第6話 心の傷は深く

十二、

 青空に向かって紫煙が広がり、消えていく。札幌市の繁華街ススキノに程近い北斗医科大学附属病院の屋上で、ショートホープを吹かしながら笠井冴子は春の訪れを感じていた。

 氷点下一〇度以下の寒さと積雪のために屋上まで上れない一月から三月ごろに比べれば愛煙家には優しい季節になった。

 三年前、総看護師長として赴任した日に禁煙の誓いを立てたが、三日後には屋上に立っていた。以来、笠井が思索にふけるときの定位置になっている。

 きょう、旭川で勤務していた病院の後輩、原田恭子が初出勤してくる。笠井が最も信頼する優秀な看護師だったが、その近況を最も心配していた相手でもある。

 

 この前、会ったのは去年の十二月。クリスマス後の週末の夜に恭子が旭川から札幌に出てきた時だ。どこの居酒屋も時短営業で閉店していたので、札幌駅地下街のマクドナルドで、熟女二人が向き合うことになった。改札口で出迎えてから恭子はずっと泣きそうな顔でうつむき通し。店に落ち着くまで会話らしい会話もない。笠井も尋常ではないことが起きたと推察した。

 

「娘が家を出ていったんです。一週間前に。あたしが悪いんです。娘があんなにつらい思いをしてたのに、見過ごしていたなんて…」

 話し始めたと思ったとたんに恭子は泣き崩れた。店内は二十歳前後の若い客ばかり。突然、号泣しだした中年女性を皆一斉に見つめてくる。折悪しく、笠井はショートホープを吹かして足を組み、やや仰ぎ気味に腰かけていたものだから、何かひどいことでも言ったような印象を持たれたかもしれない。慌てて恭子の肩に手を置いて宥めにかかった。

 

「しっかりしな、お恭。あんたらしくもない。ちゃんと落ち着いて事情を話して」

 一旦堰を切った感情の流れはすぐには収まらなかったが、恭子は娘が深刻ないじめを受けた末に自殺未遂を起こした経緯を涙ながらに語った。

 

「全く気づかなかったわけじゃなくて。薄々いじめられてるんじゃないかとは。でも、“縛らない介護”の仕事が大詰めだったものだから、ついつい見て見ぬふりしちゃったというのが本当のところで。仕事が落ち着いたらちゃんと話を聞こうと思ってたんです。でも、それが娘には許せなかったみたいで。北海道からも、私からも離れて暮らしたいって言われてしまって」


 仕事を持つ女にとって永遠のテーマである「家庭と仕事の両立」。

 一見上手くいっているようではあっても、どこかにひずみを抱えて危ういバランスで組み合わさった積み木細工のようなものだ。何かの拍子で積み木が崩れたとき、崩れたまま捨て置いて仕事に生きるか。積み上げ直そうと、もがくか。

 笠井は、捨て置く道を選んだ。流産したことがきっかけだった。

事実婚していた男は看護師を辞めるよう迫ったが、男と看護師の仕事。どちらがあれば生きていけるか。笠井の答えは明快だった。


 一方で、ひずみを抱えた危うい積み木細工であってもそれが生きる支えになっている女もいる。恭子がそうだと笠井は思っていた。

 少女時代に肉親を相次いで亡くし、家庭のぬくもりに飢えていたことを恭子から聞かされていたからだ。笠井は、札幌駅地下のマクドナルドで、若者たちから奇異の目で見られながらも、娘の心を取り戻すためになりふり構わず動くよう恭子を諭した。

 

 その後、年明け早々に旭生病院はコロナ禍に見舞われて国内最大規模のクラスターが発生。恭子は娘を顧みる余裕もなく、事態への対応に追われ続けた。その結果、職場を放り出されて再び目の前に現われようとしている。

 とてもまともな精神状態であろうはずがない。果たして、新たに立ち上げた「新型コロナ感染後遺症外来」を託すことができるだろうか。笠井は早くも三本目のショートホープに火をつけた。


