カケラ拾い

もやしいため

第1話

「恐らく心身性の記憶障害、俗にいう記憶喪失と思われます」


 医者からの説明は非常に簡潔なもので、自分は実感もなく「そうですか」と頷いた。

 心身性と診断されたのも、外傷や病気が発見できず、消去法だという。

 まったく、痴呆でもあるまいし、いったい何が起きたのだろうか。


 しばらくは病院のベッドを温めているものだと思っていた。

 けれど記憶喪失程度で病院のベッドを占拠できるほど、この世の中は甘くないらしい。

 昏睡中に警察が見つけて来た親族に連れられ、病院を後にした。


 その親族は叔父を名乗り、金の入った封筒を手渡し去って行った。

 せめて自分がどういう人物だったかくらいは教えて欲しいものだが、どうやら手切れ金らしい。

 病院で受け取ったカバンを担ぎ、一人暮らしの自室に何とかたどりついて戦々恐々カギを差し込んだ。


――ぎぃ


 油の切れた少し重い扉が開く。

 最初に目に飛び込んで来たのは刺激臭・・・

 要・不要の区別なく、あらゆるモノが所狭しとごちゃごちゃと散乱していた。

 強盗にでも入られたかのように……。


「はは……うそ、だろ……?」


 踏み入れることさえためらわれる。

 叔父から渡された封筒の意味あつみを噛みしめる。

 なるほど、これは『見捨てられる』に足る理由だろう。

 いいや、関わるほどに言葉も交わさなかったのなら、それ以前の問題か。

 相手にも家族があるだろうし……。

 ともあれ、去り際に「健やかに過ごせることを祈っている」と言われた意味の深さを思い知らされる。


 ・

 ・

 ・


 扉を開けっ放しでは周囲に迷惑が掛かる、と思い至るまでに要したのはどれくらいの時間か。

 意を決して室内に入り、パタンと扉を閉めた。

 脳髄をゆっくりと痺れさせられるような感覚に涙が滲む。

 フローリングなのかそれとも畳なのか。

 床は見えず、寝床の確保どころか足の踏み場も無い。


「かた、づけよう」


 何とか震える唇で決意を絞り出した。

 そこからは早い。記憶はなくとも生活はできる。

 その証拠に、持ち物だと渡されたスマホを取り出し、地図アプリで現在地とホームセンターを探した。

 すぐに仕分け用にゴミ袋を買いに向かう。早くも封筒の出番到来だ。

 その道中で、今日の日付とゴミの収拾日を確認すると、運のいいことに明日に捨てられる。


「運がいい? はっ、最悪だよ……」


 思わず自分にツッコミを入れて天を仰ぐ。

 買い物を終えて一息に部屋に入った。

 足場の確保に入り口から掃除を始める。想像していたよりも捗った。

 腐敗を知らせる刺激臭に覚悟を決めていたのに、生ごみなどは見当たらない。

 臭いはともかく、汚いわけではなく、整理ができていないと言った方が正しいのだろう。


 そう考えると泥棒にでも入られたのだろうか……。

 少しばかり湿度が高く感じる部屋を見渡し考える。

 誰が言ったのだろうか、ゴミには本性が出るそうだ。

 記憶の断片を拾い上げていると思えば、この絶望的な片付けも幾分マシになるというものだ。

 もはや別人格である過去の自分をぶん殴ってやりたいのは変わらないが。


 ぐぅ、と背中を伸ばし、ふと部屋の壁際に視線が向く。

 一体何をしたのだろうか。ペンキでも塗ったようにべっとりと黒ずんでいる。

 何故か、ぞわりと背筋に冷たい感覚が這う。

 ようやく見えた畳も、じっとりと濡れていてネトネトする。

 どうやらこれが臭いの原因らしい。


 奥のテーブルには無造作に封筒や書類が積まれている。

 漫画や小説、何故か参考書なんかも積まれていた。

 そんな訳の分からないラインナップ中に、殴り書きされたメモもある。

 滲んで読めないが、どうにも数字らしい。


 はぁ、とため息を入れて掃除を再開する。

 無造作に置かれていた紙袋の中身は紙類だ。

 レシート、保険証書、請求書、説明書、督促状。

 役所の書類に証券会社や銀行の通知書、処方箋。


 シレっと放り込まれていたのは使い込まれて脂まみれの包丁。

 別の袋には錆びたノコギリ。

 乱暴に引き出されてよれよれのガムテープやビニール紐。

 何かを縛ろうとしていたのだろうか……それにしては片付いていないのだが。

 安眠マスクに洗濯かご、ハンガーなんて物も掘り起こされる。


 そこでふと、ぐにゅりと嫌な感触を踏みしめた。

 万年床……布団自体が腐っているのかもしれない。

 ゴム手袋を改めて指し直し、布団をめく――


「――――――――――ッ!!!」


 ジタバタと背後に飛びずさり、何とか声を押し殺した。

 そこにはおびただしい傷と、あらゆる体液を吐き出させて腐敗した遺体があった。

 記憶がない。記憶がないことがこれほどまで――


――ドンドン!


「警察でーす」


「少しお話聞かせてもらえますかー?」


 外から二人、声が聞こえた。

 激変する状況に、心臓が忙しく働きだす。

 何が起きたのか、さっぱりわからない。

 自分は、記憶をなくして、いて――


「通報がありましたー」


「開けてくださーい」


 焦る焦る焦る――!!

 本物かどうかはともかく、何故このタイミングで――視線がベランダへと向く。

 今更遅いかもしれないが、そろりと窓へと近づき、静かに外へと出て――


「あ、逃げたぞ! 待て!!」


 バタバタと逃走劇が始まる。

 そうして――


 ・

 ・

 ・


『被疑者が通ります。道を開けてください』


『お、おれは記憶がないんだ―――!!』


『静かにしろ。ほら、報道陣下げさせて!』


『何が起きたのk――』


『いいから連れていけ』


 テレビの向こうで大騒ぎする人物を見てほくそ笑む。

 それはかつて病院で記憶喪失の彼を引き取った『叔父』だった。

 ウィスキーの入ったグラスを揺らしてソファに沈む。

 どうやら通話をしているらしい。


「あぁ、その節はどうも。クライアントの要望にピッタリだったよ」


 そう、これは記憶喪失の彼が、記憶の断片カケラを拾い集め損ねた話だ。

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カケラ拾い もやしいため @okmoyashi

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