18 ライムイエローの色鉛筆

 マルガレットが王宮に住み始めて一か月が経とうとしていた。

 ブルーヘミアという超大国の王子との婚約によってマルガレットの生活は大きく変わる……かに思えたが、今のところ誰かに何かを指示されるということもなく、至って平和な毎日を送っている。平和と言えば聞こえはいいが言い方を変えれば、つまり退屈だった。

 王族に嫁ぐからには厳しい花嫁修業が待ち受けていたり、はたまたジスデリアのクラナビリティ習得のために過酷な特訓に明け暮れる日々が始まるのだろうと覚悟していたがそういったことも一切ない。


 一か月前の王宮に移住し始めた日、マルガレットはジスデリアと別れ自室に戻ると、執事から王宮で暮らしていく上での簡単な注意事項だけ伝えられた。使用人の呼び出し方法や一人では行ってはいけない場所の説明。たったそれだけ。課題ややるべきことの指示などはなく、唯一お願いされたことといえば「ジスデリア坊ちゃまのことをどうぞ宜しくお願いいたします」だ。


 宜しくと言われても困ったなと、マルガレットが愛想笑いを浮かべていると今度は侍女を一人紹介される。名をボレロという。

 その日からマルガレットの世話係がベルタとボレロの二人体制で行われるようになった。少女のような体躯から、てっきりマルガレットやベルタよりも歳下だと思っていた彼女は後々聞いた話だと二人よりも二歳年上であった。

 翌日はそのボレロに王宮内を案内された。ボレロはベルタよりも物静かで、綺麗に切り揃えられた黒いボブヘアから覗く金色の瞳はまるで黒猫のようで、どこか掴みどころのない不思議な雰囲気が漂っている。王宮内の案内が一通り終わると、午後は再び自室に戻り休憩がてらお茶を飲みながらゆっくりと過ごした。


 それからというもの三日目以降はほとんど同じルーティンで生活している。

 起きたらまず部屋で朝食を摂り、ベルタとボレロと共に王宮を散歩し、昼過ぎになると自分の部屋に戻りアフタヌーンティーをしながら実家から持ってきている本を読んだり、花の絵を描きに薔薇の庭園を訪れたり。

 夕食は食堂に行ってもジスデリアと会うこともなければ、それぞれ忙しいのかキースや国王、王妃と顔を合わせることもないので、一人で広い食堂で食事するのもなんだか寂しく感じ始めたマルガレットはいっそ自室で食事をしようかと思い始めているところだ。


 お互いの家族や使用人たちに悪い印象を抱かれないように、この一か月間に五、六回ほどジスデリアの部屋を訪れた。とは言っても部屋に訪れても毎回ジスデリアに会えるというわけではなく、何回かに一度は不在で会うことは叶わなかったのだが。

 一度目の逢瀬は三日目の午後。決して特別親しくなれたわけではない二人は、元々言葉数も多くないことからそれぞれ黙々と読書に集中し、時にマルガレットは本棚やキャビネットの整理などをしたり、気が付けば部屋のソファでうたた寝をしながら時間を潰すというのが日課になりつつあった。

 本当はジスデリアが普段どんな本を読んでいるのか興味があったマルガレットだったが、集中している中、声を掛けてはまた何か嫌味を言われかねないと口を結び、結局何を読んでいるのかは未だ聞けずじまいだ。

 強いて二人が話したことと言えば「本棚を整理してもよろしいでしょうか」「うん」「紅茶のおかわりをお淹れしましょうか」「ああ、お願い」とそれくらいであった。

 そしてつい昨日も部屋に訪れたのだが、やはりどこかへ外出中のようでジスデリアとは会えずに終わった。最近少しずつ慣れてきたと思えたところだったのに。


 実を言うとマルガレットは前よりもジスデリアに対する苦手意識がほんの少しだけ薄れ始めていた。というのも、ジスデリアと過ごす午後のひとときはマルガレットにとって随分心地の良いものになっていたからだ。それぞれ部屋での過ごし方は違うので一緒に過ごしているとは言い難いかもしれないが、それでも同じ部屋で同じ時間を共有するのは何故だか気持ちが良かった。


 マルガレットが王宮で暮らし始めてからずっと夕食を一人で摂り続けてきたからかもしれない。基本的に普段お付きのベルタやボレロくらいとしか話す機会がないマルガレットにとって、たとえ何か話をするわけでなくてもただ誰かと同じ空間で過ごすことは彼女に安心感ややすらぎを与えるのに十分だった。


 しかし、マルガレットは思う。ジスデリアはずっとこんな人気ひとけのないとこで一人で暮らして寂しくないのだろうか、と。

 そもそも何故、ジスデリアはあのような場所で一人暮らしているのだろうか。部屋の中は立派で、ミニキッチンや風呂場やトイレまで備わっていた。内装は確かに洗練されたデザインだったが、あの立地や鉄の扉を見るに以前はきっと物置として使われていたのは間違いない。

 クラナビリティを制御しきれないことが原因なんだろうか。頭に浮かんだのはそれだった。


 だとしたらやっぱりわたしができることって、ジスデリアさまの手助けよね。何かお手伝いできることはないかしら。

 でもわたしのほうからクラナビリティの制御の特訓をしましょうだなんて図々しいことはとてもじゃないけれど言えないわ。本当にどうしたらいいの。


 悪いことばかり考えても仕方ないとマルガレットは首を横に振り、膝の上にあったスケッチブックとライムイエローの色鉛筆を目の前のローテーブルに放り投げる。


「絵を描くのは飽きられましたか、マルガレットさま」


 マルガレットの思い内を見透かしたようにベルタは紅茶のポットを持ちながら近づいてくる。 


「違うの、絵を描くのが飽きたわけではなくて。ただその、わたくしも何か、誰かのためになることがしたいなって」

「誰かというのはやはりジスデリアさまのことでしょうか」

「まあ、そうね……」


 ベルタはよっぽどマルガレットがジスデリアのことを気にかけているのがたまらなく興味をそそられるようだ。普段は同い年にもかかわらずどこか大人っぽいベルタが今は年相応の乙女の目をしている。


「……ただその、婚約の事情が事情だし、何かジスデリアさまのお役に立てればとは思うんだけど、お部屋に訪れてもいらっしゃらないことがあるからどうしようかなって」


 クラナビリティの特訓の手伝いを、だなんて先ほどは少々烏滸おこがましいことを考えていたがそもそも会えないのでは仕方がない。

 そんな風に思っていると、部屋の隅で静かに控えていたボレロが珍しくも口を開いた。


「ジスデリアさまでしたら文化棟の図書室にいる可能性が高いです」

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