北極の白いオオカミ
@ramia294
北極の白いオオカミ
僕が、学生の時代。
遥か昔だが…。
生き物を扱う学問は、当時そう呼称していた分子生物学が主流だった。
現在の呼称は、知らない。
それが駄目だとは、思わない。
しかし、それ以外を認めない世界が、嫌だった。
僕は、生きている動物の生態を知りたかった。
それだけだった。
つまり、ただの動物好き。
だから、この道を選んだのに…。
不満が、心の闇を掻き乱した。
僕は、その頃の学問には、不向きの人間だった。
研究をサボって、アルバイトを頑張り、最終的には、大学から離脱して、ひとりで北極圏へ向かった。
只々、北極オオカミの姿を見たかった。
この目で、姿を見れば満足だ。
確かに、学問ではない。
紆余曲折の末、オオカミの比較的多い場所まで飛行機で送ってもらった。
湖に着水すると、春に迎えに来ると言い残し、飛行機は空に消えた。
その時の僕は、気楽だった。
研究者ではなく、ただの観察者だ。
心は、解放感で満たされていた。
荷物をソリに積み、オオカミを探し移動するつもりだったのだが、まだ雪のあるところはまばらで、足元もぬかるみ、目的地には遠回りするしかなかった。
テントを張り、小さく色とりどりの草花やどこまでも澄み切った湖などの美しい自然を満喫したのは、3日もあっただろうか。
ある朝、突然白一色の世界になった。
湖は氷り、草花は雪に埋もれた。
しかし、ソリは自由に引けた。
移動は、格段に楽になった。
事前に、この辺りならと考えていた所まで、移動を始めた。
広大な北極圏のどこまでも広い大地を徒歩で移動しようというのだから、無茶な話だ。
若さとは、そういうものだ。
しかし、オオカミの方から僕を見つけるだろうと期待はあった。
仮に、近くまで辿り着いても、彼らがその気にならなければ、人間の方から彼らの姿を見つけることは、難しいだろうと思っていた。
オオカミは、好奇心の強い動物だ。
おそらく、接触してくるのも彼らの方から。
でないと、目的は達成出来ない。
僕は、わざと派手に火を焚き、大きな音をたてながら移動し、下手な歌を歌いながら、ノンビリ歩いた。
すぐに、好奇心の刺激されたオオカミが、思惑通り姿を現した。
距離を置いてだが、僕を観察しているらしい。
危険な相手ではないと分かったのだろう。
彼らは、姿を晒した。
巨大なオスのオオカミとメスのオオカミ。
さらに、少し小さいがとても美しいオオカミ(おそらくベビーシッター)の3頭で、行動しているらしい。
この土地は、彼らの食べ物が、豊富なので、大きな群れになる必要は、あまり無いのだろう。
食べものは、ネズミだ。
そこら中にいた。
その事は、分かっていたので、捕獲する準備は十分にしてきた。
ネズミを捕り、焼いて食べた。
清浄な北極圏のネズミは、街で手に入るどんな肉よりも安全で美味しい食べ物だ。
焼肉のタレは、偉大だった。
もちろん、皮をむき肉を食べた。
オオカミは、丸ごと食べる事で肉体を維持している事の証明は、遠い昔に終わっている。
僕は、より美味しく食べるために調理した。
ネズミを処理するには、研究者だった頃の解剖経験が、役に立った。
余分に捕獲したネズミを素焼きにして、わざとテントの外に置いた。
オオカミたちは、新しく現れたネズミ捕りのライバルに興味深々。
三日後には、素焼きのネズミを盗んでいった。
以来、僕がネズミを焼いていると、近くに現れるようになった。
僕が放り投げた、ネズミの素焼きを食べると、満足して帰っていった。
巨大なオオカミが、小さなネズミを嬉しそうに食べる姿は、微笑ましかった。
しばらくすると、少し小さなオオカミが、ネズミをくわえて、テントまで来ると僕の前に、くわえていたネズミを置いた。
