偽名の貴方

九十九

偽名の貴方

「よっちゃん」

「ん、なに」

 快活そうな見た目の少女、蜜日が名前を呼ぶと、物憂げな顔をした男、吉田は微笑んで甘やかな声で返事をした。すり、と少女の頭を骨張った大きな手が撫でていく。その手が心地良くて蜜日は目を細めた。吉田は犬や猫を撫でるみたいに蜜日の頭を乱雑に撫でていった。

 彼女と彼が出会ったのは、みぞれ混じりの雨が降る冬の日だった。空気は凍り、行き交う人々はコートに顔を埋めながら過ぎ去っていく。

 蜜日は雨の中で凍えていた。傘も何も持っていなかった蜜日は、全てを投げ捨てる様して外へ出た。宛もなく彷徨い歩き、そうして路地裏で力尽きて凍えていた。誰も彼もが蜜日を通り過ぎて行くそんな時、吉田が傘を差し出したのだ。

 気まぐれだと吉田は言っていた。もしくは偶然。気まぐれに、唯何と無く、蜜日を見つけたから彼女を拾ったのだと吉田は言っていた。

「よっちゃんくすぐったい」

 蜜日が首を竦めて笑えば吉田の手は頭から耳へと移動した。耳の形を確かめるように掴んで引っ張ると、耳朶をふにふにと親指と人差し指で弄ぶ。そうして満足すると吉田は手を引っ込めた。

 蜜日は吉田の骨張った大きな手が好きだった。情欲の無い愛玩のみの色を乗せた手が己を犬か猫みたいに撫でていくのが好きだった。

「よっちゃん」

「なに」

 吉田は、吉田だからよっちゃんだ。蜜日が呼べば吉田は蜂蜜の飴玉を口で転がすみたいに、甘やかな声で返事を返してくれる。

 けれども吉田と言う名前はきっと偽名だ、と蜜日は知っている。初めて名前を教えてくれた時、視線を彷徨わせた吉田の近くには吉田工業の看板があった。最初の頃、吉田を呼んでも彼は他人が呼ばれたみたいに反応が無く、そうして数拍空けて誤魔化すように笑って振り返っていた。だからきっと吉田は吉田ではない。

 それでも蜜日は吉田が教えてくれた彼の名を大切に思っている。偽物だろうが蜜日にとってその名前は吉田の名前だった。

「よっちゃん、今日」

「ん、今日はどっか行く?」

「よっちゃんの家に行きたい」

「良いよ。行こうか」

 吉田は蜜日とよく一緒に居てくれる。どこかに行きたいと持ち掛ければ、駄目と言う言葉も無く連れて行ってくれた。吉田がどうしてか構ってくれるから、蜜日は吉田と一緒に居られる。

 吉田と蜜日は二人並んで歩き出す。吉田の耳に幾つも着いているピアスが、太陽に揺れてきらきら光るのを蜜日は目を細めて見上げた。何時か、蜜日の耳にもピアスを開けてくれないだろうか。ピアスを開けてもらえたのなら、蜜日はずっとその小さな傷を守っていられるのに、と耳朶を掴む。

「どうしたの?」

「何でも無い」

 蜜日が人差し指で突くように吉田の手に触れると、吉田は突いていた蜜日の人差し指を、節くれだった手で絡め取った。


 吉田の家の中は何時来ても殺風景で物が置かれていない。ベッドと丸い机と座布団が二枚、その内の一つは来客用だが、それと蜜日がやるだろうからと後から買ってくれたテレビとゲーム機だけの部屋には、吉田の私物が数えるほどしか無い。偶に嗜むと言っていた煙草がライターと共に机の上に置いてある以外、吉田の趣味嗜好が分かる物は置いていなかった。

「ココアで良い?」

「うん」

 玄関で後ろ手に鍵を閉める吉田の問いに蜜日が頷くと、吉田はマグカップくらいしか食器の無い台所へと向かった。蜜日は吉田を見送りながら来客用の座布団の上に座る。数分もしない内に吉田は一人分のココアを持って来た。

「有り難う。よっちゃんは何か飲まないの?」

「俺はいいよ」

 こう言う時、吉田は何時も自分はいい、と言う。一緒にクレープを食べに行った時も、ファミレスでご飯を食べた時も吉田は自分の分を頼まない。吉田の家でお昼になった時でさえ、吉田は自分の分を作らなかった。

 一緒に食べたく無いのだろうか、と吉田を伺うけれど、吉田は常の笑顔で蜜日の食べる様を見つめている。蜜日の食べる所を見ているくらいだから、一緒に食べられない程蜜日の食事風景が心象悪い物では無いと思うのだけれど、と吉田と美味しい物を共有してみたい蜜日は密かに肩を落としている。

 だから、吉田の好きな物一つも蜜日は知らない。フルーツが好きとか肉の脂身が嫌いとか、まあこれは蜜日の事なのだが、そう言う物は何一つ知らない。バレンタインにチョコレートを贈りたくとも、お礼にお菓子を渡したくとも、好きなのか苦手なのか知らないから渡せないままでいる。

