No.6 マタギの孫

風白狼

マタギの孫

 秋田は阿仁あにの里の雪が解けるころになると、マタギたちはそわそわと猟を待つようになる。げんが春を実感するよりも早く、彼らは敏感に季節の変わり目を見極めて、持て余した焦燥や期待を囁きかわす。


 いくにいいべか。いくにいいべか。もうおきたべしやな。

 いいんでねえか。いいんでねえべか。


 春猟の獲物は、冬眠から目覚めて動きの鈍い熊であって、普段から獲っている小さなうさぎや、ブナの木に生えてくる天然の舞茸まいたけなどではないのだ。期待をするなというほうが無茶だ。巣穴から出てきたばかりのを、猟師たちは狙っている。

 源は老人たちのささやき声を頬で受けながら、亡き祖父より継いだ鉄砲を磨く。


 ――源、木にれ。おめは木だ。そんでねば、猟さはでられね。


 源の祖父は名うてのブッパ鉄砲撃ちだった。勢子せこたちが大声で追い立てた獲物を、瞬時に仕留めることに関しては、阿仁の源次郎の右に出るものはなかった。しかしその名人はもういない。若くしてマタギの道に入ろうと決めた25のわかものがひとり、燻ったまま銃を撫でている。


 ――木に成れ。忘れろ、憎しみは里さ置いてこぃ。そんでねば、熊もにげるべよん。


 源はまだ、熊を撃ったことがない。




 祖母が熊に襲われて亡くなったのは、源が五つのころだった。すぐさま祖母を食った熊は撃ち殺された。人肉の味を覚えた熊は人だけを襲うようになる。人の肉は、熊にとってたいそう美味なものらしい。

 ブッパを務めたのは祖父・源次郎であった。妻を食った熊を見下ろして、祖父は長い息を吐いた。長い長い息だった。そして、源の前では笑ってみせた。


 ――おばあちゃんがかえってきたなあ。


 その熊は、はく製にされて今も源の家に飾ってある。

 マタギは決して、無駄な殺生をしない。熊を殺すのは、娯楽のためでも、力を示すためでもない。暮らしの中に必要だから、殺すのだ。殺した熊は余すことなく活用される。血も肉も全てをきれいに切り分ける。マタギたちは獲物を平等に分け合う。ブッパにも勢子にも、病で猟に出れなかったものにも、均等に分ける。


 あんな可愛い愛くるしい生き物を殺すなんて、という意見を見ることも少なくない。けれど腹をすかせた熊は、農作物を食い荒らす。家畜を殺す。そして、果ては人を食う。

 ――おめには難しいかもわかんねばって、山と里とのバランスなんだな。

 と祖父は繰り返し言ったものだった。そのたび、この人は悲しくないんだろうか、と源は思った。妻を殺されて熊を恨まない祖父のことが不思議だった。

 少なくとも、孫の自分は熊を恨んでいる。




 四月、ようやく陽気が感じられるころになると、マタギたちは源を山へ誘った。


 ブッパやってみねえか。

 源。うさぎ仕留められたんだべ。熊もやれるんでねべか。

 大丈夫だすべ。源次郎さんの孫だでな。


 源は祖父の猟銃を担ぐ。源の、190を超える巨躯にそれは小さく思えた。源は、背中一杯にこれを負っていた祖父の小さな背中を思い出した。祖父はもういない。


 阿仁の山はまだ雪を纏い、だからこそ猟に最適なのだ。獲物の足跡は雪やぬかるみの上にくっきりと残って、奴らの行先を示す。


 親子だ。

 親子だな、こりゃ。

 近くさいる。源。

 

 老マタギは源を見上げて、この付近に陣取るようにと言った。源は頷く。


 仕留めた時はショウブ!て叫べ。


 わかっている、と答えると、マタギは源の上から下までじっくりと観察すると、しわまみれの顔に笑みを浮かべた。


 昔の源次郎さそっくりだなぁ。





 憎しみは里さ置いてこい……。

 木に寄りかかり、猟銃を構え、源は息を殺す。勢子を務める老練のマタギたちはまだ合図を送ってこない。

 憎しみは里に。

 猟銃の銃口がかたかた震える。源は息を吸う。吐く。それでも「木」でいつづけなければいけない。

 源は知っている。このまま何時間も待つこともある。その間ブッパは、ひたすらに待つのだ。


 待つ間、何度もよぎるのは祖母の優しい顔だったり、その無惨な遺体だったりした。源の瞼の裏を何度も何度も、それがよぎった。

 おばあちゃん。

 おばあちゃん。

 源が舞茸を食べたいと言ったばかりに。


 遠くから勢子たちが合図を送ってきた。深閑しんかんとした森の奥から、勢子の個性豊かな叫び声が聞こえてくる。

 勢子は声で獣を追い立てる。自身も山を駆け、叫びを上げ、獲物をブッパの射線上まで追い込むのだ。


 耳元に、祖父のいまわの際の言葉が聞こえた。

 ──源。

 ──熊を憎むな。


 憎しみは里に置いてこい。憎しみは里に置いてこい。

 木になれ。成れ。そうでなければ、そうでなければならない。

 なぜなら源は山の恵みをいただくマタギだからだ。憎いから殺すのでは無い。楽しいから殺すのでは無い。そうでなければから殺すのだ。食わずにいられない熊と同じで。山の恵みを獲ることで永らえてきたその一族として、命をいただくものとして、源は──。


 憎しみは里に。ただ木に成る。


 射線上に黒い点が見えた。小さな黒い点がふたつだ。源は息を詰めて2発撃った。点は動かなくなったが、勢子の叫び声がまだ響いていた。

 源はすかさず点目掛けて走り出した。獲物は2頭。撃ち漏らしてはいないか……その一心で走る。そして。


 空を仰いだ。熊の親子は動かなくなっていた。


「ショウブ!ショウブ!ショウブ!」


 源は声高に叫んだ。何度も叫んだ。

 木々の枝に覆われた空は滲んでいた。


「ショウブ!!」


 勢子達も繰り返す。ショウブ。ショウブ。ショウブ……

 マタギたちの声は春の山に吸い込まれていく。老人たちは源を小突き、その腕前を褒めた。源は涙ぐんでいた。



 これはマタギ・源の始まりに過ぎない。

 文明の波に飲まれて消えつつある山人さんじんすえとしての、源の始まりにすぎないのである。

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