ぬばたまの謎 水底の恋

宮条 優樹

ぬばたまの謎 水底の恋・起




 先輩が失踪した。

 らしい。


 らしいというのは人伝に聞いたからで、それを僕に伝えたサークルメンバーからのメッセージは、


『てか、知ってた? 先輩、失踪したってよ』


 という、レポートの提出期限が変更になったことを教えてくれたついでに、さらりとつけ加えられたものだった。


『なんて?』


 聞き返した僕のメッセージに対しての答えは、


『なんか、夜中に旅行カバン持って駅に向かってるのを見た奴がいるっぽい?』


 たったそれだけだった。


「失踪」というなにやら不穏な言葉のチョイスとは裏腹に、まったく深刻さの感じられない文面だ。

 それを受け取った僕の方も、人ひとりが失踪した、という事件性に、微塵も感情を動かされなかった。


 あの先輩ならありそうなことだ。

 いや、むしろ、とうとうあの奇人がやらかしたか、という思いがある。


 先輩、というのは、僕が所属している、古典文学研究部の古株、いや重鎮、もしくは主とでも呼ぶべき人物だ。

 大学のサークルの最上級生、ということは四年生、かといえばそうではない。

 はっきりしたことは誰も知らないが、先輩は幾度も留年、休学をくり返し、とっくに卒業すべき年数を超えて、大学に在学しているらしい。

 とあるうわさによると、実はすでに除籍されてしまっているのだが、素知らぬ顔して大学に居残っているとも言われる。

 本人は国文学科に在籍中だと言っているけれど。


 この先輩、留年中ならば遮二無二単位を取りにいかなければいけないはずのところを、なぜかいつでも部室のあるサークル棟にいる。

 講義に出席している様子は全くない。

 平日でも休日でも、午前中だろうと夜だろうと、部室の扉を開けると九割の確率で先輩はいる。

 大体、胃の腑が死ぬほど濃いコーヒーを片手に、優雅に読書をして遊ばされている。

 もはや、部室に住んでいるのではないかという疑いまである。

 大学サークルヒエラルキーの底辺に這いつくばる、小規模文化系サークルの掃きだめ、古くてぼろくて暗いサークル棟の、先輩は間違いなく主だった。

 五階建ての講義棟にさえぎられて、万年日陰の校庭の隅にたたずむサークル棟の主。

 そういう変人がいるサークルに所属していることを、僕は誇りには思わないが楽しんではいる。


 しかしながら、「失踪」とはどういうことなんだろう。

 事件性は感じないが、気にはなる。

 先輩には少なからず、お世話になったことがあったような気がしないでもないし。


 僕は午前中の講義が終わると、昼食もそこそこにサークル棟へと向かった。


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