色葉花乃②

 俺がヒノカラ専を卒業した日から一箇所月と少し、俺と色葉はそれなりに仲良く過ごしていたと思う。いわゆる友達以上恋人未満という感じ。

 六月に入り、雨の日が増え、屋上の快適度がグッと下がってしまった今日この頃──その昼休み。

 この時間の教室は、仲のいい者同士が机を寄せ合ってカロリー摂取に興じるためのカオス空間になってしまうので、こういうにぎやかな空間が遺伝子レベルで生理的に無理な俺は、当然の帰結として授業が終わるや否や教室から逃げ出した。

 人の認識の隙間を縫うように、そして足音を殺しながら早足に進み、目的地である旧生徒指導室の前まで来ると一度、耳を澄ませて周囲の気配を探った──目撃者なし。次いで部屋の中へ五感を延ばし、室内の状況確認──在室者なし。不都合な人物はいない。

 ポケットからイケナイ秘密道具を取り出す。それを使って慣れた手つきで鍵を破り(約三十秒)、中に身を滑り込ませた。ここまでで午前の授業終了から三分も掛かっていない。まさにプロの犯行と言えよう。

 さて、腹も減ったし、さっさと食べよう。しかし、コロッケパンの袋を破ろうとしたその時、スマートフォンが通知音を鳴らした。

 見ると、色葉からメッセージが来ていた。

『お昼一緒に食べるって約束したのにどうして教室にいないの?!』

「あ……」完全に忘れていた。

 数分後、色葉はプンプンしながら旧生徒指導室に現れた。「もうっ、油断するとすぐ隠密行動するんだからっ!」

 普通に生きてたら耳にすることのない文句と共に色葉は、テーブルに──俺の向かい側に──着いた。

「わ、わりぃ、つい甲賀の血が騒いでしまって……」

「絶対嘘だよね」とあきれたように言ってから色葉は、手に持っていた弁当の包みをほどいた──ん?

「何で二つあるんだ?」

「……」一拍の沈黙の後、色葉は恥ずかしそうに早口で、「うっかり弟たちの人数を勘違いして一つ多く作っちゃったの! 気がついたら空韻君の好きな甘めの卵焼きが目の前にあって! なぜかわからないけれど丁度いいサイズのお弁当箱がキッチンに用意されてて! 置いてきたはずなのに学校に持ってきてて!──不思議だね!」

「絶対嘘だよね」俺はあきれを含ませた視線を送った。

「ぁぅ」と口をもにゅもにゅ。頬を赤らめてもいる。「パンだけじゃ足りないんじゃないかと思って……や、やっぱり迷惑だったかな……?」内心を窺うように上目遣いに俺を見ている。

「逆にそっちは迷惑じゃないのか? 色葉家の食材使うわけだろ」

「それは大丈夫」色葉が断定的に言った。「お母さんの承諾は貰ってるから」

「お母さんは何か言ってた?」

「……」さっきより顔を赤くして、「『男を落とすには性欲と食欲を管理してやるのが手っ取り早い』って……」

「管理て」

「でも、空韻君にはえっちなことは意味ないし、わたしもそんなことしたくないし、それなら胃袋を掴むしかないかなって……」

「ありがとうごさいます。遠慮なく頂かせていただきたく存じ申し上げます」

「うん、ちゃんと食べて国語の勉強がんばって」

 そして、いつもよりだいぶ豪勢なランチが始まった。

 色葉の作ったという卵焼きを頬張る。たしかに好きなタイプの味付けだった。何ならうちのオカンのより好きかもしれん。色葉すごいなぁ──。

 すると、「どうかな?」と感想を求めてきた。

「お袋の味レベル二百って感じ」

「あ、うん、ありがと?」 

「いえいえ、こちらこそありがとうごさいます」たわわな果実を見ながら食べる昼飯は格別っすわ。

 というのは一割だけ冗談で、そういうことを抜きにしても色葉と過ごす時間は、すごく気に入っていた。彼女も俺もハイテンションにレッツパーリーするタイプではないため会話が途切れることも少なくないが、不思議とそれで気まずくなることはなく、むしろその沈黙こそが心地よいと感じていた。

