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私たち兄妹が杠葉へと帰る日が来た。昴にとっては夏休みぶりの帰省である。正月は実家で過ごし、また宵宮へ戻ってくる計画だという。
倫理学のレポートを書かねばならない都合で、彼はノートパソコンと何冊かの資料を鞄に詰め込んだ。ほんの数日でも練習を怠ると気分が落ち着かないだとかで、楽器も持ち帰るらしい。けっこうな大荷物である。
ありがたいことに、修史さんと都さんが見送りに来てくれた。セラーハーストにとっての「第二の部室」の主である昴がいなくなるのは淋しい淋しいと、ふたりは繰り返した。
四人で駅へと歩く。修史さんが手伝うと申し出て昴の鞄を掴み上げるなり、おい重いな、と笑い出した。
「こんなに勉強するのかよ」
「しないかもしれないけど、なんとなく不安でさ。昔からそうなんだよなあ。レポートくらい終わらせておいて、爽やかな気分で帰ればよかった」
都さんはもっぱら私の傍らにいて、宵宮の街のことや大学生活のことなどを話してくれた。また遊びに来てほしい、将来はうちの大学に来てほしい、と言う。
「私には難しいですよ。お兄ちゃんほど成績良くないですし、二次試験に数学があるし――」
「私なんか一年のとき、成績めちゃくちゃやばかったよ。理系は無理だって担任にも言われてた。悔しくて猛勉強して、どうにか食らいつけるかなってとこまで行けたのが、三年の秋。志島くんが安定型っていうか、堅実に上位をキープするタイプだから、余計に不安に思うのかもしれないけど、大丈夫。今からだったら、やりようでどうとでもなる。数学だって、得点源ってレベルに持っていけるよ」
「お勧めの参考書とか問題集とか、教えていただけますか」
「もちろん。あとでリストにして送っとく。質問があったら遠慮なく連絡して」
そんなやり取りを重ねていくうちに、未来への漠然とした願望が胸中に生じるのを、私は意識していた。まだ質量の伴わない、仄かな憧れにすぎない思いだったのかもしれない。それでも私はこの瞬間、確かに一筋の光を見ていた――。
改札口で都さんたちと別れ、昴とともに新幹線のホームへ向かう。時間帯が中途半端だからか、車内は空いていた。隣どうしの座席を確保する。乗り換えなしで杠葉まで行けるので、あとは二時間数十分、ただ座っているだけである。
「お母さんに今から帰るって知らせとくか」と昴がスマートフォンを取り出す。「お前も例の名探偵に連絡しとけば。せっかくお土産も買ったんだし」
「ああ――そうだね」
いちおう日持ちがするクッキーを選んだのだが、早めに渡してしまうに越したことはないだろう。甘いものが大好物の彼女のこと、首を長くして待っているに違いない。
琉夏さんにメッセージを送信すると、すぐさま返事が来た。
〈私はいつでも。年内なら明日がいいかな? お兄さんのバンドの音源貰えた?〉
はっとする。〈すみません、今回のぶんは録画に失敗したみたいです。なにか別のを後で送ります〉
〈残念。宵宮で面白いことあった?〉
何気ない挨拶のように見える文面だったが、私には琉夏さんの求めているものが分かった。返答の仕方によっては、スイッチが切り替わる。そして提供しうる材料は――ある。
〈帰るまでに考えを纏めておきます。明日、直接お話しします〉
新幹線が発車するとすぐに、兄は寝入った。せっかくレポートの資料を運んできたわりに、いまひとつ有効活用していない。
私は腕組みをしたまま、宵宮での体験を反芻して時間を過ごした。もっとも大きな疑問は、私が観たのは本当のセラーハーストだったのか、だ。
途中でトイレに立った。昴がはたと目を覚ました瞬間を狙い、声をかける。彼は、ああ、といい加減な返事を寄越すなり、すぐに眠りの世界に吸い込まれていってしまった。昴もわりとよく眠る部類の人間である――睡眠のプロフェッショナルである琉夏さんには及ばないが。
