ぬばたまの謎 水底の恋・転




「……落ち着いたかな?」

「はい……すみません、取り乱してしまって」


 部室のパイプ椅子に腰を下ろし、まだ鼻をすすりながら、それでも夕顔さんはしっかりと僕に答えてくれた。


 僕は内心、安堵に胸をなで下ろす。

 突然のことに驚きはしたが、乙女の涙に動揺することなく、僕は紳士的かつスマートに夕顔さんを慰めた――つもりだったが、実際はあたふたと彼女以上に取り乱し、為す術もなく右往左往するばかりだった。

 こういうとき、そっときれいなハンカチを差し出せるような、大人の余裕を僕にください。


「よければ、話してくれる? 昨日、先輩に会ったって」

「……はい、実は……」


 夕顔さんは、呼吸を整えるように息をついて、おもむろに口を開く。

 彼女がこれほどに取り乱すのだ。

 どんな衝撃の出来事が語られるかわからない。

 だが、僕は夕顔さんの口から何が語られようと、がっちりと受け止めてみせる。

 その覚悟で、僕は彼女の言葉を待った、のだが。


「私、先輩のことが好きだったんです」


 瞬間、僕は心臓に中華包丁たたきつけられたような衝撃を受けた。

 覚悟は、あっさり打ち砕かれた。


「好きって……え、そういう……?」


 自分でも情けなくなるほど声が震えている。

 僕の動揺に気づいているのか、気づかないふりをしてくれているのか、夕顔さんは小さくうなずくと、


「やっぱり、おかしいですよね?」


 そう上目遣いで聞いてくる。


 おかしいと言えばそうだけど。

 この場合、何をおかしいと言うべきなんだろう?


「先輩のミステリアスなところが、初めて会ったときからすごくすてきだなって思ってて」


 声にならないうめきが思わずもれる。

 先輩の奇人変人っぷりが、恋する乙女の目にはミステリアスと映るのか。


「浮き世離れした雰囲気がかっこよくて。

意外と人に親切だったり、天然だったり、そういうギャップもかわいくて」


 ギャップ萌。

 まさかラブコメの定型が先輩に当てはまることがあろうとは。


「同じ女性なのに、おかしいですよね。

私、こんな風に同性に惹かれるなんて思ったこともなくて。

自分でもびっくりして、でも、ドキドキしてるのも本当で……」


 僕としては、それが今日一番の驚きだ。

 意外な身近で、女性が女性に惹かれる様を目の当たりにするとは。


「先輩は私にとっての光の君なんです……!」


 それはさすがに美化しすぎではなかろうか。

 先輩は性格こそ人並み外れているが、容姿は光り輝くとまでは言えない。

 しかし、頬を上気させた夕顔さんの表情は大真面目である。

 恋する乙女フィルター、恐るべし。


「すみません、突然こんな話。

誰かに話したの、はじめてなんです。

でも、匂さんなら、信頼できるから……」


 はにかんだ微苦笑を浮かべて言われた台詞が、砕けた僕の心にしみる。

 夕顔さんの信頼がうれしいような、やるせないような……。


 僕の心情はさておき、夕顔さんが先輩に、現在進行形で恋愛中であることはよくわかった。


「それで、えーと、昨日先輩に会ったときのことを教えてほしいんだけど」


 僕は何とか平静を装いつつ、話を本題に戻す。

 夕顔さんははたと我に返った様子で、居住まいを正す。


「昨日の、もう夜のことです。

私、ときどき夜にサークル棟に来てました。

その……先輩はいつもここにいるので、わざと他の人がいないような時間に来て……先輩と二人きりになりたくて」


 知らなかった。

 恋する乙女のいじらしさ、それ故の大胆な行動、というわけだろうか。


「別に、何をするわけでもないんですけど。

先輩と一緒におしゃべりして、コーヒーを飲むくらいで。

それでも私は、先輩と二人きりで過ごせるのが楽しくて。

本当は先輩の……恋人にしてほしいって思ってましたけど……本人には言えませんし」

「うん……それで?」

「それで昨日も、私は先輩に会いに、ここに来ました。

いつも通り、先輩は部室にいてくれて、最初はおしゃべりしてたんですけど」

「うん」

「昨日は……自分で言うのも何なんですけど、ちょっといい雰囲気になって……」

「うん?」

「あの……わ、私、先輩に……」


 夕顔さんは顔を赤くして口ごもる。

 なんだか妙な展開になった。

 僕ははっとなって、手にした紙の上の和歌を見返す。


「……一夜の契り……」

 先輩がまさか。

 口に出すのははばかられる僕の不埒な想像を、両手と首を左右に大きく振って振り払いながら、大慌てで夕顔さんは言う。


「ちっ、違います! そんな大それたことじゃなくて! 

せ、先輩に私……キス、されて――」


 言葉が尻すぼみになる。

 少女マンガのヒロインのように、両手に顔を埋めて縮こまってしまった夕顔さんの、耳どころか首筋まで真っ赤になっている。


「ご、ごめん、変なこと考えてしまって」

「いえ……こちらこそ……」


 純なる女性に言いにくいことを説明させてしまって申しわけない。

 恐縮する僕に、夕顔さんはうつむいたままで小さく首を横に振ると、


「びっくりして、私、うっかり先輩をたたいてしまったんです」

「それはまあ」


 致し方ないと思う。

 しかし、夕顔さんは自分がたたかれたかのような表情になって言う。


「うれしかったんです。

先輩ももしかして、私と同じ気持ちだったのかなって。

でも、そのときはとにかくびっくりして、頭が真っ白になってしまって……先輩を思いっきりたたいてしまって、私、そのまま部室から逃げてしまったんです」

「うん……それは、夕顔さんも悪気はなかったんだし」

「でも……私、一人になってから冷静になって、不安になってしまって。

先輩に誤解されたんじゃないかって。

先輩のこと、嫌いになったって、思われたらどうしよう。

そうでなくても、きっと私、先輩を傷つけてしまったんじゃないかと思ったら、不安でしょうがなくて。

そんなことを考えてたら、サークルの子から、先輩がいなくなったらしいって連絡が来て」

「それで、部室に?」

「はい……ここに来たら本当に、いつもいるはずの先輩がいなくて、代わりにこの和歌が残されてたから。

匂さん、どうしましょう。

私のせいで、先輩がいなくなってしまって、もし二度と帰ってこないなんてことになったら……私……」


 言うなり、また夕顔さんの顔が泣き出しそうにゆがむ。

 子供みたいに無防備な表情を見せる夕顔さんに慌てて、


「落ち着いて。

いくら先輩だって、そんな早まったことはしないはずだから」


 必死になだめると、夕顔さんは何度もうなずきながら、こぼれ落ちそうになる涙をぬぐった。


 さてしかし、思ったよりも大変なことになった。

 僕はこのいたいけな夕顔さんのためにも、先輩失踪の謎を解かなければならない。


 ミステリー小説の名探偵の気分で、僕は手元の和歌をじっと見つめた。



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