 有り体に言えば──俺の中の優先順位では、すでに彼女は〈孤高のなんちゃら〉であることより上だ。そうでなければ、彼女と過ごすはずがない。冷たく突き放して終わりだ。

 だから、不安そうな表情の色葉に、

「空韻君はわたしのこと嫌い?」

 と尋ねられた時には、

「嫌いじゃないよ」

 と即答できた。

「じ、じゃあ好き?」

 この流れはまずいのではないか、という予感が鎌首をもたげていたが、俺には選択肢はなかった。

「……好きだよ」

「それは『like』って意味? それとも──」

「『I’m attached to you』とか『You’re my soft spot』って意味」

 ストレートに〈love〉なんてこっぱずかしくて言いたくなかったので、回りくどい言い方をしてしまった。けど、

「……ぁぅ」色葉は理解してくれた。流石は洋楽好きJK。

 しかし、うれしそうにしていたのも二、三秒のこと、色葉はまた眉を曇らせた。「でも、付き合いたくはないんでしょ……?」

「そ、それは……」と俺は言葉に詰まった。

 というのも、現在俺は、彼女からの告白の返事を保留にしている──事実上彼女をキープ扱いしてしまっているからだ。

 十日前──

「ね、わたしたち付き合おうよ!」「わたしたちなら」「きっと上手くやっていける」

「うん!」

「絶対にセックスを求めない、約束する」

「だから……」

「だから、わたしを空韻君の彼女にしてください!」

 と告白してきた色葉は、おそらく俺が快諾するものだと思っていたはずだ。俺は色葉への好意を隠しきることなどできていなかったし、彼女に至っては隠すつもりがないようだったから、両思いであることは二人の共通の認識だった。

 しかし、俺はそれに対してうなずくことはできなかった。「いろいろ考えたいから返事は少し待ってほしい」とずるい言葉で答えていたのだ。

 だって、セックスなしってのが、たぶん無理だから。今でさえまっすぐに好意を向けられて暴走寸前なのに、これ以上になったら自分を抑えられなくなるに決まっている。そうなってしまったら彼女の心に更に深い傷を負わせてしまうだろう。もう恋愛なんてしたくない、男なんて信用できない、となるかもしれない。それは避けたい。

 ただ、俺としても色葉の心を離したくなかった。かなり自分勝手なことをやっている自覚はあるが、先ほど口にした「I’m attached to you離れがたい」というのも嘘ではないのだ。

 要は、理屈と感情に挟まれてどっちつかずになってしまっているのだ──いや違うな。それは俺に都合のいい解釈でしかない。結局は自分がかわいくて、本当の意味では色葉を想えていないだけなのだろう。だから、「俺、セックスに興味ないんだよね」というのが嘘だったと打ち明けられない。打ち明けたら嫌われるとわかっているから。

 はぁ、と胸の裡で溜め息をついた。ややこしいことになってしまったなぁ。何であんな嘘をついてしまったのか。あれがなければ今も穏やかなぼっち生活を送っていただろうに……。 

 捨てられて寂しそうに鳴く子猫のような雰囲気ながら、落ち着いた声色で色葉は言う。「勘違いしないでほしいんだけど、わたしは怒ってるわけじゃないよ。空韻君は女の子を都合良くキープするような人じゃないって知ってるんだから」

「……」ざ、罪悪感すげぇな、おい。

「でもちょっとバk──変わってるから考えすぎちゃって時間が掛かってるだけだって、わたしちゃんとわかってるよ」

「なぁ今、『バカ』って言いかけたよな?」

「さっきはいじわるな言い方して、ごめんね。でもわたしも辛いの。『また振られちゃうかもしれない』『空韻君との時間が終わってしまうかもしれない』って思うと心がぐちゃぐちゃになっちゃって」

「……」完全スルーすか、そうすか。

「ね、空韻君」そこで色葉は儚げな微笑を浮かべ、「大好きだよ」

「……っ」や、やめろ浄化されて塵になるわ! つーか理性が持たねぇよ!

 はは、と彼女は恥ずかしそうに乾いた笑みを零した。「これじゃあ脅してるみたいだね」こんなつもりじゃなかったのにおかしいなぁ、と困ったように歪めた目元には、すでに涙の気配があった。「ああもう、自分が嫌になるっ。あなたの前ではもっといい女でいたかったのに──無理だよ、どうしてもできないっ」と小さな手のひらで顔を覆った。

「……」胸が痛い。俺はどうすれば……。

「空韻君のことが好きなのっ!」声を乱しながら涙混じりに色葉は、言葉を吐き出す。「大好きなのっ、お願い、いなくならないでっ、がんばるから、わたしがんばるからぁ、わたしと同じ気持ちになってよっ、一人は寂しいよぅ、空韻君だけなのっ、わたしのことをわかってくれたのはあなただけなのっ、お願い、わたしを好きになって、もっと近くに来てっ、やだよっ、嫌いにならないでっ、お願いっ、お願い……わたしを愛してよっ……お願いだからぁ」それきり彼女は言葉をなくし、声を殺して、ただ泣いていた。