用を済ませてもとの車両に戻ろうとしたとき、私は弩級の出会いを果たした。デッキで若い女性とすれ違おうとした瞬間にふと視線が合い、雷に打たれたようになった。
「あ」
「――志島くんの?」思わず唇を開いた私を見つめながら、相手の女性が言う。「来てたよね、ライヴ」
「はい。お隣でしたよね」
頷きが返ってきた。やはりそうだった。
尾崎さんだ。石垣さんの恋人。
「似てるからそうじゃないかって思ってたんだけど、あのときは確信が持てなかったから話しかけなかったの。ええと、皐月さんでいいんだっけ?」
「はい」
「いま志島くんも一緒?」
「座って寝てます。ふたりで杠葉に帰るところです」
「そっか。私も帰省するとこ。打ち上げ、行けなくてごめんね」
「いえ。ライヴ、良かったですよね。私は初めてだったんですけど、何度か観てらっしゃるんですか」
「あれで何回目だったんだろう? 都合がつくときはほぼ毎回」
淡々とした口調だった。快活な都さんとはまた異なる、硬質な気配を纏った人である。相手にその気はないのだろうが、話していると少し緊張した。
「石垣さんのヴォーカル、凄かったです。単純な歌唱力だけじゃなくて、こう――」
「魂を削ってるみたいだった?」と尾崎さん。「石垣くん、いつもそうなの。音楽に関しては特にね。なにもそこまでって思わされることもあるけど、そういう人だから」
「兄も同じようなことを言ってました。妹の私から見ても、兄はずっと真面目に音楽を続けてきた人間だと思います。でもその彼がはっきり、あいつには負けた、と言うんだから相当なんだろうなって。実際のパフォーマンスに触れてみて、よりはっきりしました。石垣さんは凄いです」
この私の言葉に尾崎さんはうっすらと、なぜか少し悲しそうに笑い、「ありがとう。もし機会があれば、直接言ってあげて。彼、観客絶対主義を標榜してて、お客さんの反応がすべてだって人だから」
「伝えます。また観に来るつもりですから。もしよろしければ、そのときは一緒に――」
ごめん、と尾崎さんが私の言葉を遮り、視線を下げた。一瞬、拒絶されたのかと思いかけたが、ただスマートフォンを取り出そうとしただけだったらしい。乳白色のケースに収められた端末に、彼女は素早く目を走らせて、
「長々と引き留めちゃったね。私、そろそろ行くね。志島くんによろしく」
足早に遠ざかっていく。私はただ呆けたように、その背中を見送るほかなかった。
ひとり、もとの席へと戻った。昴はまだ椅子の背凭れに身を預けて眠っていた。私が隣に腰を下ろしても、まったくの無反応だった。
起こして事の次第を伝えようかとも考えたが、けっきょくやめてしまった。なんとなくだが、尾崎さんに迷惑がられるような気がしたからだ。
手帳を開いてメモを書きつけてみたり、旅行中に撮った写真を見返してみたり、あれこれ思案に暮れたりするうちに、杠葉への到着を告げるアナウンスが聞こえてきた。それまで身動きひとつしなかった昴がタイミングを見計らったように覚醒し、荷物を纏めはじめる。
少し早めに昇降口へと移動し、ドアが開くと同時に降りた。ホームを歩くあいだ、私がしきりに周囲を見渡していたのに気づいてだろう、昴が少し怪訝そうに、
「どうした、きょろきょろして」
「別に、なんでもない」
「そう。お母さん、もう迎えに来てるかな」
来てるんじゃないの、などと応じながら、私は同じ列車から吐き出されて改札へ向かっていく人々の流れを観察しつづけていた。幸か不幸か、尾崎さんの姿はどこにも見当たらなかった。
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