(ぐちゃぐちゃのかんけい)

ちわみろく

第1話 

 東宮とうみや先生はいつも落ち着いていて、穏やかな人だった。

 理知的というのだろう、秀麗な顔立ちは、彫像のように冷たい。

 他人を寄せ付けないような真っ白な白衣に身を包み校内を歩く姿は、どこか近寄り難いものがある。

 先生は物理の担当教諭で、完璧主義で、理路整然としていて、何もかもがきちんとしていないと許せないような、そんなふうにも思えた。

 黒板に書く公式や計算式すらも見やすく丁寧に板書されており、生徒たちがわかりやすいように配慮されている、そんなふうに思えるくらいに完璧で。

「答えが合っていてもそこへ至るプロセスがきちんと整理されて式がたてられないと駄目だよ。理解できていないということになる。」

 それが先生の口癖だ。

 スッキリと見やすく正しい式。順序立ててわかりやすい証明。もちろん、先生の授業は彼の理想とするもので、生徒たちにも評判は良かった気がする。


 

「すまないが、金田かねだくん、御茶を一杯頼めるかね。」

「はい、先生。」

 放課後科学室に残っているのは、科学部の部長のワタシだけ。

 そんなワタシにちょっとした雑用を頼む先生は、他の生徒たちが言うところの、

”とりつくしまもない”ほどの鉄仮面とは思えなかった。

 科学部の顧問でもある先生は、いつも科学準備室に籠もっている。 

 別に、ワタシと先生の間に恋愛感情とかそういうのが有ったわけではない。だって、先生は既婚者だし、ワタシはただの高校生。

 ただ、苦手な物理を教えてくれるから科学室に残って雑用をこなす。下心(単に物理や化学の成績にお目こぼしが欲しいという)アリアリのボランティア。御茶を淹れたり片付けを手伝ったり、書類の整理をしたり。そうそう、郵便物なんかも整理した。先生には郵送物が多くて、時には外国からのものもあったから。

 ただ、それだけの関係だった。

 先生には美人で有名な奥様がいると聞いていた。学校の駐車場に見たこともないような大きな外車が駐車している時、財産家の娘である先生の奥様が来たのだろうと噂されていたのだ。見知らぬ車が駐車されていると、よく学校長が騒いでいた。

 先生を崇拝するような後輩の学生もたくさんいたのだと知っている。稀に、先生を訪ねてどこかの大学生がやってきたこともある。そんな時、先生は訪ねられたことにひどく狼狽していたけれど。

「君、すまないが。御茶を二つ頼めるかね。」

 すっと平静を取り戻し、ワタシにそう頼むと、訪ねてきた学生さんを準備室へ通して、話し込んだりしていた。

 人気者は大変だなぁなどと他人事として感心していたものだ。

 きっと論文の質疑やら、卒業後の進路などについて相談でもしているのだろう。人望有る東宮先生のことだから。

 

 そんなワタシも卒業を迎える三年生の初春のことだった。

 先生のおかげもあってか、無事に大学にも合格し、進路も決まった。卒業式を控えて、登校する日数もわずかしか残されていない三学期のある日。

「やあ。卒業おめでとう。」

 先生は化学室にいて、まるでワタシを待っていたかのように振り返った。

「やだなぁ、先生。まだ卒業式まで数日ありますよ。」

「卒業式には出られそうにないんだ。だから、今のうちにお祝いを言っておきたくてね。三年間、君には世話になったから。」

「雑用しただけです。それに、先生のおかげで物理の赤点取らずに済みましたし。」

 先生はいつもと違ってどこか朗らかで、珍しくその秀麗な顔はとても緩んでいた気がする。もともと陰気なわけではないが、普段からそうそう笑うような人ではなかった気がして、珍しいと思った。

