 東宮は、気だるげにため息をついた。

「普通など、望まれている我が身でもあるまい」

 次代の天子はそう言った。

 東宮の胸元で、玉が揺れる。軟玉ネフライト。馬玉蘭が身につけているものとは違い、東宮の玉は白色だった。

 元々、一番最初に玉を見いだした人間は真っ白な玉こそ天子にふさわしいと言ったらしい。

 それが華美を愛するものたちにより、次第に緑の方が好まれるようにもなったが、東宮ともなれば、身につけるのは伝統を重んじ原初の白だ。

「…………」

 白英はそれを見る。白。天子にふさわしい白。

「さて、下らん話はここまでだ。報告を聞こうか、白英」

「はい」

 この人の言う下らない話とは、どこからどこまでのことを言うのだろう。

 白英の疑問はただ彼の胸の中へと消えた。


 白英は語り出した。

 楊玉官と楊賢妃にまつわるあれこれを。ついでに、徳秀という下級宦官を宝玉宮に迎え入れたことや、普段の馬玉官の働きぶりについても触れた。

 それを東宮がどう聞くかはわからない。

 玉官の死について以外は蛇足だと言われるかも知れない。

 それでも、白英は語った。語るのにちょうど良い隙間を見つけながら。


「ふうん。つまり、結局のところ楊賢妃とその子らは信頼して良さそう、か」

「……そうなりますね」

 東宮は、大粛清で弟ふたりを喪っている。

 皇帝から叛逆の意思ありとみなされた弟だ。それほど惜しかったわけでもないだろうが、それでも信じられる相手とそうでない相手くらいは見抜いておきたいところだろう。

 何しろ貴重なきょうだいだ。

「楊家への反感は、特に姫家の連中からは大きいが……まあ、いいか。どうとでも黙ってもらおう」

 姫家。東宮の母方の血筋。姫白英の実家でもあるが、この際、まあそれはいい。

 自分の後ろ盾にすら、この態度である。

「楊家をさらに強固に味方とするためにも、楊玉官は被害者として正式に弔う。草案を用意しておけ。皇帝の決め事を覆す草案だ。腕が鳴ろう」

 東宮は愉しそうにそう言った。

「俺がですか……?」

「お前以外に書けるものが誰がいる。すべてを把握しているのはお前だけだ」

「けっこう宝玉宮の仕事も忙しいのですが……」

「そうか、励め」

 東宮は白英の文句に聞く耳を持たない。わかってはいたが、ため息をつく。

「……あとは崔徳妃の子か」

 悩ましげに東宮が顔をしかめる。

 崔徳妃。現在、皇帝の最後の子を宿す妃。

「女子ならな。どうとでもできるから、楽だがな。下手に男子だと、またどうもな」

「……ええ」

 ふたりの間に重苦しい空気が漂う。

 後宮においては周知のことであるが、崔徳妃の第一子、皇子こそ、第粛清の折に反乱の首謀者として廃された皇子のひとりであった。もうひとりはもっと位の低い妃嬪の子だった。

 妊娠がわかったため、崔徳妃への処分は保留になっている。そうしている間に皇帝が人事不省に陥ったので、彼女の立場は宙に浮いていた。

「男だからと簡単に殺すのも仁を損なう。かといって見逃すのもな。据わりが悪い。……死んだものたちの周りも納得しづらい」

「いや、まったく……しかしまあ孝を否定した口で仁を語りますか」

「年下には優しいんだよ、俺は」

 冗談なのかどうなのかわからぬ調子でそう言うと、東宮は胸を張って見せた。

「なるほど、俺も年下に生まれればよかった」

「ははは。お前に優しく出来る気はしないな」

「…………」

 あんまりな物言いに白英は黙った。


「……以上でよろしいですか?」

 しばらくしても東宮から何も言い出さないので、白英は自らそう尋ねた。

「ん……。そうだな、まあなんだ、馬玉官を頼んだぞ」

「……はい」

 結局、東宮が馬玉蘭をどう評価しているかはわからなかったが、少なくともさっさと首にしろとはならなかった。

 まあ、首にしなければいけないような失態はないのだから、当たり前だろうが。

「お前こそ、東宮妃に伝言などないのか?」

「ございません」

 被せるように素早く白英はそう言って、部屋を辞した。

 東宮は去って行った男のいた場所をボンヤリと見たが、肩をすくめ、人を呼び、自身もまた部屋を去って行った。


 白英はひとり回廊を行く。

 月のない真っ暗闇の中を、白英は宝玉宮へと急いだ。


 ――宝玉宮の仕事はいい。たとえどれほど難解な人探しであろうと、東宮や天子様から言いつけられる無理難題よりはよほど、単純でわかりやすい。


 いっそ宝玉宮へ郷愁にも似た感情を抱きながら、宦官は闇の中を進んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

後宮住まいの宝石商 狭倉朏 @Hazakura_Mikaduki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