破壊衝動

酸味

感触、音、におい

 くちゅ、ぐちゅ、ぬる……。

 こんなことが到底許されるべきでないということは知っています。こんなことは倫理に反しているということは分かっています。けれどそんな理性的な言葉や道理や、形のない倫理というものがあったとして、欲望が抑えられることなどあるのでしょうか。欲望というものは、これはきっと本能的な部分から来ていることであって、意識のある私には制御しえない、人間の根源に位置しているものであるように思えます。反対に、理性や道理や倫理というものは後天的に、人間社会が生み出したものです。そうだというのに、どうして理性で欲望を抑えられるのでしょう。

 もちろん私は社会に生きています。大都市に住み、大学へ通い、アルバイトをしている。スマホやSNSを駆使して大学生活のための情報を集めている。Z世代と括られる年齢でありインターネットや様々な科学技術にどっぷりつかりこんでいる。生まれた時から周囲には機械や電気や、様々な人工的なものに囲まれてきた。まだ受精卵であった頃から、おそらく私は機械によって看視され、保護されていただろう。

 だけれど、私が人間であることに変わりはない。昭和やそれ以前に生まれた人間とは異なる価値観や嗜好を持っていたとしても、食事をとらなければ生きていけないし、睡眠をしなければ死んでしまう。性欲だって、人並みにある。いくら周囲が機械化されたとしても、ガソリンやら軽油やらの燃料や、USBケーブルを咥えたとしても食欲は満たされないし、睡眠欲は消えない。結局のところ私は機械化されることがなく、人間の部分は消え去ってはいない。それはつまり、原始的な、野蛮な生物らしさが残っているということでもある。

 だからこれは、仕方がないことであると思う。


 足の裏で崩れていく豆腐や、押しつぶされる白米。はねた水しぶきが脚を伝って垂れていく感覚は、私にはとても形容しがたいもので、代えがたい、強烈な快感だった。押しつぶされ、崩れた食べ物だったかけらが跳ね、足に付着する。足の指と指の間に入り込む、ぬるぬるとして、もろい食べ物の感覚。そして、してはいけないということをしてしまう快楽。

 世界には毎日ご飯を食べることだってできない人がたくさんいる。そんなことは分かっている。耳が腐るほど、そんな言葉は聞いてきた。ある時期になると毎度毎度のこと、アフリカの悲惨な状況云々を訴えるCMが流れていたことだって忘れたわけではない。でも、だからと言って私の感情を押さえつけられることがまかり通っていいのだろうか。彼らの悲惨な現状とを比較して食べ物の無駄を非難するのならば、彼らの自殺者数と我々の自殺者数を比べてみればいい。彼らが身体的な飢餓に苦しんでいるのならば、私たちは精神的な飢餓に苦しんでいる。どちらがましか、どちらが正しいか、どちらが優先順位が高いか、そんなことはばかげている。

 私は生まれた時から縛られていた。初めのころは両親によって縛られていた。何をするのにも否定が入り、私がしたいと思うことができたためしなど、覚えている限り一つだってなかった。私の幼少期はまさに両親の奴隷だった。インターネットが解放の調を携えて、私のもとを訪れるまで、私は精神的にも身体的にも、自由はなかった。

 そしてまた精神的自由を獲得したインターネット以降からは、周囲の目が、つまりは社会が私を束縛するようになった。ようやく自由になって、抑圧された感情を放出しようとしてテレビに映ったのは、バイトテロや炎上で不埒なことをしている人たち。そしてネット世界で彼らの個人情報はさらされ、その人生が破滅していく姿。私はそこまで後先が考えられないわけではなかった。だからまた抑圧され続けていた。以来ずっと、息を潜めて生きている。

 だからこの、社会倫理に真っ向から反抗するこの行為が、どうしようもなく心地よいのかもしれない。だから中毒じみた状態になってしまったのかもしれない。


 脳を犯すような、官能をくすぐる音。

 それは解放の快感、抵抗の恍惚、退廃の魅惑。

 今日も明日も、私はとらわれ続ける。

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破壊衝動 酸味 @nattou

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