「実は、内緒だけど僕もこの学校を離れて別のところへいくことが決まったんだ。それで君に渡しておきたいものがあって。」

「渡しておきたいもの?」

「今後また物理に悩まされた時に、参考になれば。よかったら僕の連絡先も書いておくから、もし質問があったら遠慮なくメールでも電話でもしてくれたまえよ。」

 先生の手にあったのは物理の参考書だった。

 物理も数学も苦手なくせに、理工学部へ進もうとしているワタシへの、手向けなのだろうか。以前、アメリカの工学部へ留学するのが夢だと語った事を覚えていてくれたのかも知れない。

 教育や研究に熱心な東宮先生らしいと言えばらしかった。

「ありがとうございます。遠慮無く、頂きます。何かお礼を」

「うん、じゃあ、今日はコーヒーでも淹れてもらおうかな。」

「そんなんでいいんですか?」

「何よりだよ。そうそう、僕がそれを君に贈ったことは内緒にね。三年間も、ここで雑用をやってくれていたからさ。それに、君が僕と同じ道を選んでくれて嬉しいんでね。」 

 先生は、ワタシが淹れたコーヒーを美味しそうに飲んでいた。

 その横顔が、なんだか、忘れられないほどに、穏やかだった気がする。


 そして、先生の言葉通り、卒業式にその姿は無かった。



 

 やがて、ワタシは地方都市の大学へ入学し、初めての一人暮らしを始めた。入学したばかりだし、アパートぐらしも初めてで何かと忙しい年度始めだったから、高校時代の恩師のことも記憶の彼方にとんでいた4月。

