「すき」と言われなくなった日

夕山晴

「すき」と言われなくなった日

 手を繋いで、走った。

 穏やかな日差しを浴びて、彼の金髪が輝く。


「みて!こっちこっち」

「ちょっとまって!そんなに急がなくてもなくならないよ」

「なくなるわ!アレクといっしょにいるじかんがなくなっちゃう!」


 訪問の挨拶も程々に、シュリーは自分の屋敷の庭園へとアレクを案内した。

 小さい身体を力一杯動かして、アレクの手を引っ張りながら目的地に向かう。

 庭師が丹精込めて作った色とりどりの花のトンネルをくぐり、そのまた奥の、木々に隠れるようにある花壇へ。


 そこには、バラの木が一本。黄色の花を咲かせていた。


「ほら!きれいでしょう!」


 自信満々に、両手を広げて黄色のバラを見せつける。

 シュリーの興奮した顔に、アレクは少し戸惑った顔を見せた。


「うん?とてもきれいだね?」


 反応の悪いアレクにシュリーは頬を膨らませた。

 腰に手を当てて、「どうしてよう」と不貞腐れる。

 アレクは慌てて取り繕った。


「ごめんごめん。黄色のバラ、好きなの?」

「…………すきよ」


 不貞腐れたまま、シュリーは答える。

 バラの花を撫でるように触るシュリーは背を向き、アレクからは顔が見えない。

 アレクは首を傾げて問うた。


「どうして?」

「だって……」


 シュリーはバラから手を離し、紅潮した頬で振り向く。

 スカートがふわりと舞った。


「だって、アレクのかみみたいにきれいだもの!」


 だからすき!と顔をくしゃっとしてシュリーは笑う。


「……ありがとう。ぼくもシュリーの髪、好きだよ」

「かみだけ?」


 再び笑顔が陰り、シュリーは頬を膨らませる。

 その頬をアレクは手のひらで包み、額をくっつけた。


「もちろん、シュリーが大好きだよ」

「へへ、わたしもアレクだいすきよ」


 二人にこにこと笑って、手を繋いだまま、庭園を走る。

 それは幼い子が遊び回る、微笑ましい光景で。

 すれ違う訪問者の貴婦人も目を細めて見守るほどに、仲睦まじい様子だった。


「ほら、見て。可愛らしいわね」

「ふふ、本当ね!こちらのお嬢さんと、あちらはターラント家の?」

「両家は親交が深いのでしたね。手なんて繋いで兄妹のよう……なんて仲が良いのかしら」


 シュリーのエアハルト家と、アレクのターラント家は親同士の仲が良く。

 お互いの家へ訪問するときには必ず子供を連れて行ったため、シュリーとアレクはよく一緒に遊んだ。

 それはもちろん二人を結婚させたいという、親の希望が大いに反映されたものだったのだが──その期待に沿う形で二人は仲良くなっていた。


 シュリーはずっとこんな日常が続くと思っていた。

 アレクと一緒に手を繋いで、庭園を走って、花を眺めて。

 時にはお菓子を食べたり、一緒に絵本を読んだりして。


 しかし。

 この日を境に、アレクがシュリーの屋敷へやってくることはなくなったのだ。



 ◇◇◇



「お嬢様、今月も届きましたよ」


 そう言って侍従が部屋へ持ってきてくれたのは、黄色のバラの小さな花束。

 三ヶ月に一度、屋敷に届けられるそれは、アレクが顔を見せなくなった、六年前からずっと続いている。


「あー、うん。ありがと。そこの花瓶に生けておいてくれる?」


 侍従は慣れた様子で窓際にある花瓶を手に取り、生けるために退出していった。

 定期的に行われるこのやり取りに、シュリーは表情一つ動かすことはなくなった。


 初めてアレクからの花束を受け取ったときは、嬉しかった。

 次に届けられたときは、手紙も何もない贈り物に悲しくなって。

 その次に受け取ったときには、これは何のためのものなのかと疑問を抱く。

 花束が届けられるようになって一年になるころには、考えることを止めた。


 屋敷にはきてくれず、両親に付いてターラント家を訪れても勉強中だと会ってはくれない。

 花束のお礼の手紙を書いても返事はもらえず、けれど三ヶ月後には必ず花束が届く。


 シュリーは返事が貰えないなら、と手紙の代わりに刺繍を施したハンカチを送るようになった。

