AIに三島由紀夫を真似た文を作らせてみたというエッセイ。
AIの描いた文章は、文体はともかくそれなりにそれっぽくは見える。
だが、仮にAI によって三島由紀夫の文体を完全にコピーしたとしても、それはただのパスティーシュにすぎないだろう。
少なくとも私が三島由紀夫を読むのは作家としての強烈な個性あってのことだ。
いくら上手く真似をしても、その作品の奥にあるのは三島という人間ではない。
そのようなものに人が、作家が手ずから書いたものと同等の価値を見いだすことはないだろう。
一つの作家のスタイルを真似たコピーを作り出すということは、商業として見ればとても有用な技術だろう。しかし、文学作品という存在が、1人の人間の内面を形にしたもので、読者はそれを通じて作者の心と対話するものと考えると、過去の作家の二番煎じを無限に作り出すことに意味はない。少なくとも文学としては。
しかしまた、同時に感じるのは、これだけ長い文学史の中で多くの作品が作り出されている。以上、全く新しいものを創作するということは、後の時代になるほど困難になっているという事実である。
かつての三島のように、世の人々の心に衝撃を与えることが、今の文学者にできるのだろうか? 過去の作品の要素を、ただ組み合わせる以上のことが、まだ文学にはできるのだろうか?
私はその疑問に答えることができないが、もしかするとその答えを知る
新たな才能の萌芽は、このカクヨムに既に生まれているのかも知れない。
AIと言う概念を持ち出し、往年の大作家とコンタクトする。
令和と言う近未来の発想。若さゆえの機転の利き方。
将来、手ぐすねを引かなくても文壇にAIは登壇する。
かの林真理子氏が予見するなら尚更だろう。
上記に断ったように、近未来。両の指で足りる程の年月。
僕のデータベースに、太宰も、三島も、川端も村上も居ない。
……否、村上春樹氏は根深く存在しているか。
とにかく、AIは人間の仕事を奪うことで有名だ。
ライトノベルの派生のように
エーアイノベルなるジャンルが確立されるかも知れない。
AIの文体を見れば「まとも」の一言。
大人を「ダイジン」神父さんを「かみとうさん」と訳す
文書読み上げアプリには、もうすこし学習の暇を。