 新型コロナ感染の後遺症は、味覚・嗅覚の障害や慢性的な倦怠感、頭痛、呼吸障害など多岐にわたる。その中で注目されているのが、一旦回復した患者の中に何らかの精神的な疾患を患う者が一定の割合で発生していることだ。イギリス・オックスフォード大学の精神科医などの研究グループは、回復患者の三人に一人が六か月以内に精神・神経疾患を発症しているという研究結果を発表している。

 北斗医科大学病院の「コロナ後遺症外来」は、笠井と呼吸器科、精神科の医師たちの肝いりでスタートし、専属の看護チームは笠井が直接指揮していた。そこでの実感でも、この一か月近く、患者の四、五人に一人は、うつ病や何らかの精神疾患と見られる症状を訴えていた。


「私が感染したせいで職場に保健所の消毒が入ったり、濃厚接触者と見なされて隔離される人が大勢で出て。迷惑をかけたことが本当に申し訳なくて」

「だるさが続く辛さはなかなか分かってもらえなくて。ただでさえ人が足りなくて大変なのに、ずっと足を引張っているようで居たたまれません」


 本来、責任感が強く、職場を支えるはずの有能な人たちが精神疾患に陥っていた。特にうつ病は突発的な自殺にもつながりやすく手厚い心のケアが必要だ。

 笠井は、こうしたメンタル問題に対応するには、「コロナ後遺症外来」を拠点に看護師が患者を訪問看護することが必要だと考えていた。訪問看護の診療報酬は年々引き上げられている。積極的な訪問看護は、新型コロナ患者の対応に追われる中、一般治療ができないことで圧迫される病院経営の改善にもつながる、と笠井はにらんでいた。

 この起死回生の一手を恭子に託そうというのが笠井の思惑だったが、果たして今の恭子の精神状態が耐え得るのかどうか。

 「家庭の崩壊」と「仕事に対する自信の喪失」という二重のダメージから、まずは恭子自身に立ち直ってもらうところからのスタートになるかもしれない。

 前途多難を思うため息を、五本目のショートホープの煙と一緒に吐き出しながら、笠井はタバコの空き箱を握りつぶした。

 

 

 十三、

 また新たに心肺停止を知らせるアラームが鳴り始めた。これで三人目だ。その患者にICU内の医師と看護師が歩み寄るが、足取りは重そうだ。

 もう、どうしようもないのだ。どんなにじたばたしても。アクリル製の窓ごしに見える看護師たちの動きから、そんな胸の内が恭子にも伝わってくる。看護師の一人がインタフォンで呼び掛けてきた。

「総看護師長、アラーム聞こえてますよね? もうこの方たちは、あと三十分持ちません。一つだけでもECMO人工心肺装置は、空かないんですか? このままじゃ、見殺しですよ! 」


 見殺しという言葉に一瞬怯んだ恭子は、少し間を置いた後、インタフォンに応答した。

「何度も言っているように、二台しかないECMOは埋まっているし、繋がっている患者さんもこの二日ほどがヤマ場なの。とても取り外せる状況じゃないわ。だから、今できる範囲で蘇生を試みるようにして」

インタフォンごしに看護師のすすり泣きが聞えてきた。

「悔しいです。ただ見ているしかできないなんて、本当に情けない」

 悔しい、情けない…。なす術もなく兄の最期を看取った時、くり返し恭子の胸に去来した思いだ。その時を思い起こしながら、三つめのアラームの音源となっている患者の顔を見た時、恭子は驚愕した。確か八十歳をこえる老人だったはずなのに、酸素マスクをつけたその顔は、兄のものだった。しかも十代後半の若さのままだ。そして、恭子の視線に気づいたのか、かっと目を開いてこちらを睨みつけてきた。どこからか兄の声が聞えてきた。


