花の美しさがわからないのだから

アリサカ・ユキ

花の美しさがわからないのだから

「あなたには、花の美しさがわからないのだから、私たちはうまくいくはずがない」


そんなことをあの人に言われたのは、私が17になった頃だった。


15の頃に出会い、その時あの人は20だった。


私はおとなしい少年で、学校では、いるのかいないのかよくわからない影の薄い存在だった。


朝、出席をとる時、担任の先生に名を呼ばれ、返事をしたのだが、聞こえていなかったらしく、帰りになって、「お前、いつ来たんだ?」と問われることもあった。


仲が良いはずの数人の友だちは、密かにまたは公然と私のことを見下しており、私がどんなにテストで彼らよりはるかに良い成績を取ろうが、そのことについて言及することはなかった。


毎日が、色のない景色に見えたのだから、確かに私には花の美しさはわからなかったのかもしれない。


私がわかったのは、あの人の20になるのに、まだ夢見る少女のような甘い顔立ちと、目の覚めるように白い肌の、すっきりとした涼しげな立居。


私はその頃、自分の無価値さが辛くて、「ほんもの」になろうともがいていた。

美術館に行けば、「ほんもの」がたくさんあるはずなのだから、何か意味のあることだと、よく行っていた。


その日、私は、現代作家の写実絵画の展覧会に赴いて、その画布に彩られたみずみずしい密度に圧倒されていた。私よりもそちらの方が、確固とした実在感があるような気がして、打ちのめされていた。


ロビーのソファに座り込み、うなだれていたのだ。


「それでポストカードだけど、それは美そのものでなくて、美の模写でそのイメージを喚起するに過ぎないとして、果たして私たち人間に美はあると思う?」


突然の質問があの人からのものだった。あるいは私が学生服を着ていたから、年下の少年で、ちょっとした、遊びがしたかったのかもしれない。


その人は、三つ編みに束ねた髪の毛の一本の束を、背中と一緒にこちらに向けて、私の横に座っていた。


この人は独り言をしているのだ……。


初めは驚きもしたが、すぐにそう思い、私は黙っていた。


「ねえ、どう思うの?」


その人は私の方に向いた。


季節は夏。動植物たちが、その有り余るエネルギーで生きることにふるえる美があるとして、あの人の双眸もきらめいていた。


「値段がついたもの、であたしたちは生きるのだけど、何かを手にいれたとたんに、それは、新品、でなくなり、価値を落とす。きれいなもの、であり続けなければ価値を認められない世の中で、だから、人は人を騙すのよ……」


私は初めて、酔っ払いというものに絡まれていた。両親もお酒は飲んでいたが、こんなにタチの悪いことになったことはない。


通路をいく大人たちの視線が目の前の女性に注がれることに、私は何故か胸が痛かった。


「人間の魂は、美しいのでしょうか……」


私は、逆に質問をしていた。


その人は、まじまじと私の顔を見て、そして、「ビールが欲しいわね」とボソリと言う。


「コンビニが少し歩けばあったはずですが」


あの人は笑い、「行こう」と立ち上がった。


私たちは美術館を出て、しばらく歩いた。


「少年よ、その答えはあなたの心の中にある」


はじめ何を言い始めたかわからなかったけど、先の質問の答えだと、理解した。


あの人はビールを買い、店の前で堂々と缶のタブを押し開き、ごくごくと飲んだ。


「生きがいだな。これ」


薄い生地のくるぶしまである白いスカートのポケットに片手を突っ込んだ彼女は、悪びれることもなく、私に缶を渡そうとした。


「僕は飲める歳ではありません」


あの人は強要しようとはしなかった。


「美しいものには、正しさがあるように見える。でも、残念ながら、世界に正しいことはないのだから、美しいものもないのよ」


「神話の中の英雄たちは」


私は、何故かこの人に心を一部、許していた。


「花を贈りたいわね。気高く力強いものに……」


「でも、美しいものはないんでしょう」


儚く笑ったあの人は、そのまま黙った。缶ビールに何度も口付けて、飲み続ける。


太陽はいまだ高く、夏の日差しは翳りを見せていなかった。


よくわからないそんなことで、私たちは仲良くなった。


お互いに曖昧に見せる心の傷に、近いものを感じあったのかもしれなかった。


私たちは頻繁に会った。相手の居場所がリアルタイムでわかるアプリが便利だった。


あの人は美大生で、油絵を描いていた。私はそして、絵を見せてほしいと言ったことがない。当時は出会って話したいことを聞いてもらうことだけが大事で、あの人のことを本当に理解したいという、そういう思いに欠けていたのだ。


そんなふうだったから、愛想を尽かされたのは当たり前かもしれない。


私は大学生になり、同じ年齢の女性と付き合い始めた。


彼女はおっとりとした優しい女の子で、およそあの人とはイメージが違った。


彼女の天然な鈍感さを最初、私は可愛いと思っていたが、付き合いが長くなると、私をイライラさせた。


「僕を不機嫌にさせないでくれ」


私は彼女に度々そう言った。彼女がわかってくれないことに不満を募らせながら。


そしてある日から、彼女は私の電話に出なくなった。あれだけ、愛して、気を使ってきたことが全部否定された。


私はそれから今日まで、誰かと付き合うことを避けている。


「あなたには、花の美しさがわからないのだから、わたしたちはうまくいくはずがない」


私は、その言葉をいまだ、頭の中がぐちゃぐちゃになる程、いつまでも、考えて考えて、そして、きまって、あの人の甘い顔立ちや涼しげな立居を思い出すのだ。


この言葉の意味がわからなくては、また、大事な人を失う。そう思いながら。


〈花の美しさがわからないのだから 了〉


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花の美しさがわからないのだから アリサカ・ユキ @siomi

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