勉強依存症

橘 小夜

第1話

「坂本君、このままだと留年するよ」

前期の通知表が配られた日の放課後、担任の先生に呼び出された。

「……すみません」

声を絞り出すだけで精一杯で反射的に俯くと、所々一のついた通知表が目に入りうんざりする。今回の期末テストはできたと思っていたから尚更だ。

「謝られてもねぇ、こっちは何も関係ないし。これは君の問題だから」

担任の声がいつになく冷たく、そのことが余計に心を締め付ける。

「……どうしたら留年回避できますか」

「まずは提出物をしっかり出すこと。そして忘れ物はなくす。勉強はそれからだから」

「……分かりました」

それだけ言うと俺は教室から出た。何だか自分の人間性を疑われているようで悔しかった。でも提出物を出さず毎日のように忘れ物するのは事実だ。そもそもの人間性がだめだからどうしようもない。昇降口に行くと残って喋っていた男子生徒たちが楽しそうに声を上げながら帰っていくのを見て、我慢していた溜息が漏れる。いつからこうなってしまったのだろうか。一年生のときは定期テストで悩むことなんてなかったのに。二年生になってから魔法が解けたかのように先生たちの言うことが分からなくなりどんどんクラスメイト達に引き離されていった。もう今は板書をノートに書き写すので必死で、とても演習や問題集で復習なんてする余裕がない。本当に高校入学から人生をやり直したい。結果が出てからこんなことを思ったところで一が二になるわけでもなく、外ではまだ夏の気配を残したぬるい外気が僕を気だるく包み込む。


十月に差し掛かった街中はすでにハロウィンの装飾で覆い尽くされている。それでも北関東では秋の気配なんてまるでない。商業ビルの大型ビジョンに映ったアナウンサーはまだ半袖のTシャツで小洒落たアイスクリームショップを紹介していた。額にうっすら滲んだ汗を腕で拭い、ビルの日陰を急いで歩いていく。こんなことにならなければ本当は駅前の本屋で漫画の新刊を買って、今頃家ででゆっくり読んでいたはずなのに。成績の悪い自分を忌々しく思い舌打ちする。せっかくの秋休みが台無しだ。雲ひとつない快晴の空も、風にそよ吹く街路樹の梢も、やけに耳につく街の喧騒も今の自分からはすべて遠いもののように思えて、地に足着いた感覚すらしなかった。昨日までは未来が一つ一つすべて煌めいていたのに、今日の一瞬であっという間に灰色に覆われたようだった。もう先の未来が深い深い闇の中へと細く、でも確かに繋がっている気がして、希望で救われるなんて微塵も思わなかった。どうしたらいいんだ。この当てのない絶望を。誰でもいい、道標をくれ。そうでもしないとこの暗闇に呑み込まれてしまう。誰か……

「お兄さん、お困りかい」

どこからともなく声が聞こえて、足を止める。振り返ると、小さな籠を手に提げた初老の女性ががじっとこちらを見ていた。

「別に困ってないですけど」

どうせ悪質な宗教の勧誘か何かだろう。素っ気なく返事をして立ち去ろうとすると、強引に腕を掴まれた。

「まあまあそう言わずに。ほら、せっかくだからこの鉛筆を持っていきなさい」

そう言われて手に持たされたのは、何の変哲もない鉛筆が一ダース入った箱だった。まさかこれで勉強しろとでも言うのか。ただでさえカツカツなスケジュールなのにこれ以上勉強時間を増やせなんて、溜まったもんじゃない。老婆は怪訝な顔をする僕を一瞥すると、口許に手をあてて囁いた。

「この鉛筆はね、使うだけで成績が上がる魔法の鉛筆なんだよ」

成績が上がる。その言葉に心が躍ってしまったのは言うまでも無い。そんなうまい話はある訳ない、他人の嘘に耳を貸すなと自分のわずかばかりの理性が僕を叱咤するが、その声すらも振り切ってしまえるくらいに当時の僕は勉強ができるようになりたいと切に願っていた。

「……ありがとうございます」

平静を装い箱を手に持ったままその場を立ち去る。これを使えば。良いものを手に入れたことが嬉しくて、口元が緩み唾が湧いた。


 帰ってからまず、僕は自分の部屋に直行してふかふかのベッドにダイブ―じゃなくて普段は滅多に使わない硬い学習机の椅子に座った。スカスカの鞄の中に唯一入っていた数学の問題集を取り出し、適当にページを開く。苦手分野の三角関数の問題だ。羅列されたサインコサインの文字に吐き気を感じながらも、これで頭が良くなるなら、と割り切ってさっき貰った鉛筆で問題を解き始めた。が、