 貰ってばかりでは気が済まなかったからだ。

 刺繍の柄は、黄色のバラ。

 届けられる花束を模したものだ。

 花束が花瓶に生けられ、部屋の窓を彩ると、シュリーは淡々と刺繍を始める。

 何度も何度も作った黄色のバラは、もう手が勝手に作ってくれるほどだ。


 最初は喜んでいた黄色のバラに。

 不信感を抱くようになったのはいつからだったかしら。


 幼いころは無知で。

 ただその色が綺麗で、アレクの髪色にそっくりで好きだったその花は。

 大きくなって、「友情」という意味を持つと知る。


 こんなもの、律儀に贈ってくれなくてもいいのに。


 アレクの顔を見た最後のあの日。

 後から知ったことだが、エアハルト家とターラント家で、婚約の約束を交わしていた。

 シュリーとアレクのそれだ。

 婚約式は成人を迎えてから行うため、まだ正式なものではないにしろ、家同士の取り決めだ。

 何事もなければ、覆ることもない。

 きっと彼は、婚約が気に入らなかったのだ。


 馬鹿の一つ覚えのような、贈り物の応酬に、シュリーはぼそりと呟く。


「こんなの、意味あるのかしら」


 手紙のやり取りすら無い、婚約者とは名ばかりで、念押しのように送られてくる「友情」の花。

 何のためにこんなことをする必要があるの。


「まあ!お嬢様。そんなことを仰ってはいけませんよ。いつも同じ種類のバラですが、季節問わず届けられていますから、温室で大切に育てられているバラですよ。なかなか手に入る物ではございません」


 そういつも侍従に言われ、何もせず耐えてきたけれど。




「──レターセットをお願いできるかしら」


 完成した刺繍入りのハンカチを綺麗にたたみ、シュリーは手紙を書くことを決めた。

 この無意味な関係を、終わらせるための手紙だった。




 ◇◇◇




 ドンドンドン!


 部屋の扉が乱暴に鳴る。

 と同時に侍従が「お嬢様!お嬢様!」と扉を開けて入ってくる。

 その顔はとても慌てていた。


「どうしたの?」

「そんな落ち着いていらっしゃる場合ではありません!ああ、そのように寝巻きのような格好で……すぐにドレスの準備をいたしますので、こちらに!」


 そう言われて、鏡台の前へと手を引かれる。

 用意されたドレスに着替え、ぱたぱたと薄い化粧を施してもらいながらシュリーは首を傾げた。


「来客かしら?」

「ええ、ええ!アレク様ですよ」


 侍従が自分のことのように目を輝かせて喜んでいる。

 望んだ来訪に、嬉しく思えばいいのか悲しく思えばいいのか。

 来訪理由には心当たりがある。

 久しぶりとなる対面に、シュリーは鏡に映る自身の笑顔が、引き攣らないことを祈った。




「お待たせして申し訳ありません。ようこそいらっしゃいました。お久しぶり、ですね。お元気でいらっしゃいましたか」


 鏡の前で何度か練習した笑顔をにっこりと披露する。

 六年前とは違うのだ。

 走り出すなんてことはせず、アレクの前で挨拶と丁寧なお辞儀をした。


「いや、こちらこそ突然の訪問を許して欲しい。……久しぶりだね。シュリー」


 六年ぶりに見たアレクは、記憶にある姿とは違っていて、シュリーは内心戸惑った。

 あどけなさが消え、丸みを帯びていた輪郭もすっきりとしている。

 身長も伸び、肩幅も広くなった。

 一緒に手を繋いで走った彼とは違うのだと改めて思い知らされたが、その顔にはあの頃の面影が残っていて。

 手を伸ばしたくなる気持ちをそっと押し込めた。


 テラスにティーセットを用意してもらい、向かい合って座る。

 アレクの顔は硬く、話す気がないのか、口を真一文字に閉じている。


 わざわざ屋敷にまで来て、何も話さないの?


 こちらから切り出すのを待っているのだろうか。

 こちらの用件は、手紙に書いたことが全てだと言うのに。

 紅茶を一口飲んで、カップをソーサーに戻す。


「……お手紙を読んでくださいましたか」


 シュリーは直球で切り出した。

 ここへきてくれたということは、手紙を読んだからに違いないから。


「……ああ。だから来た。どうして婚約解消の申し出など、」


 どうして?

