大切なもの

紫栞

くまのぬいぐるみ

ひなたの勤務先にはいつも陽だまりでくまのぬいぐるみを持っているおばあちゃんがいた。

ここの春風老人ホームには1フロア20人前後の高齢者が住んでいる。

健康維持のためのプログラムや工作プログラムが準備されているが、参加はあくまで自由であり、くまのぬいぐるみを持っているおばあちゃんはいつも会場となる食堂にいるものの、プログラムを見るでもなくぼんやりと外を見つめていた。

「一緒にやりますか?」と初めの頃は声を掛けていたが、毎回愛想笑いと会釈を返されるだけなのでいつの間にか誘うことをやめてしまった。


くまのぬいぐるみを持っているおばあちゃんは、重度の認知症を患っていた。

だからなぜずっとくまのぬいぐるみを大切に持っているのかは、以前から働いている職員でも知っている人はいないようだった。

ただ、一回だけかなり汚れているからとぬいぐるみを洗濯してしまった時、そのおばあちゃんはひどく悲しみ、通りかかる職員みんなにぬいぐるみの所在を聞いて回ったそうだ。

それからはくまのぬいぐるみを片時も手放すことなく、いつも大事そうに抱えていたし、職員もそれに対して特に触れなくなっていた。


ある時、そのおばあちゃんの娘と孫が面会にやってきた。

娘と言っても高齢で、杖をつきながらゆっくりとした足取りでおばあちゃんに近づいた。

普段、面会は高齢の娘に変わり孫がよく来ていたので、あまり娘のことをよく知る人はいなかった。


おばあちゃんは相変わらず車いすに座って窓からくまのぬいぐるみと一緒に外をぼんやりと見つめていた。

「おばあちゃん」

娘は声を掛けた。

だが、おばあちゃんは一度振り向くと愛想笑いをしながらお辞儀をして再び外に視線を向けてしまった。

職員が気を遣って「最近はいつも外を見ていて、誰が話しかけてもこんな感じなんです」と近況を娘と孫に伝えた。

すると娘は「そうですか」と言ったきりおばあちゃんのことを見つめていた。


しばらくおばあちゃんのことを見つめると「また来るね」と立ち上がり、部屋にある洗濯物を取り換えに向かった。

そのタイミングでひなたは娘に声を掛けた。

「あの…いつもお母さまが手にしているくまのぬいぐるみって」

そこまで言うと、あぁという顔をして娘が話してくれた。

立ち話では大変なのでと、おばあちゃんの部屋で話を聞くことにした。




あのぬいぐるみは、母が初めてもらったクリスマスプレゼントなんです。昔はクリスマスも今みたいにメジャーではなかったので、大きくなってからお父さんに買ってきてもらったそうなんです。

なんでも、外国製のぬいぐるみは当時高価なもので、なかなか手に入らなかったそうですが、最初で最後のプレゼントとして無理をしてくれたと以前聞いたことがあります。

私が生まれたころにはもう我が家にいて当たり前のくまさんでした。一緒に旅行に行ったり、趣味の写真で写してみたり、出張も転勤も心細い場面ではいつもこっそり持ち歩いていたそうです。

でもあのくまさんもそんなに出歩いていればいつの間にか汚れてしまいます。

初めは母もまめに洗ってあげていたので綺麗な白熊だったのですが、母も身体を悪くしたりしているうちに手入れが出来なくなってしまいました。

さらに、認知症を発症してからは暴力的になったり、徘徊したりと色々大変でした。

時には家族のことすら盗人だと疑うようになり、家族も精神的に疲れてしまい、くまのぬいぐるみは放置してありました。

それからは病院に入院したり、施設に入所したり、母も大変だったんだと思います。

認知症も徐々に進行し、足腰も悪くなり徘徊をしなくなりました。

以前より性格も丸くなりました。

そんなある日、誰もが忘れていたくまのぬいぐるみの場所を尋ねてきました。

いつも飾ってあるところにそのぬいぐるみは置いてありました。

持ってきて渡してあげると、「これはお父さんが私にくれたのよ」と笑顔になりました。

もう、その時にはかなり認知症は進行していたようでしたが、母の笑顔は久しぶりに見た気がします。

それから、母は何かあるとくまのぬいぐるみを探すようになりました。

そばにいると安心するのか、膝に載せたり、頭をなでたり、時折「いい天気ね」と話しかけたり、はたから見るとまるで子供のおままごとのようですが、とても穏やかな時間でした。

ただ、私ももう高齢で母の面倒はこれ以上自宅では見れないと思いました。

そんなときこちらを見つけ、入所してもらうことにしたのですが、入所直後はぬいぐるみを持って行かなかったんです。

でもそうしたら慣れない環境で不安だったのか、夜に声を出したり、いままでしなかった失禁をしてしまったり、ご迷惑をおかけしてしまいました。

そして、私たちはくまのぬいぐるみのことを思い出し何となく持ち込むと、すっかり問題行動は落ち着きました。

きっと母にとっては兄弟であり、親友なのだと思います。



くまのぬいぐるみについて聞いた後で、思い出話を少しだけ話すと、おばあちゃんは昔は器用な人で、手芸がとても得意だった。

だが、目が見えにくくなり、針を持つのも危ないからと持たせなくなってしまい、家事も何もかも、今となっては本人の大事なものまで奪ってしまったのかもしれないと娘は後悔しているようだった。


ひなたと娘と孫は再びおばあちゃんの様子を見に食堂に向かった。

食堂ではいきいき体操という体操のプログラムが行われていましたが、おばあちゃんは相変わらず外をぼんやりと眺めていた。

「またくるね」

娘と孫はそういうと、ひなたに会釈をして帰ってしまった。


ひなたはおばあちゃんに何かしてあげられないか、娘の後悔を晴らせないか考え、くまのぬいぐるみの服を作ってあげることにした。

幸いひなたも手芸が得意だったので、帰りにフエルトを買ってきてお試しで作ってみた。

男の子か女の子かもわからないぬいぐるみなので、一度上着だけ作ってみることにした。

ひなたも久しぶりにワクワクして、まあまあな出来栄えの服が出来た。


翌日、いつものように外を眺めるおばあちゃんにそっと服を渡してみると、普段は自分の服も着れないのに、くまのぬいぐるみには服を着せることが出来ていた。

そして小さな声で「かわいい」と言ってくれた。

嬉しくなって、ひなたは時折ぬいぐるみの服を作るようなっていた。


ある時、おばあちゃんから服を一緒に作りたいとの申し出があった。

ひなたはもちろん了承し、初めはフェルトボンドでくっつけて作れる服を一緒に作った。

完成するとおばあちゃんは嬉しそうにくまのぬいぐるみに着せていた。

そして、次から次へといろんな色の服を作るようになった。

周りの職員や利用者にも褒められ、少しずつ話すようになった。


今でも、何かを覚えておくことはできないし、娘や孫の顔を見て判別するのも難しい。

でも、おばあちゃんの部屋には小さなハンガーにかけられたおばあちゃんが一生懸命作ったくまのぬいぐるみのための服が飾られている。

そしておばあちゃんは笑顔を再び取り戻した。

今では、おばあちゃんが食堂の太陽になり、みんなのことを陽だまりのように優しく包んでいる。


Fin.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大切なもの 紫栞 @shiori_book

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