……分からない。基本的な問題のはずなのにさっぱり分からない。授業でやったときは分かっていたつもりなのに。

 やっぱり騙されたんだな。落胆して鉛筆を放り投げ、力なくベッドに身を預ける。現実はそう甘くない。頭ではわかっていても甘い夢を見ずにはいられなかった。

 今まで成績が落ちないように必死で頑張ってきたが、これ程までに報われないとなると、もう何をやっても無駄でしかない気がしてきた。

 こんな人生は嫌だ。現実逃避してずっと遊んでいたい。やるせなさに打ちひしがれていると、次第に眠気が全身をくるみ込み、あっという間に僕を意識の外へと連れ去った。


 「賢斗、起きなさい」

乱暴に揺さぶられて目を覚ますと、母が困った顔で立っていた。

「ご飯できたって言ったのに二十分も来ないから何かと思ったら、こんなだらしない格好で寝て。風邪引くわよ」

「うるせえ、あと勝手に部屋入ってくんなよ」

会話が煩わしく早々に切り上げようとするが、母はなお小言を呟く。

「いいでしょ私の子供なんだから。そういえば通知表貰ったんでしょ?さっさと出しなさい」

「へいへい」言われた通り出そうと思ったが、魔が差して思い切り床に叩き付けた。それを見ると母は眉を顰めて通知表を拾う。

「いつからそんなに乱暴になったの」

「元々だろ」吐き捨てるように言うと母は手に負えない、とでも言いたげな表情で静かに部屋から出ていった。一人になってから部屋の電気を付ける。机の引き出しにしまってあったチョコレートを一粒取り出して口に入れると、糖分が乾ききった脳内に染み渡った。

 そういえば問題集片付けてなかったな。チョコレートを食べ終えたあと、机の上に開きっぱなしのノートとペンが散乱しているのを見て、手に取って鞄に戻そうとする。問題集にある一つの問題文が目に入ったその時、僕の脳内で何かが弾けた。花火が爆ぜたような衝撃とともに、様々な情報が頭の奥から溢れ出す。問題集に書かれたサインコサインの文字列が数字に変換され、次々に計算されていく。膨大な情報量に吐き気を覚え、目を閉じてその場にうずくまる。

 それから数秒後、僕の脳内に一つの数字が浮かび上がった。θ=六十度。まさかそんな訳ない、数学一の僕の計算があっているなんて。半信半疑で解答を開いて、僕は絶句した。僕の導き出した答えと、解答は全く同じだった。

 すぐには信じられなくてこれはきっと夢に違いない、と考えてみる。でも次第に自分が成し遂げたことへの困惑はようやくこの問題を解くことが出来たという達成感と喜びに変わっていった。

 やっぱりこの鉛筆は正真正銘の魔法の鉛筆だったのだ。そしてこれは、ただ使うだけでなく寝ることで初めて効果を発揮するのだ。凄いものを手に入れてしまった。体の奥がゾワゾワと興奮で沸き立つ。この鉛筆があれば、留年しなくて済むかもしれない。そしたらもっともっと成績も良くなって、部活でも活躍できるかも―そんなことを考え始めると夜も眠れなかった。ひょっとして彼女もできちゃったり……ってさすがにそれはないか。


翌日から、僕は狂ったように勉強した。朝起きたら英単語を書き、授業中は数学の問題をひたすら演習。昼休みはいつもつるんでいる仲間と離れて一人図書館で勉強した。

「おい坂本。どうしちゃったんだよ急にー」

部活からの帰り道、仲のいい友人達からからかわれた。

「お前が勉強なんて、らしくないな」

「そんなことしてないでもっと遊ぼうぜ?」

「そうだよ、今度の日曜日カラオケ行かね?」

友人たちからの誘惑に、つい頷いてしまいそうになる。でも今はあの鉛筆で勉強してみんなに追いつきたい。そんな気持ちが勝って、僕は誘いを断った。

「ごめん、今週はちょっと勉強したいんだ。考査も近いし……」

「なんだよ真面目ぶっちゃってさ。じゃ、またにするか」

気を悪くさせたかもしれない。言ってからどうでもいいことが気にかかって仕方がなかったが、勉強が大事なことに変わりはない。

 いま必死に勉強して、絶対こいつらより頭良くなってやる。余裕な奴らにひと泡吹かせてやるんだ。


 見えない使命に駆られた僕はそれからも決して勉強する手を止めることはなかった。分からなかったものが段々分かっていくのが面白かったし何より進級が関わっているので手を抜ける訳がなかった。相変わらず友人からは勉強していることを茶化され、遊びの誘いを断る僕を感じ悪いと非難した。でも当時の僕はこれが正しいのだと思っていた。学生の本業である勉強に勝るものはないし、遊びなんて二の次でいい。この考えが飛んだ間違いだなんて、当時の僕は知る由もなかった。


