コンフォート・イン・サウンド
下村アンダーソン
1
取りに戻るのだろうと思っていた。
ギターが、ベースが、曲になりそうでなりきらない音の欠片をぱらぱらと発しているのは時間稼ぎのためで、そのうち石垣さんが舞台袖に引っ込むか、でなければ気を利かせた誰かが楽器を手渡すかして、仕切り直しを図るのだろう、と。
だからドラマーがスティックを打ち鳴らしてカウントを出したとき、客席の私は大いに慌ててしまった。ダフネブルーのストラトキャスターを抱えた兄がイントロを爪弾きはじめた瞬間など、お兄ちゃん、石垣さんがまだ、と危うく声に出して警告するところだった。
そんな私の困惑を余所に、舞台上の四人は落ち着き払っていた。ギターが一本欠けているというのに、演奏には寸分の乱れもない。必要最小限の音のみが生々しく響き渡るぶん、かえって迫力を増しているようにさえ聴こえる。
いまだ手ぶらのままの石垣さんが前方へ進み出て、マイクを掴む。特有の錆声で歌いはじめる――。
セラーハーストを観るのはこれが初めてだった。リーダーでドラマーの津賀修史さん、その双子の妹でベーシストの都さん、私の兄でギタリストの志島昴、そして同じくギタリストの石垣晴仁さん。大学の友人どうしで結成された、四人組のロックバンドだ。
リードヴォーカルは? あえて定めていない。曲によって歌い分ける――はずだと聞いていた。
しかしその日、ヴォーカルを担当したのは石垣さんのみだった。兄いわく「俺よりずっと巧い」らしいギターを弾くことも、最後までなかった。
ライヴ自体は楽しかった。私の隣にいた女性など、ぽろぽろ泣きながらスマートフォンを舞台に向けつづけていた。鬼気迫るほどの歌声を披露した石垣さんを、ずっと映していたように見えた。
観客の立場としては、不満はなにもない。それでも分からないのだ――私が観たのは、本当のセラーハーストだったのだろうか?
***
「昨日の夜になって、急に連絡が来たんだよ」ギグバッグを背負った兄が、不思議なほど軽い調子で説明する。「弾けねえって。しょうがないから相談して、急遽セットリストを変えたよ。しばらく演ってない曲もあったんで、ちょっと緊張した。ま、わりと頑張ったんじゃないかな」
「そういうことって、あるの? ライヴとして成立させられるもの?」
「うちの場合は。修史が咽風邪ひいて歌えないってんで、土壇場で予定変更したこともあったな。意外とどうにかなるもんだよ」
楽器に触れたことも、人前で歌ったこともない私からすると、一種の曲芸じみて聞える。練習時にたまたま生じた最高の瞬間を、本番でどうにか再現できないかと苦心するような段階は、とっくに通り越しているらしい。
ふたり連れ立って終演後の喧騒から抜け出し、エスカレーターに乗り込む。今回の会場は、ファッションビルの地下にある小さなライヴハウスだった。兄たちにとっては、何度となく利用しているお馴染みの場所だという。
アーケード街を抜け、大通りを進んだ。ひとまずの目的地は昴の部屋だ。駅と大学のちょうど中間あたりにあるアパートで、彼は独り暮らしをしている。
掃除を怠ってすっかり荒廃しているのではないかと母が心配していたが、その予想に反して部屋は小綺麗さを維持していた。友人たちがよく遊びに来るから厭でも片付けざるを得ない、とのことらしい。
昴が床に座り込み、ストラトキャスターを磨きはじめた。手を動かしつつ、こともなげに、
「夕方、打ち上げがあるんだけど、皐月も来る? せっかくだからみんなに紹介しようかなと」
「迷惑じゃない? それに飲み屋だったら行けないよ」
「普通にファミレスだよ。飲める奴がひとりしかいないから、たいがい酒より飯って話になる。というか紹介するってもう言っちゃったから、できれば顔出してもらいたいんだよ」
仕方がないので了承した。そういうことは事前に知らせておいてほしい。
現在大学一年生である昴より、私は三つ下だ。すなわち高校一年生である。彼が春に卒業したばかりの杠葉高校に、ちょうど入れ替わりで入学した形だ。
兄のバンドがライヴを演るという知らせが来たのは、冬休みに突入してすぐだった。夏以来会っていなかったし、観光がてら出掛けてみるのも悪くない気がした。ただ家に籠っていたところで、勉強も原稿も捗りはしないだろうし――。