 突然ワタシの携帯にかかってきた電話は、なんと、母校の校長先生からだった。

 高校の番号だったから、何事かと思い思わず出てしまったのだが。

「金田さん、あなた東宮先生から何か聞いてない!?」

 思わず携帯電話を耳から離す。それほどの剣幕だ。母校の校長先生は年配の女性なのだが、声がキンキンしていて大声を耳元で聞くのは酷だ。

 ていうか、何故、校長先生がワタシの携帯電話を知っているのか。

「何かって言われても、なんの話ですか。」

「突然退職して、その後行方不明になっちゃったのよ!」

「は?別の学校へ離任するんじゃなかったんですか?」

「あなたはそう聞いていたのね!?どこへ行ったか知らない!?」

 とにかく校長先生のキンキン声がやかましくてたまらない。なんでこんなにも声を荒らげているんだ。

「存じません。卒業式の数日前に、一度化学室でお会いして以来一切・・・。」 

「本当に!?何も!?」

「離任するってことだけしか。行き先とかも言及なさらなかったので。」

「わかったわ。もしも何か連絡が有ったり何か思い出したりしたらすぐに私の方へ連絡して頂戴。学校の内線で繋がるから。」

「はあ、わかりました。」

 慌ただしく電話は切られ、その激しい剣幕に圧倒されたワタシ。

 なんなのよ?一体。

 ていうか、ワタシの携帯なんで知ってんの。

 一切の疑問をすることも出来ないまま、呆然としていると、5分ほどおいて、再び携帯電話は鳴ったのだ。

 今度は全く知らない番号だった。

 なんとなくだが、嫌な予感がする。そして、えてして、嫌な予感ほど当たるものだ。

「もしもし・・・」

「あの、金田幸美かねだゆきみさんの携帯でよろしかったですか?」 

 若い男の声だった。警戒心が増す。

「そうですが、どちらさまですか?」

「突然すみません、僕は松村まつむらと申します。東宮先生の教え子で」

 ああ、やっぱり。

 予感は的中した。

 おそらく、彼はワタシが在学中に先生をよく訪ねてきていた学生だ、と確信する。

 先程の校長先生とのやりとりと同じものを繰り返し、電話は切れる。

 その後、4回も、東宮先生がらみの電話がかかってきた。

 奥様、先生の親御さん、友人など。

 そして、校長先生のときとまったく同じやりとりを計5回も繰り返すはめになったのだ。いささかうんざりした。



 確かに在学中は、東宮先生の生徒として親しい方だったかもったかもしれない。

 だが本当にそれだけなのだ。ワタシと先生の関わりは至ってシンプルで、科学部長と顧問。そして、雑用と成績というギブアンドテイク。持ちつ持たれつ。

 だが、こぞって先生の関係者がワタシに連絡してきたということは、他に親しいものが全くいなかったということなのだろうか。

 高校の友人に確認してみたが、ワタシにかかってきたような電話は一切受けていないという。本当にワタシにだけだったらしい。

 三年時に同級生で同じ科学部だった桐谷里緒奈きりたにりおなに電話をすると。

「金田、噂されてたんだよ〜。先生とラブラブなんじゃないかって。」

 などと言うではないか。

 クラスメートの言葉に震撼した。

「マジすか!?根も葉もない噂っしょ!ワタシはただ物理の単位が欲しかっただけで。他にはなんもなかったよ!」

「うん、金田のことよく知ってる子はちゃんとわかってる。だって、金田って色気ないもん。」

「さらりと失礼だけれど紛れもない事実を。」

「でもね〜。東宮先生って密かにモテてたから、やっかむ子はいたと思うよ。あんたが気づいてないだけで。」

「いや、気づいてなかったわけじゃないよ。気付かんフリしてただけ。だって事実無根の関係なのにヤキモチ焼かれたってどうしようもないから。」

「確かに。これも噂だけどさ、校長先生とか、保健体育の橋本はしもと先生とか、実は狙ってたんじゃないかって話。どっちも独身じゃん?」

「げっ・・・マジで?それは初耳。」

「時々奥さんが学校に来てたらしいって金田も知ってるっしょ。あれ、奥さんの牽制だったんじゃないかって。すっごいヤキモチ焼きの奥さんなんだってよ!!」

 きゃはははは、と楽しそうに笑いながら話す同級生の言葉が、他人事なのに他人事に思えなくなってきた。

 卒業してから耳に入ってくる情報があまりに多くて、頭がパンクしそうだ。

「ねぇ、奥さんがやきもち焼きってどこ情報?」

「ああ〜、これはただの推測って奴じゃん。だって普通に考えて職場に押しかける奥さんなんて嫉妬深そうだから。」 

「・・・あのさ、なんで校長先生とか奥さんとか、ワタシの個人情報・・・てか、携帯番号知られてたのか、謎なんだけど。」

「多分だけど、生徒の誰かが洩らしたんじゃん。クラスのグループ作った時に同級生にはバレるっしょ。」

 万事休すかよ。

 一人暮らしする時に退会しとけばよかった。もしくは携帯番号変えりゃよかった。



 こうなるといよいよ東宮先生に連絡をとらなくては行けない気がしてきた。

 質問はある。残念ながら学術的な疑問ではないが。

 薄々答えはわかるような気がしないでもないが、やはり確認を取りたい。

 参考書の裏表紙に書かれた、先生の携帯番号とメールアドレスを、自分の携帯に入力する。

 ”ご無沙汰しております。質問がありますのでご連絡させていただきました。”

 短い文章でまずはメールを出す。

 翌日に、返事が返ってきた。

 ”久しぶりだね。いつ頃なら電話してもいいかね?時間を指定してもらえたらこちらからかけよう。電話代を君に支払わせるわけにいかないから。”

 実に東宮先生らしい返信だった。

 まるで、ワタシが連絡することを待っていたかのように。

 ワタシは、暇な日時をメールで送る。またも一日置いて、電話がかかってきた。



「もしもし」

「やあ。お久しぶり。元気そうで何よりだ。大学生活は順調かね。」

「順調でしたよ。先生絡みの、怒涛のような電話がかかってくるまでは。」

 東宮先生の声は相変わらず落ち着いていて、穏やかだった。



「妻とはだいぶ前から関係が悪化していて。とにかく激情家で、参っていたんだ。何ていうか、とにかく僕を逐一把握していないと正気でいられないような、支配者精神コントロールフリークでね。しかも、以前僕が講師をしていた大学の学長の娘だったから厄介この上なくて。」

「はあ。それはそれは・・・」

「悩んでいた時に、教え子の一人だった松村が寄ってきて。奥さんと俺が不倫して上げますよ、とかいい出した。そしたら離婚できるでしょ、マスターコース終了した後の就職先を保証してください、って言うんだ。僕はそんなこと出来ないよって断ったんだけど、彼、大学卒業時の就職活動で色々やらかしてて、僕が企業に顔が効くと思ってしつこく言ってくるんだよ。」