 この鉛筆の成果が周りの目に見えて現れたのは一ヶ月後くらいだった。三回目の定期考査が終わって数学のテストが返却された時のことだ。

「頑張ったじゃないか、坂本」

教科担任の先生が珍しくそんなことを言ったのでとても不思議に思った。そんなに手応えはなかったと思っていたが、どういうことだろう。

 席について答案を見て、僕ははっとした。いつも赤点スレスレの数学が、八十点を超えていた。

「やった」

喜びのあまり声が震えた。何年ぶりだろう。こんなに高得点を取ったのは。置かれている状況が信じられなくて、何度も自分の目を疑った。八十三点じゃなくて三十八点なんじゃないかと思った。でも何度目を擦っても点数は変わらなかった。つまりこれは現実なのだ。

「夢じゃないんだ……」

一人感慨深さを感じていると、背後から手が伸びてきて答案用紙を奪われた。振り返ると部活仲間の桜城が不敵な笑みを浮かべている。

「よっ、坂本今回の数学何点?」

桜城は部活内では一番頭がいい。なんでもそつなくこなし、部活でもエースとして試合でも活躍している。でも、たまに僕にテストの点数を聞くことがあるので見下されているようで腹が立っていたのだ。いつもなら慌てて答案をひったくるところだが、今回はそんなことはしない。むしろ彼が丁度良く来てくれてありがたいと思っているくらいだ。桜城に僕の成長を見せつけて出鼻を挫いてやる。

「また赤点なんだろうなー……あれ?」

しばらくすると桜城が固まった。それから、まじまじと何度も何度も答案に書かれた点数を凝視し点数まで数え始める。

「え、本当に?先生数え間違ってるだろ、どれどれ……うわっ、負けた!!」

その言葉とともに僕の机に桜城が拳を叩き付けたのを見て、僕は堪えきれずに吹き出した。

「僕もびっくりしたよ、まさか八割いくなんてさ。まあでも、今回は簡単だったかな」

いつも余裕めいている彼に皮肉たっぷりに嘯いて見せると、桜城が食いしばった歯の奥から声にならない声を洩らした。

「くっそ、何でお前なんかに俺がっ……」

俯いた桜城がそんなことを言うのを見て、僕はとても愉快な気持ちになった。桜城が僕を見下していた理由もわかったような気がする。人より優位に立つことがもたらす安心感と全能感が自分になんでも出来るような気を起こさせるのだ。とにかく僕の叩き出した最高点はひたすらに僕の心を舞い上がらせた。

「今までごめんな、見下したようなことばっかり言って」

しばらくすると桜城が伏せていた顔を上げ、急に真顔になって申し訳なさそうに言った。本当のことを言うとそんな簡単な言葉で片付けて欲しくなかったが、自分がしていることも相当酷い事なので許してあげることにした。

「いいよ、逆に僕もそれでモチベーション上がったし」

淡々とした口調で言うと彼も表情を和らげ、

「本当にありがとな、坂本」

と言い残して自分の席に戻っていった。僕はもう一度答案に刻まれた赤い数字を見つめる。鉛筆の効果の絶大さを身を持って体感した。あの桜城に勝てたのが何よりの証拠だ。こんなに凄いものだったとは最初は思ってもみなかったな。あの老婆に感謝せねば。


 その後も帰ってくるテストの結果はどれも今までの自分とは見違えるほど絶好調で、その週は、ずっと幸せな気持ちに包まれていた。勉強が上手くいくと自然と他のこともうまく回るようになっているのか、部活でも試合のレギュラーメンバーに選ばれたし、街中で大好きなアーティストにに会ってサインしてもらい、予想外なことに図書館で勉強していたときに知り合った同じクラスの青山さんに食事に行こうと誘われたりと毎日が目まぐるしくも楽しかった。先生には驚異的な成長を見せた僕を留年回避どころか学年上位に入れるじゃないかと褒められ、滅多に口を聞かなくなった両親にもやればできるのだと喜ばれた。部活の仲間達も誰も僕のことを茶化さなくなり、まさに幸せの絶頂だった。はずだった。