 吉田が隣に座るのを見つめながら貰ったココアを口に含む。吉田が出してくれるココアは何時も蜜日が好きな甘さをしている。何時もそれを飲み干すのは勿体無いような気がして最初はちびちびと飲むのだが、飲んでいる間は吉田が構ってくれないので結局最後には良い勢いで飲み干してしまう。今日も結局、最後になって勢いよく飲み干してしまったココアの消えたマグカップをそっと机の上に置く。

「よっちゃん、言ってもいい?」

「うん」

「よっちゃん、好き」

「ん」

 互いに顔すら合わせず溢した言葉は部屋の中でくるりと回り、床に落ちた。吉田は蜜日の告白に返事を返さない。好き、と伝えても肯定するだけで特別な答えを返す事は無い。それでも蜜日は良かった。吉田が受け取ってくれるだけで良かったのだ。

 最初に好きだと伝えた時から、蜜日は吉田から答えが返ってくるとは思っていなかった。何となく何時ものように、名前を呼んで振り返ってくれなかった時のように、曖昧に笑って全てを終わらせるのだと思っていた。

 だから吉田が終わらせる事なく好きと言う気持ちを受け取ってくれるだけで蜜日は幸せだった。

「おいで」

「うん」

 吉田が膝を叩く、それは吉田の家の中で吉田が蜜日を甘えさせてくれる合図だ。 蜜日は座布団を持って、吉田の真横に移動する。そうして胡座を描いて差し出された吉田の膝の上に身体を乗っける。吉田は背が高く、それによって足も長いから、蜜日の身体は殆どが足の中に収まる。

 膝に頭を乗っける様にして仰向けになると、吉田の顔がよく見えた。物憂げで、夜みたいな色をした目が蜜日を見ている。

 蜜日は片手を伸ばして、吉田のピアスに触れた。硬くて冷たい、尖った吉田のピアスが指に刺さる感触を確かめる様に触れる。吉田は蜜日の好きな様にさせていた。

「ねえ、よっちゃん。ピアス」

「駄目」

「よっちゃんは開けてるのに?」

 蜜日が問えば、吉田は目を細めた。答える気はないらしい吉田に蜜日はわざとむくれた顔をしてみる。蜜日は吉田に開けて欲しいのだ。きっとそれは吉田も分かっているのに、良いよと頷いてはくれない。

「傷付いた時に自分で開けな」

 吉田は蜜日の耳朶を指で撫でる。吉田の言う傷付いた時、きっとそこに吉田はいないんじゃないかと蜜日は思う。

「よっちゃん」

 その時、吉田は何処にいるの、と聞く事も出来ず、蜜日は吉田を見上げる。吉田は何時もみたいに曖昧に笑って蜜日の顎を犬猫にするみたいに撫でた。

 目を細めて吉田の手を享受する。くるくる、ぐるぐる、本当の猫みたいに喉が鳴っているような錯覚を覚える。このまま本当の猫になれたら吉田は飼ってくれるだろうか、と考えて、置いていかれそうな気がして笑う。

「よっちゃん眠ても良い?」

 本当は大して眠気はないのだけれど、吉田の膝の上に居たいからそんな事を言う。吉田は撫でるのをやめると、上体を伸ばしてベッドから毛布を剥ぎ取り、蜜日へと被せた。

「暗くなったら送ってってあげる」

「うん、有り難う」

 吉田の手が眠る幼子をあやす様な手付きで蜜日の髪を梳く。暫くそうされていると眠かったわけではなかったのに眠くなってくる。

「寝ないの?」

「寝る。お休み」

「お休み」

 言われて目を閉じる。けれど少しだけ目を開けて吉田の顔を見上げる。もう少しだけ吉田を見ていたかった。

 ふと吉田と視線が合う。吉田は少しだけ笑って蜜日の目を覆った。真っ暗になった視界、温かい吉田の手に段々と眠気がやってくる。

 吉田が何かを呟いたような気がした時には既に蜜日の意識は途切れる寸前で、何を呟いたのか聞けぬまま蜜日は深い眠りに落ちた。


 目を開ければ辺りは暗くなっていた。未だ眠気を拭えないままぼんやりと見上げれば吉田も目を閉じていた。そっと吉田の頬に触れても目を開ける気配が無い。

 蜜日は吉田が居てくれればそれだけで嬉しいが、果たして吉田はどうだろうか、とぼんやり考える。吉田が何時も何を考えて蜜日の傍に居てくれるのか、蜜日には分からない。

 それでもやはりこうやって構ってくれているだけで蜜日は幸せだった。犬猫みたいに撫でてくれて、蜜日の好きを受け取ってくれて、膝に乗せて寝させてくれて。そうして過ごす事が蜜日にとっての幸せだった。

「よっちゃん」

 吉田の偽りの名前を、蜜日にとっての彼の名前を口ずさむ。

 例え教えてくれた名前が偽りだろうが、何をしている人なのか教えてくれなかろうが、一緒にご飯を食べてくれなかろうが、蜜日はそれで良かった。

 蜜日は吉田の両の頬を手で包むとぐっと力を込めた。吉田を起こしたら、帰り道、手を握ってくれないか聞いてみようと考えながら、吉田の頬を潰す。

 吉田の整った顔が歪み、瞼が開かれる。目を開いた吉田は可笑しそうに笑うと、蜜日の手を取った。

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