「ところで最近そっちは? 文芸部の調子はどう?」
ギターの手入れを終えたらしい昴が、回転椅子に腰掛けてこちらを振り返る。立ち上げられたパソコンの画面には、XTCの『オレンジズ・アンド・レモンズ』のジャケットが表示されていた。曲は〈ホールド・ミー・マイ・ダディ〉。
私は大真面目に、「可もなく、可もない」
「締切があるんじゃないのか」
「当然、あるよ」
「どういう話にするの」
「なにも考えついてない」
「こっちでなにか取っ掛かりが掴めるといいけどな。そういや例の名探偵は?」
脳裡にぼんやりと、琉夏さんの顔が浮かんだ。「冬眠してるんじゃないの、この時期は」
「夏に訊いたときは夏眠してるって言ってたような」
「いつでも寝てるんだよ、あの人は」
倉嶌琉夏さんは、私の所属する杠葉高校文芸部の部長だ。廃部寸前だった文芸部をたったひとりで立て直した功労者ではあるのだが、普段の彼女は先に述べた通り、やたら眠ってばかりいる人という印象が強い。部室における定位置は本棚の前で、棚板に器用に頭を凭せ掛けて寝入っている様子をよく見かける。でなければ瞑想に耽っているか、持ち込んできた漫画を読んでいるか、お菓子を摘まんでいるかだ。
要するにきわめて怠惰な人物で、特別な事情がない限り率先して行動を起こすことはない。ところがその「特別な事情」がひとたび発生すると、スイッチが切り替わる。まったく違った一面を見せはじめる。文芸部での私の大きな役割は、探偵・倉嶌琉夏の助手兼記録係、といったところだ。
不意にポケットの中でスマートフォンが振動しはじめた。誰かと思えば、まさにその琉夏さんである。休日に向こうから連絡してくるのは珍しい。
「――原稿、休み明けまでに目途が付きそう?」
などと彼女らしからぬ実務的なことを言いはじめたので、私はたいへんに驚き、
「急にどうしたんですか」
「部員の進捗管理は部長の務めだから。上がりそう?」
「努力はしますけど、本当にどうしたんですか。かなり不気味ですよ」
「私も不気味だと思う。でもあいつがさあ――真面目にやれってうるさいんだもん。なんでせっかくの冬休み、クリスマスだな、年越しだなって陽気な気分でいるときに、あいつの陰鬱な面を見なきゃなんないの。部の方針を指図されなきゃなんないの」
合点がいった。休暇が明けたらすぐ、生徒会主催の会議に出席して部の活動予定を報告せねばならないのだと、いつだったか嘆いていた。琉夏さんのことだから、必要最小限の労力で乗り切るつもりだったに違いない。それを見越した生徒会側、おそらくは彼女の宿敵である楠原律さんから、じかに釘を刺されたのだろう。
「文芸部のために頑張ってください。私、いま兄のところに遊びに来てるんです」
「お兄さん、宵宮だっけ? 新幹線?」
「ええ。二時間以上かけてはるばる。兄のバンドのライヴがあったので、それを観てきました。これから打ち上げって話になってます」
琉夏さんは私に吐息を聞かせて、「優雅だな。羨ましいよ。お兄さんのバンド、どんな感じ? ライヴ盤とか出てないの」
「出てたら買ってくれるんですか? 訊いてみますよ」私はいったんスマートフォンを顔から遠ざけて、「お兄ちゃん、部長がセラーハーストのライヴ盤はないのかって」
「過去に撮ったやつならいくつか。今回のもたぶん、尾崎さんが撮ってくれてたと思うけど」
「尾崎さんって?」
「石垣の彼女。ライヴのとき、お前のすぐ隣にいた人」
ああ、と私は頷いた。ずいぶん熱心に撮っているものだと思い、記憶に残っていた。なんならスマートフォンのケースの柄まで覚えている。モノクロの、エッシャーの騙し絵。
「あの人、そうだったんだ。きっと彼氏がメインヴォーカルで嬉しかったんだね。泣いてたよ」
「俺からも見えてた。号泣してたな」
私は再び端末を耳に宛がい、
「――部長? 録画したのがあるそうです」
観てみたいと琉夏さんは言った。杠葉に帰ったらまた連絡すると告げ、通話を終える。
「あとで送ってくれるように、尾崎さんに頼んどこう。一緒に打ち上げに来るだろ、たぶん」
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