 人生に起こる何事も盛者必衰の理の上に成立しているものだ。異変が起こってそれに気付いたのはその後すぐだった。


 定期考査から更に一ヶ月が経った頃だろうか。僕は順風満帆な生活にも慣れ始めて少しずつあの鉛筆に対する熱狂が薄れ始めてきた頃だった。授業中に板書していると鉛筆の芯が折れた。取るに足らない、日常の一場面。今まで僕は何千、何万回と鉛筆の芯を折ってきた。でも今回は違う。今この瞬間折ったのは、九月末に老婆から貰った一ダースの魔法の鉛筆、その最後の一本だった。白いノートの上を円錐形の小さな芯がころころと滑る。その時何故か異様なまでの不安と虚しさが心の中に押し寄せ、僕はふと気づいてしまった。

 この鉛筆がなくなったら、僕はどうなるのだろう。効果が消えれば今まで必死になって身につけたものが全部なくなってしまうかもしれない。そしたら僕はまた...…考えると怖くなり、授業の内容がまともに入らなくなり視界もどんどん暗くなっていくような錯覚をした。もう一度、何とかしてあの老婆に会わなければ。

 授業が終わるや否や、部活には行かず一直線に外へ飛び出した。思い出せ。あの日僕がどこを歩いてどこであの鉛筆を貰ったか。日が傾き始める午後三時、帰宅途中の学生と会社員で溢れ返る駅前通りを人の波を掻き分け薄暗い路地裏へと足を速める。この前あの人と会ったのは普段は通らない道だったため、正確な場所は憶えていない。でもこの路地のどこかにまた老婆が籠を持って現れてくれるのではないかと期待していた。初冬の冷え冷えとした空気が体を震わせる中、僕はひたすら歩く。歩く。歩く。楽しそうにはしゃぐ女子高生やくたびれた顔のサラリーマンに何度もぶつかりそうになりながらも前へ進んでいく。

 どこまで来たのだろうか。もうすっかり日も暮れてあたりが暗闇に包まれ始め、さすがに帰ってしまおうか、と諦めかけたその時だった。

「おや、また会ったね」

独特な印象の声に振り返ると、あのときの老婆がそっくりそのまま同じ格好で僕の前に佇んでいた

「おばあさん!」

思った以上の喜びが湧き上がって声が大になる。いかんいかん、取り乱してしまった。

「あのときの鉛筆が欲しいのかい?」

まるで心でも読まれているかのような発言にぎょっとしつつも夢中で頷く。

「そうなんです、使い切ってしまって」

僕の言葉を聞くと、彼女は乾いた笑い声をあげる

「そうかいそうかい。じゃあ……」

老婆は僕へ向けて鉛筆の箱、ではなく何もない右手のひらを差し出す。

「五千円」

「え」

「初回はもちろんタダだよ。でも二回目からは、ちゃんと代金払ってもらわないと」

こっちも商売なんでね。老婆の声が鋭く心に突き刺さる。

 それを聞いてから、僕の心の中には激しい後悔の念が渦巻いていた。やっぱりそうか、こんなうまい話は現代の日本に有る訳ないと頭の片隅で思っていた。でもその夢のような話に踊らされてしまっていたのだ。愚かにも程がある。

 でも鉛筆を買わなければ僕はまたクラスの最底辺で堕落したような学校生活を送らなければならない。そしたらどうなる?親には貶され桜城や部活の仲間には見下され、青山さんにも離れられてしまうだろう。五千円というのは凄く惜しい。でもこれ以上あんな悔しい思いをするのはゴメンだ。その時、僕はすっかりあの夢見心地な全能感と安心感の虜になっていた。あの鉛筆さえあれば何でもできてしまう気がした。

「どうするね?」老婆の何の感情もない眼差しが僕の心を一つにする。

「買います」僕は五千円で自分の名誉を買った。


 二回目以降も僕の成績はうなぎ登りで上がっていった。定期考査の合計点も九割を越すようになり、全国模試も上位百位以内に入るようになり、周りからは東大を受けるんじゃないかとすら囁かれていた(実際そうしてみようかとも思ったが、未だに進路を決めきれていない自分には無理な話だと思った)。

 その一方で、段々自分が何故学校に来ているのか分からなくなってきている自分がいた。もうあの鉛筆があれば、一度やった問題なら東大でも京大でも何でも解ける。予習した部分の先生の説明を聞くのはすごくつまらないし、こんなふうに感じるなら家で自分一人で勉強している方がましだ。それに最近は鉛筆を買うせいで金欠になって遊びに行くことができなくなり、友人との関係も悪くなってしまった。青山さんとも上手く行きかけたと思っていたが、彼女に「もう話しかけないで」と言われて以来、一度も話していなかった。賢さと引き換えに学校での生きがいを失った僕は考えた。ただただ時間を潰すためだけの学校にわざわざ行く必要なんてあるのか。いや意味はない。それなら退学して自分で勉強して、それで起業でもしたほうがよっぽど身のためだ。当時の僕はもう考えていること全てが支離滅裂で無茶苦茶だった。