『――また、お前は僕を見殺しにするのか。見捨てていくのか――』

驚きと恐怖で恭子は、全身から汗が噴き出てくるのを感じた。

『見殺しにするってどういう意味なの? 確かに私は何もできなかったけど、見殺しにしたなんて。そんな言い方あんまりじゃない? 』

 感情が高ぶり、恭子の目からは涙があふれていた。だが、酸素マスクをつけた兄は怒りに満ちた目で恭子を睨み続けていた。

『おまえは、良かれと思ったんだろうが、おまえの始めた手厚い介護とやらが災いして、みんなコロナにかかったんじゃないのか? お前が患者を死地に追いやったようなもんだ。それを放置しておくのが見殺しでなくて、何だと言うんだ! 』


 マスクをつけた兄が口をきけるわけがないのに。でも確かに兄の声が聞こえてくる。

『お前が殺したようなもんだ。いや、お前が殺したんだ! 人殺しめ! 』 

 怒りに満ちた声はやがて罵声に変わった。耳を塞いで叫び声を上げたところで、恭子は眠りから覚めた。


 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。枕元に積み上げられた段ボール箱を見て、札幌のマンションで一人暮らしを始めたこと。きょうが北斗医科大病院への初出勤の日だったことを思い出した。

 あれは旭生病院に自衛隊が投入される前、介護病棟の一部に重症の感染者を集めて救命措置をしていたときの光景だ。久しぶりに夢に兄が出てきたと思ったら、あの悪夢。最悪の気分だ。

 全身に汗をかいている。寝坊はしなかったようで、目覚ましが鳴るまであと三十分ほどあったが、早めに起きてシャワーを浴びることにした。兄から人殺しと罵られた悪夢の残像を洗い流したいと思ったからだ。

 

 四月の異動シーズンが終わってからの家探しだったので、札幌都心の手ごろな物件を見つけることはできず、恭子の新たな住まいは郊外の厚別区になった。最寄り駅は新札幌。ススキノ界隈にある北斗医科大病院までは地下鉄で三十分余りかかった。

 電車で移動中も、意識の中には、あの夢で見た酸素吸入マスクをつけた兄の顔が絶えず浮かんでいた。


(なんで兄さんが出てくるんだろう。きょうは初仕事だっていうのに。私、どうして余計なことを考えてしまうんだろう)

 兄の姿を頭から消そうと焦れば焦るほど、胸の動悸が高まり、全身に汗をかき始めた。何かがおかしい。恭子は、職場が近づくにつれて明らかな体調の異変を感じていた。

 

 病院に着いた恭子は、受付嬢の案内で笠井を訪ねた。総看護師長室という物々しい部屋があるにはあるが、笠井は出勤するとさっさと現場に出てしまうという。

 案内されたのは、今、笠井が陣頭指揮をとっている「コロナ後遺症外来」だった。

廊下の両側に細長いシートが並び、一人分のスペースを空ける表示が貼られている。人が座る部分は全て埋まっていて、十人ほどが診察の順番を待っていた。待合席を抜けて外来のドアを開けると看護師たちが診察の準備に追われ、座の中央で医師と笠井が打合せをしていた。恭子が来たことに気づいた笠井は、診察室奥のカンファレンスルームへ行くよう目配せをした。

 

 恭子は部屋に入ると椅子に腰かけて周囲を見渡した。声をあまり発することなく慌ただしく動き回る看護師たち。書棚にびっしり並んだカルテ等々。つい数週間前まで身を置いていたカンファレンスルームと変わりない光景だ。だが、通勤途中に感じた動悸の高まりと汗はおさまらず、恭子はうつむく格好になった。


「あんた、大丈夫かい? 初日から無理しなくてもいいんだからね」

 顔を上げると、いつの間にかカンファレンスルームに入ってきた笠井が心配そうな表情を向けていた。恭子は慌てて笑顔を向けて答えた。

「いいえ、慣れない寝床で寝違えちゃったんですよ。それで首筋が痛くって。でも、熱もありませんから、ご心配には及びません。早速、現場の感じをつかませてもらいたいと思っています」

 

