No.6 マタギの孫
風白狼
マタギの孫
秋田は
いくにいいべか。いくにいいべか。もうおきたべしやな。
いいんでねえか。いいんでねえべか。
春猟の獲物は、冬眠から目覚めて動きの鈍い熊であって、普段から獲っている小さなうさぎや、ブナの木に生えてくる天然の
源は老人たちのささやき声を頬で受けながら、亡き祖父より継いだ鉄砲を磨く。
――源、木に
源の祖父は名うての
――木に成れ。忘れろ、憎しみは里さ置いてこぃ。そんでねば、熊もにげるべよん。
源はまだ、熊を撃ったことがない。
祖母が熊に襲われて亡くなったのは、源が五つのころだった。すぐさま祖母を食った熊は撃ち殺された。人肉の味を覚えた熊は人だけを襲うようになる。人の肉は、熊にとってたいそう美味なものらしい。
ブッパを務めたのは祖父・源次郎であった。妻を食った熊を見下ろして、祖父は長い息を吐いた。長い長い息だった。そして、源の前では笑ってみせた。
――おばあちゃんがかえってきたなあ。
その熊は、はく製にされて今も源の家に飾ってある。
マタギは決して、無駄な殺生をしない。熊を殺すのは、娯楽のためでも、力を示すためでもない。暮らしの中に必要だから、殺すのだ。殺した熊は余すことなく活用される。血も肉も全てをきれいに切り分ける。マタギたちは獲物を平等に分け合う。ブッパにも勢子にも、病で猟に出れなかったものにも、均等に分ける。
あんな可愛い愛くるしい生き物を殺すなんて、という意見を見ることも少なくない。けれど腹をすかせた熊は、農作物を食い荒らす。家畜を殺す。そして、果ては人を食う。
――おめには難しいかもわかんねばって、山と里とのバランスなんだな。
と祖父は繰り返し言ったものだった。そのたび、この人は悲しくないんだろうか、と源は思った。妻を殺されて熊を恨まない祖父のことが不思議だった。
少なくとも、孫の自分は熊を恨んでいる。
四月、ようやく陽気が感じられるころになると、マタギたちは源を山へ誘った。
ブッパやってみねえか。
源。うさぎ仕留められたんだべ。熊もやれるんでねべか。
大丈夫だすべ。源次郎さんの孫だでな。
源は祖父の猟銃を担ぐ。源の、190を超える巨躯にそれは小さく思えた。源は、背中一杯にこれを負っていた祖父の小さな背中を思い出した。祖父はもういない。
阿仁の山はまだ雪を纏い、だからこそ猟に最適なのだ。獲物の足跡は雪やぬかるみの上にくっきりと残って、奴らの行先を示す。
親子だ。
親子だな、こりゃ。
近くさいる。源。
老マタギは源を見上げて、この付近に陣取るようにと言った。源は頷く。
仕留めた時はショウブ!て叫べ。
わかっている、と答えると、マタギは源の上から下までじっくりと観察すると、
昔の源次郎さそっくりだなぁ。
憎しみは里さ置いてこい……。
木に寄りかかり、猟銃を構え、源は息を殺す。勢子を務める老練のマタギたちはまだ合図を送ってこない。
憎しみは里に。
猟銃の銃口がかたかた震える。源は息を吸う。吐く。それでも「木」でいつづけなければいけない。
源は知っている。このまま何時間も待つこともある。その間ブッパは、ひたすらに待つのだ。
待つ間、何度もよぎるのは祖母の優しい顔だったり、その無惨な遺体だったりした。源の瞼の裏を何度も何度も、それが
おばあちゃん。
おばあちゃん。
源が舞茸を食べたいと言ったばかりに。
遠くから勢子たちが合図を送ってきた。
勢子は声で獣を追い立てる。自身も山を駆け、叫びを上げ、獲物をブッパの射線上まで追い込むのだ。
耳元に、祖父のいまわの際の言葉が聞こえた。
──源。
──熊を憎むな。
憎しみは里に置いてこい。憎しみは里に置いてこい。
木になれ。成れ。そうでなければ、そうでなければならない。
なぜなら源は山の恵みをいただくマタギだからだ。憎いから殺すのでは無い。楽しいから殺すのでは無い。そうでなければ生きてゆかれないから殺すのだ。食わずにいられない熊と同じで。山の恵みを獲ることで永らえてきたその一族として、命をいただくものとして、源は──。
憎しみは里に。ただ木に成る。
射線上に黒い点が見えた。小さな黒い点がふたつだ。源は息を詰めて2発撃った。点は動かなくなったが、勢子の叫び声がまだ響いていた。
源はすかさず点目掛けて走り出した。獲物は2頭。撃ち漏らしてはいないか……その一心で走る。そして。
空を仰いだ。熊の親子は動かなくなっていた。
「ショウブ!ショウブ!ショウブ!」
源は声高に叫んだ。何度も叫んだ。
木々の枝に覆われた空は滲んでいた。
「ショウブ!!」
勢子達も繰り返す。ショウブ。ショウブ。ショウブ……
マタギたちの声は春の山に吸い込まれていく。老人たちは源を小突き、その腕前を褒めた。源は涙ぐんでいた。
これはマタギ・源の始まりに過ぎない。
文明の波に飲まれて消えつつある
No.6 マタギの孫 風白狼 @soshuan
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