 高校二年の十二月、僕は高校に行くのを辞めた。


 登校拒否を始めた後も、僕は一日中勉強をし続けた。母や父は「勉強するならなんで学校に行かないの」と連日激しい声で僕を責め立てた。その度に僕は起業のために勉強して金持ちになるんだと叶うはずのない机上の空論を唱えた。そして鉛筆がなくなれば昼夜問わずあの老婆を捜して鉛筆を買いに行った。自分の貯金を全て使い果たすと今度は両親の財布から少しずつお金を抜き取って鉛筆を買った。一月で何十万ものお金が鉛筆に溶けた。二、三ヶ月もすると家族の生活が立ち行かなくなり、元いた家を売り払って郊外の古ぼけた安いアパートに引っ越す羽目になった。親には精神がおかしくなったのだと思われ、お前のせいで人生が狂ったんだとこっぴどく叱られた。僕は誰からも信頼されなくなった。それでも僕は起業して大富豪になることを夢見て勉強し続けた。

 お前はお前の家族の人生をめちゃくちゃにした。そんな最低最悪のクズに起業なんて大層なことできるはずない。さっさと諦めろ。でもって目を覚ませ。天才なんてもともとなれるわけがなかったんだ。今僕が彼になにか助言するとしたら、真っ先にそう言いたい。最も、その言葉を素直に聞き入れてくれるかどうかも怪しいくらい僕の思想は歪んでいたけれど。

 ある日、いつものようにボロいアパートの小さな自分の部屋で勉強をしていると、誰かが玄関のドアをノックした。その時は僕一人だったので、億劫に思いながらも、ドアを開ける。

見知らぬ男が目の前に立っていた。

「誰だよ」つっけんどんに答えると、男はスーツの胸元から名刺のようなものを出す。

「あなたの両親に頼まれて、あなたをしばらく病院に入れることにしました」

そう答えるや否や、彼はものすごい力で僕の腕を掴んで外へ引っ張り出そうとした。骨が軋むような音が聞こえて、悲鳴を上げる。

「やめろ!離せ!」

せめてあの鉛筆だけは持っていきたい。必死になり身を捩るが、抵抗も虚しく僕は靴も履かないまま外に引きずり出されてしまう。どうしてこんなことに。僕はただただ勉強がしたかっただけなのに。留年を回避したかっただけなのに。

 気づくと僕の目から熱い涙の塊が溢れ、止まらなくなっていた。全身から力が抜け、その場に座り込む。

「何やってるんだ、さっさと歩け!」男が突然怒り頬を平手打ちされたことも、また僕の涙を熱くする。どうすることもできず俯くと、アパートの廊下の錆びた鉄柵の隙間からこちらを見上げている人影が見えて目を見開く。それはあの鉛筆を僕に売った老婆だった。彼女は今まで見たこともないほど残忍で冷たい笑顔を浮かべていた。その笑顔にぞっとすると同時に自我を失ってしまうほどの底知れぬ怒りが心の奥から湧き上がってくる。

 ようやく分かった。あいつから貰った鉛筆のせいで俺の人生が狂ったんだ。あの老婆はきっと、ああやって何人もの人たちを絶望の底に陥れて面白がっていたんだ。

 俺の失くした友人を返せ。家族との信頼関係を返せ。

 俺の人生を、全部返せ。

 怒りに任せて男の腕を振りほどき、階段の手すりを乗り越え地上へと飛び降りる。すかさず逃げる老婆に向けて手を懸命に伸ばすも、彼女の服の裾は僕の指先をいとも簡単にすり抜けていく。老婆はそのまま恐ろしいほど早足で、街の喧騒の中へ溶け込んでしまった。

 そんな様子を呆然と眺めていると、次の瞬間頭に隕石でも落ちたかのような衝撃が全身を駆け巡り体が痛みで動かなくなる。男が階段を降りてきて何かを必死に問いかけているがよく聞こえない。

 その後男の呼んだ救急車に乗り込むまでの間、僕はぼんやりと考え事をしていた。僕は猛烈にあの老婆に対して腹が立っていた。でも不思議なことに復讐をしようなんて考えなかった。それは多分、あの鉛筆で勉強のできない自分が救われたということもあったからだと思う。こんなに酷い目にあっても、僕が思うことは一つだった。

 今はとにかく、勉強したい。


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勉強依存症 橘 小夜 @sayat63

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