ぬばたまの謎 水底の恋・承
古くて開閉の度にお化け屋敷のような音を立てる部室のドアを開けると、そこには先客がいた。
「
僕を見るなり驚いた顔をしてみせた女の子は、一学年下の夕顔さんだった。
「匂さんも、もしかして先輩のことを聞いてきてくれたんですか?」
「うん、一応。夕顔さんも?」
僕が聞くのに、夕顔さんはふんわりしたボブカットの髪を揺らしてうなずいた。
夕顔、というのはこのサークルでの彼女のあだ名である。
彼女が僕を「匂さん」と呼ぶのも、僕のあだ名が
あだ名の名づけは先輩によるものだ。
ここ古典文学研究部では、最上級生が新入部員に、『源氏物語』に由来するあだ名をつけるというのが伝統なのだ。
そして、僕も夕顔さんも、長く最上級生の座を守っている主こと先輩が、名付け親となってくれたのだった。
匂宮が僕の本来のあだ名だが、「言いにくくてかみそう」という理由で、夕顔さんからは「匂さん」と呼ばれている。
なんだか僕が臭ってるみたいで、最初は抵抗のあった呼び方だが、最近ではすっかり慣れてしまった。
むしろ、小柄な夕顔さんが、僕の顔をじっと見上げて「匂さん」と親しみを込めて呼んでくれるのに、くすぐったくなるような喜びを覚える今日この頃である。
それはさておき。
「先輩が失踪したって……本当なのかな」
「本当みたいです。実は、これが」
そう言って、夕顔さんは僕に一枚の紙切れを差し出した。
「そこの棚に置いてありました。
こんなもの書くのって、先輩じゃないでしょうか」
夕顔さんが指さした棚は、主に本棚として使われているものだ。
歴代メンバーが好き勝手に私物の本を置きっ放しにしていってるために、日本の古典文学に限らず、ジャンルも作家もばらばらな本たちが雑に突っ込まれている。
その一画に、小さな置物たちが整然と並んでいる。
それは先輩の持ち込んだ土産物だった。
先輩は、超弩級インドア派を自称する出不精だが、不意の発作のように旅行に出かける癖がある。
年に一、二度、誰にも行き先を告げずに、おそらく自分でも目的地を決めないまま、ふっと風に吹かれたようにいなくなる。
かと思うと、いつの間にか部室に姿を現している。
僕らに地元銘菓などのお土産を買ってくることはなく、代わりに小さな置物が棚の中に増えていく。
そういう奇人変人なものだから、僕は失踪と聞いても、また例の発作かとしか思わなかったのだが。
「心配です……先輩、どこ行っちゃったんでしょうか」
夕顔さんは心底心配しているらしく、心なしか顔色も青ざめている。
優しさは向ける相手を選ぶべきだと思う――心の中でつぶやくにとどめて、僕は差し出された紙を受け取った。
紙には、下手なのか達筆なのかわからない筆文字で、短い文章が書かれていた。
ぬばたまの 一夜の契り 愚にもつかず
瑠璃胸に抱き 水底に眠る
「和歌?」
首をかしげる僕に夕顔さんがうなずく。
「ぬばたまの
「私の知るかぎり、こんな歌は古文にはありません。
たぶん、先輩の創作なんじゃないかと」
先輩と同じ国文学科で、古文専攻の夕顔さんが言うならそうなのだろう。
「これはどこに?」
「棚の、先輩のお土産コレクションが並んでるところに、置いてありました」
夕顔さんに言われて、僕も棚に目を向ける。
先輩の置き土産たちは、持ち主の性格を反映してか妙にまとまりがない。
赤べこ、こけし、鮭をくわえた木彫りの熊などと一緒に、水戸黄門のミニチュア、かりゆしを着たテディベア、阿修羅像のスケールフィギュアなんかが並んでいる。
「どういう意味なんだろう、これは」
「和歌の体裁ですけど語句は現代語ですし、そのまま言葉通りの意味、なんでしょうけど……」
夕顔さんは難しい顔つきになって先輩作(仮)の和歌を見つめる。
枕詞は無視するとして、「一晩かぎりの約束」を「馬鹿馬鹿しい」とけなす、という意味だろうか。
下の句は更に意味がつかめず、瑠璃とは何のことか、瑠璃を抱いて水底に眠るのは誰か、まったくわからない。
先輩の手による歌ならば、これは自分のことを書いているんだろうか。
「案外、何の意味もないものかもしれないよ。
思いつきをメモって放り出したまま、忘れていってしまっただけとか」
「そんな……そんなわけないんです」
僕が軽く言ってみたのに、夕顔さんはふるふると首を振って否定する。
そのなにやらただならぬ様子に、僕はまじまじと夕顔さんの白い顔を見返した。
「先輩と、何かあったの?」
特に深い思惑があって言ったわけではないのだが、僕のこの質問は夕顔さんにとっては核心を突くものだったらしい。
夕顔さんはうつむき、唇を震わせて、今にも泣き出しそうになるのをこらえるようにして、
「……私、先輩にひどいことしました……」
そう、つぶやいた。
「昨日、私、先輩と会ったんです、この部室で。
それで、私、先輩に……」
「夕顔さん?」
「私のせいで、先輩がいなくなってしまったら……私、どうしたら――」
そう言うなり、困惑する僕の目の前で、夕顔さんは本当に泣き出してしまった。
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