「……」うわぁ、くだらない嘘をついちゃったせいで、えらいこっちゃ。

 ややあってから、俺は観念したように溜め息をついた──本当に〈You’re my soft spot君には敵わないよ〉、と。

 そして、色葉の近くに移動しようと思い、立ち上がった。椅子が床に擦れ、耳障りな音を立てた──びくっと痙攣するように身体を揺らして色葉は、顔を上げた。俺がこの部屋から出ていこうとしていると思ったのか、瞳には絶望の色が浮かんでいた。

 罪悪感に促され、

「ごめんな」と口にすると、

「ぁ、ぁぁ、やだ、やだっ、そんなこと言わないでっ、ダメっ」色葉も立ち上がった。椅子が激しく動き、俺の時よりも大きな音が鳴った。

「お、おい、勘違いしt──」

 続く言葉は、色葉が抱きついてきたことで吹き飛んでしまった。

「やだ、やだやだぁっ、いなくならないでよぅ、ダメだからっ、絶対離さないからっ、ひどいよ、好きって、好きだよって言ったじゃんっ、やだぁやだぁやだぁっ──!」

 子供のように泣きじゃくる色葉の背中に手を回し、おっかなびっくりといった具合にゆっくりと力を込める。

「ぁ……」色葉はおとなしくなった──借りてきた猫かな?

「こういうのは大丈夫?」彼女の耳元に尋ねた。「嫌じゃない?」

「ぁ、ぁの、だい、だいじょぶ……ぁぅ」

「話していいか?」

「ぅん」

 だそうなので、つっ立って密着したまま話しはじめた。「俺、がんばるよ」

「?」

 色葉には意味がわらないだろうけど、構わず続ける。

「色葉を悲しませないようにがんばるから」

「……」色葉は表情を隠すように俺の胸に顔を埋めた。

「待たせてごめんな」

「……うん」

 すぅ、と息を吸ってから、

「好きです。俺の彼女になってください」と人生初の告白。

「……」しかし返事はない。ただの色葉のようだ。

「……」え、これ振られたりしないよな?

「……ばかぁ」唐突に色葉が声を発した。「空韻君がいじわるするから、恥ずかしいところいっぱい見せちゃったじゃん……」

「わ、わりぃ」ホントごめん──こうやってくっついてると、こう……湧き上がるムラムラがあるというか……。

「……もういじわるしたらダメだよ」

「お、おう」正直、勃ってきてんだよ。そろそろ離してほしいんだけど……。

「……離さないからね」

「エスパー?」

「ふざけないで」

「はい、ごめんなさい」ホントヤバい、バレちゃうから! ○起してるのバレちゃうから!

「……ずっと好きでいてね」

「約束する。だからそろそろ離しt──」

「ダメ、許さない」

「はい……」

「……」

「……」

「……ちゃんと反省した?」

「もちろんです」それはそれとして、股関が辛いです……。

 上半身を離して色葉は、俺の顔を見上げた。「じゃあ、今日から色葉花乃かのは……い、維月君の彼女です」と恥じらうように宣言し、「これからよろしくね」と柔らかい笑顔──かわいいものすごくヤりたい。

「あ、ああ、よろしく」これはキツイ。こんなこと──スーパー生殺しタイムがこれからも続くのか……? やっていけるのか、俺に?

「何か反応が冷たい……」

「い、いや違うんだ、ええと、空気を読めずに非常に申し訳ないんだが、その、実はさっきからトイレを我慢してて──」

「え、そうだったの?!」色葉は、パッと身を離した。

「ああ、そろそろ限界だからトイレに行ってきていいか」

「ごめんなさい、行ってきて」

「ああ、悪いな」と答え、俺はトイレに駆け込んだ。

 がんばるとは言ったものの、理性を保てる自信はない。洗面台の鏡に映る俺も、不安げな顔をしている──いや、そうでもなかったわ。にやにやしてて我ながらきしょいと思う。

「……」

 しかし治まんねぇな。早く戻らないと昼飯食べる時間がなくなってしまうというのに。

「はぁ」

 苦難の予感しかねぇわ。

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セックスなしの彼女じゃダメですか? 虫野律(むしのりつ) @picosukemaru

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