「くれるのかい?」
僕が問いかけると、オオカミは、首を少し傾けた。
代わりに、素焼きを置いてやると、嬉しそうに食べた。
このオオカミは、夜、テントで寝ていると、テントの前で寝るようになった。
朝、焼いたネズミを与えると、嬉しそうに食べて、帰っていった。
ある日ひどく吹雪いた。
悪い事に、僕は体調を崩した。
外のオオカミが心配そうに、入り口から覗き込もうとしている。
僕が、入口を開くと中に入って来た。
弱った個体の僕を食べる気かなとも思ったが、彼女は、吹雪の中、苦労して捕獲したネズミを僕に差し出した。
「ありがとう。でもごめんね。いま食欲が出なくて」
考えてみれば、言葉が通じるわけもなく、彼女に話しかけながら、一人で笑った。
その日から、僕とそのオオカミは、テントで抱き合って眠った。
彼女の毛皮は暖かく、寒さ知らずの夜が続いた。
満月の夜。
僕が、下手な歌を歌うと、
彼女は、美しい声で遠吠えをした。
すると、あの巨大なオオカミの夫婦と数頭のオオカミが、現れた。
全員、ネズミを咥えている。
焼いて欲しいのだろうと、まだフラフラする身体で、準備をしていると、全頭で出かけて行った。
全員分の素焼きを作り、僕は寝てしまった。
外の騒がしさに、目覚めると、あのメスオオカミが、カリブーの脚を咥えて、僕の前に差し出した。
どうやら、僕へのお見舞いらしい。
素焼きのネズミは、全て捕まえたばかりのネズミに変わっていた。
どうやら、焼けという事らしい。
その夜は、満月。
テントの中の彼女は、その夜、初めて人間の言葉を話した。
「あの肉は、あなたへの群れからのお見舞い。そして、私をお嫁さんにしてほしいという、私の気持ちを群れの仲間が、応援してくれたもの」
その夜、彼女は初めて人の姿に変わった。
美しい彼女は、人の姿も美しかった。
オオカミは、全て、人の姿に、変われるらしい。
もちろん言葉は、理解出来ているし、僕がスーパー音痴なのもバレている。
しかし、その事が彼らの興味を引き、ネズミの素焼きが僕の好感度アップに協力してくれた。
次の春には、人間の世界へ帰らなくてはいけないと、彼女に告げた。
彼女は、ついていくと言った。
長い、長い北極の夜。
僕たちは、見つめあい、語り合い、オーロラを眺め、明けない夜に、感謝した。
北極圏の春は、雪どけと永久凍土のために、地面がグチャグチャである。
彼女は、オオカミの姿で軽快に歩いたが、僕は何度も足を取られて、倒れた。
「地面がグチャグチャだよ」
その度に、僕は言い訳をする。
彼女には、よほど印象に残った言葉なのだろう。
迎えに来た飛行機のパイロットに、名前を訊ねられた時、氷った雪に足を取られて、僕はまたもや倒れた。
僕のダウンジャケットを着ている彼女は、大笑いしながら、
「私の名前は、グチャグチャ」
と、答えた。
パイロットが、特に疑問を挟まなかった事には、驚いた。
カリブーの毛皮を着た僕は、彼女と一緒に飛行機に乗り込んだ。
今、僕たちは、北海道に住んでいる。
彼女が、暑さに弱いからだ。
もちろん、彼女の名前は、グチャグチャではない。
彼女は、固執したが、茶々という名前で、妥協してもらった。
子供は、ふたり。
男の子と女の子だ。
彼らは、人の姿でいる事が、当然な事として育っている。
しかし、時々気が緩むらしい。
子供たちに、最初に教えた事は、人前で尻尾を出してはいけないという事だった。
あの大地は、今もきっと美しいままだ。
終わり
北極の白いオオカミ @ramia294
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