ぬばたまの謎 水底の恋・結
先輩が旅に出るとき、誰にも何も告げずにいなくなるのが常だった。
それが今回に限って、意味深に和歌など残している。
芝居がかっているというより、わざとらしい。
わざわざ目につくところに置いていったということは、この和歌には何か意味があるはずだ。
僕は何度も和歌を見返しながら、頼りない頭をひねる。
「和歌に隠されたメッセージ……ミステリーか脱出ゲームみたいだな」
「……折句」
夕顔さんがつぶやく。
きょとんとする僕の方を見上げて、夕顔さんは声を弾ませて言う。
「これが本当に先輩からのメッセージなら、折句じゃないでしょうか。
和歌の各句の頭文字に、五文字の言葉が隠されている」
夕顔さんの言葉に、僕は過去に習った古文の授業を思い出した。
「頭文字をとると“かきつばた”って読める、あれか」
「有名な『伊勢物語』の歌ですね。
もしこの先輩の歌も、折句になっているとしたら……」
「ぬ、ひ……?」
紙の上の和歌を凝視する僕の横合いから、夕顔さんの細い指が伸びてきて、二句目を指さす。
「ここ、“ひとよ”ではなく、“いちや”と読ませるんじゃないでしょうか。
そうすると」
「……ぬ、い、ぐ、る、み」
「ぬいぐるみ……?」
僕と夕顔さんは互いに顔を見合わせる。
そして、そろって部室の棚を振り返った。
この部室の中にある「ぬいぐるみ」といえば。
「この子、でしょうか」
夕顔さんが、きちんと整列した先輩の置き土産の中から、かりゆし姿のテディベアを取り上げる。
確かに、この部屋にあるもので、ぬいぐるみと呼べるのはこのテディベアしかいない。
夕顔さんは、手にしたテディベアを持ち上げてみたり、ひっくり返したりしてみるが、特に変わったところも見当たらない。
首をかしげる夕顔さんから、僕はテディベアを受け取った。
手に軽い、種も仕掛けもないテディベア。
何の気なしに、僕はかりゆしシャツの小さなボタンを外してみた。
「きゃあ!」
夕顔さんがまるで自分の服が脱がせられたみたいな悲鳴を上げて、僕はぎょっとする。
「匂さん!」
「え、はい?」
「何してるんですか!
ぬいぐるみとはいえ、女の子の服を脱がせるなんて」
「えぇ……?」
そんなに批難されることなのか。
というか、このクマ女の子だったのか。
釈然としないが、真っ赤になった夕顔さんに大真面目に抗議されると、本当によからぬことをしてしまったような気分になる。
怒った夕顔さんが僕の手からテディベアを救出する。
と、はだけたかりゆしのすき間から、何かが転がり落ちてきた。
軽い音を立てて床に跳ねたそれを、夕顔さんがかがみ込んで拾う。
「……指輪?」
夕顔さんが拾い上げたのは、青い石のついた銀の指輪だった。
それは大学近くの雑貨屋で買えるような他愛のない物で、きっとその青い石は
ああ、そうか。
なんとなく、先輩の思いが察せられてしまった。
夕顔さんの手の中の指輪が、持つべき人の手にすっきりと収まっているからだろうか。
意外と先輩も真面目というか、律儀、硬派を通り越して古風な一面を持っているものだ。
指輪で自分の気持ちを伝えようなんて。
愚にもつかず、なんて歌っているのは、倒錯的な先輩なりの真心の表現なんだろう。
そこは奇人らしい先輩の、とらえにくさが表れている。
そんなことが教えられるまでもなくわかってしまったのは、僕と先輩の心の中に同じ思いが隠れていたからだろうか。
僕は自分でも意外なほど優しい気持ちで、夕顔さんに向かって言う。
「きっとこれは、夕顔さんに宛てたものなんだよ」
他のメンバーなら、和歌の意味に気づかない。
そういう風に先輩は書いている。
そもそも、先輩のことをよく知るメンバーは、先輩の不在をさほど深刻に受け止めない。
おそらく、先輩失踪の報を聞いて、真っ先に部室にやって来るのは夕顔さんだと、先輩は予想した。
あるいは期待した。
そして、古文専攻の夕顔さんにしかわからないような、謎を隠した和歌を残した。
夕顔さんが、指輪を見つけられるように。
まったく、はた迷惑で手の込んだことだ。
先輩らしいと言えばそうだけど。
苦笑いを浮かべる僕とは反対に、夕顔さんの表情は曇る。
「先輩、帰ってきてくれるでしょうか」
「どうして?」
「だって、水底に眠るって……なんだか、不穏じゃないですか」
あの奇人が、思いあまって入水自殺でもするのではないかと、夕顔さんは心配しているらしい。
「大丈夫だよ。
きっと、水浴びでもして頭が冷えたら、またひょっこり戻ってくるって」
「そう、ですね……そうですよね。
これを、残していってくれたんですもんね」
そう言って、夕顔さんはほんのり頬を染めると、手の中の指輪をしっかりと胸に抱きしめた。
それが世界一の宝物であるかのように、大事そうに、うれしそうにして。
その初々しい表情を見つめて、僕はこぼれそうになった溜息を飲み込んだ。
僕のこの失恋をこそ、人知れず水底に沈めてしまおう。
了
ぬばたまの謎 水底の恋 宮条 優樹 @ym-2015
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