 理由を聞きにわざわざ足を運んだのだろうか。

 ──それはアレクがよく知っているでしょうに。


 一見、ただの婚約者へのプレゼント。

 だが、遠回しに婚約者には相応しくないと伝えてくる、黄色のバラ。

 手紙も言伝もなく、ただただ物だけが送られてくるのが、それを物語る。


「いつも、素敵なバラをありがとうございました」

「……シュリーに似合うかと思ってね」


 黄色のバラ。友情の花。

 それが似合う私は、やはり仮初めの婚約者なのでしょう。


 鬱々とした気分を抱えながら、シュリーは力なく微笑む。

 少しでも気が紛れるかと外を眺めるが、そう思い通りにはならなかった。


「アレクの心遣いには感謝いたしますが、もういただかなくても、」

「以前、この花が好きだと言っていたろう?だから家の温室で育てて……」


 そこまで言ってアレクは口を押さえた。

 シュリーは訝しげに首を傾げる。

 予想だにしない内容に、上手く聞き取れなかった。


「え?何と?」


 目を見開いて聞き返すと、アレクは形の良い眉を歪め、口をきつく引き結んでいる。

 ややあって、口の隙間から大きな溜息が漏れた。


「……家の温室で育てたんだよ。シュリーに贈ろうと思って」

「アレクがですか?」


 シュリーの目は見開きっぱなしだ。

 対するアレクは視線を泳がせて、やがて小さく頷いた。


「ああ。……いや、庭師に教えてもらいながらだけどね」


 ばつが悪そうに、アレクはポツリと話し出した。


「本当は、自信がつくまで連絡を断とうとしたんだ。だが、忘れられたらと思うと怖くなってね。だからシュリーが好きだと言ってくれた僕の髪と同じ黄色のバラを送り続けた」


 情けないだろう?とアレクは嗤う。


 シュリーは驚いた。

 こんなアレクの顔は見たことがなかったからだ。

 記憶にあるアレクは、いつも笑顔で、少し大人で、だからこそ幼い自分の我儘にも付き合ってくれるような。


「シュリーもバラの刺繍を贈ってくれていたから、身勝手にも心は通じているんじゃないかとそう思っていたんだ。……シュリーが婚約を破棄したいと思っているとも知らず」


 目を逸らしながら、アレクは眉をしかめる。

 視線も合っていないのに、そこから感じられるのは、友情ではなく。

 シュリーは掠れる声で絞り出す。


「どうして、こんな、こと」

「……婚約が決まったあの日に、すれ違った婦人方がいただろう?シュリーが覚えているかはわからないが、あの時、兄妹だと思われたことが……悔しくて。だから、勉強に力を入れたし、体も鍛えた。シュリーを守れるように。シュリーに似合う男になれるように」


 アレクは真っ直ぐにシュリーを見て。

 すっと立ち上がると、自身の胸に手を当てて言う。


「シュリーが、好きだったから」


 言われた言葉に、シュリーはずっと長い間、これが聞きたかったのだと悟る。


 ──ああ。何てこの人は、アレクは。

 こんなにも不器用なのだろう。


 そして私は、なんて単純なのでしょう。


 シュリーは拗ねたように唇を尖らせる。

 淑女の顔ではないとはわかっているけれど、ここにはアレクしかいない。きっと彼は許してくれるだろう。


「過去形ですの?」


 その問いにアレクは数回瞬き、ゆっくりと頬を緩ませて笑う。

 久しぶりに見るアレクの、自分に向けられる笑顔は、シュリーの心臓を跳ねさせた。

 どうして友情なんて思えるだろう。この愛情深い瞳を受けて。


 蕩けるような笑みを浮かべたまま、アレクはシュリーに一歩二歩と近づき、丸テーブルに向かい合っていたシュリーの手を取った。

 シュリーの耳元に唇を近づけて、内緒話をするかのように呟く。


「────。」


 シュリーは瞳は丸くさせ、言葉を理解するや否や頬はかあっと赤くなって。

 そんな自分を隠すように、思いっきりアレクに抱きついて、笑う。

 それは幼いころの関係に戻ったようで。

 シュリーが心から笑うのも久しぶりのことだった。


 結局、私が、アレクを嫌いになれなかった時点で負けなのだ。

 こんなにも心の内を晒してくれるアレクを見てしまったら、許さずにはいられない。


「……私もよ!愛してるわ!」


 抱きつきながらこっそり上目遣いでアレクの様子を伺うと、ほっとしたような幸せそうなそんな顔が見えた。




「そもそも、連絡を断つだなんてわかりにくいことをされなければ私だって、」

「不安にさせるつもりはなかったんだ。ごめん、もう二度と寂しい思いをさせないと誓う」

「本当?」

「ああ、本当だよ」


 見上げたアレクの髪は、見慣れた黄色のバラとは比べ物にならないほど、金色に輝いていた。

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