「それは、また、厄介な・・・」

「あの高校に赴任してようやく楽になったと思ったのに。何故か校長先生がやたらと関係を迫ってくるし。僕は既婚者だしあなたも年と立場を考えなさいって言っちゃったんだけど、そしたら余計にヒートアップしちゃって・・・そんなこと言われたらますます燃えるみたいな、障害が有るほどなんちゃらとかで。もう、勘弁してほしくて。どこから嗅ぎつけてきたのか、松村はまた現れるし、妻も度々学校に来るしで、迷惑をかけてただろう?」

「はあ・・・」

「涼しい顔して過ごしていたつもりだけど、僕は精神的にはもう追い詰められていて。どうにもこうにも。妻が子供が出来ないのはあなたのせいだって詰め寄ってくるし。そんなこと言われても、僕はちゃんと不妊治療にも行ったんだよ。それでも授からないものは仕方ないじゃないか。」


 なんか。

 あんなにも完璧で理路整然としていて。

 きちんとしていないと気がすまない潔癖症みたいな東宮先生なのに。




「なんていうか、ぐちゃぐちゃな関係だったんですね。」




電話口の向こうで、長ーいため息をついた先生は、小さく、うん、と言った。



「それで、どうしてワタシにだけあの参考書を・・・」

「僕が姿を消せばやっきになって捜索されちゃうだろう。相手の動きも少しは知っておかないと、逃げ切れないから。君は口も硬いし、何か異常があればきっと僕に質問をしてくるだろうって確信してた。」

「・・・よくも、巻き込んでくれましたね。」

「すまない。君にしか頼めないと思ったんだ。騙した形になって本当に申し訳ないけど、こうして連絡をもらって有り難いよ。」

 東宮先生の言わんとすることが、だんだんわかってきた。

 というか薄々勘付いてはいたのだけれど。

「先生、ワタシは先生に協力するのにやぶさかではないです。」

 きっとこれからも、先生を探す身内の方々の動きを知らせてほしいということなのだろう。

「うん。君ならそう言ってくれると思ってたよ。」

「もちろん、何かワタシにメリットがあるんでしょ?」

 だって、東宮先生とワタシの関係はいつだってギブアンドテイクのはずだ。

 高校の時も、ワタシは口が硬い雑用係。

 先生は、ワタシの成績を保証する。

 シンプルに成り立つ関係だったのだから、きっと先生は何か用意してくれている。

「今、僕が働いている職場に招待しようかと思ってるんだ。来年あたり、留学生として来ないかい?」


 東宮先生は、ワタシたちの卒業を待たずしてアメリカに渡った。そして、とある大学の工学部で教鞭と取っているのだという。以前からオファーは来ていたらしいが、それを身内に知られたくなくて、ずっと隠していたのだそうだ。



 大学二年生になったワタシは、休学届を出し、先生のいるアメリカの大学へ留学することになった。

 その頃には、先生は奥様との離婚届が受理され、ぐちゃぐちゃな関係の全てが解消されたらしい。そのために、多少の骨を折ってやったのは、このワタシ。

 奥様が学生の松村くんと不貞関係だったことをリークしたり、校長先生が東宮先生に御執心だったことをさり気なく高校に暴露して職場を針の蓆にしたてあげてやったり。

 東宮先生が綺麗サッパリした身柄になるのを手伝った。


 だからといって、別にワタシは先生とどうにかなりたいと思ってなどいない。

 こんなに無駄にモテて、しかも自分のケツを自分自身の力で拭えず逃げ出すような男なんてまっぴらだ。


 けれどもワタシと先生は、シンプルに、ギブアンドテイクな関係だから。

 

 いただくものはいただく。それだけだ。

 アメリカの工学部へ留学するのはワタシの中学の頃からの夢だった。

 有る意味、これはワタシが自分自身で叶えた夢と言えるのではないか?










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