 笠井は、恭子が無理に笑顔を作ってその場を取り繕ったことを見抜いているようだった。だが、無理に引き留めることはなく診察に同席することを許した。その後のことを思えば、この時、笠井はすでにこれから恭子の身に起きる異変を予感していたように思われる。それは避けることができない「通過儀礼」であると。

 

 午前八時半に診察が始まり、看護服に着替えた恭子は笠井と一緒立ち会うことになった。最初の患者は、新型コロナに感染したものの無症状だった四十代前半の男性。陰性が証明された後も自宅待機が続く中、うつの症状が出始めたという。

 「コロナ後遺症外来」では、患者の症状に合わせてさまざまな科の医師が診察を行なう。この男性の場合は、精神科医だ。笠井によるとこの外来に最も引張り出されているのは精神科医だという。医師の問い掛けから診察は始まった。

 

「どうですか? 家の中で仕事と家事のすみ分け、できるようになりました? 」

「何とか、子供も家内も仕事中は、声かけないよう気をつかってくれますから」

「じゃあ、あまりいらいらすることは? 」

「前よりは、なくなってきたかなとは思います」

 男性が感染したのは、ほぼ一年前の去年春。幸い家族に感染は広がらないまま回復したが、在宅勤務が続く中、小学生の子ども二人も登校停止になった。パート勤務の妻が出かける日中、男性は家事と子どもの世話を引き受けることになった。

 ところが男性は、仕事に集中できないいら立ちから、しばしば子どもを怒鳴りつけるようになったという。男性が「コロナ後遺症外来」を受診するようになったのは、子どもたちが男性に怯えるような態度をとっていることに気づいた妻の勧めがあったからだった。

 

 子どもの変化に敏感に反応した母親。その賢明さに恭子は頭が下がる思いがすると同時に、改めて娘・奈々の変調を見過ごした悔恨が胸にこみ上げてきた。恭子の眼前で精神科医と男性のやりとりが続いている。

「でも、こんどは別の不安が大きくなってきて」

「どんなことですか? 」

「いつまでも、在宅勤務のシフトが解けないんですよ。ひょっとしたらこのままリストラ要員にされるんじゃないかと思って」

 やがて二人の会話に代わって、恭子の耳には、自分を責め立てる兄と、娘・奈々の声が聞こえ始めた。


「お前のやり方のせいで、コロナで亡くなった人たちにどう顔向けするんだ」

「あなたにとって私なんて余計な存在でしかないのよ」

「お前の看護は間違ってたんだ! また、同じことを繰り返すつもりなのか」

「もうあなたとは一緒にいたくない。できるだけ遠くに、あなたの手が届かないところへ行きたい」


 幻聴に耐え切れなくなった恭子は、耳を塞いで診察室を飛び出して廊下に走り出た。

とにかく外へ出たい。病院の建物の中に居ては息がつまりそうだった。

 正面玄関を飛び出して、ロータリーの植え込みで立ち止まった恭子は、そのまま嘔吐し、息も絶え絶えの状態でうずくまった。

 どれくらいそうしていたのだろうか。目を開けることもできなかった。そこへ光が差し込むように、優しく肩を叩かれた恭子は漸く落ち着きを取り戻した。


 目を開けて振り返ると、笠井がしゃがみこんで寄り添ってくれていた。

「あんたを一目見て、心が相当に傷ついているとは察しがついたよ。まだ、あんたは人を看るような状態じゃない。看られる方なんだよ」

 押さえていた感情が堰を切ってあふれ出し、恭子は泣きながら笠井にすがり着いた。

 この日、札幌は五月晴れの青空が広がっていたが、石狩湾から吹く北風はまだ冬の寒さを帯びていた。北斗医科大病院の玄関前ロータリーには、春の嵐のように強風が吹きつけて、互いに寄り添う恭子と笠井の髪を翻弄するように巻き上げた。

 


十四、

 それから三日後、恭子の姿は「コロナ後遺症外来」に面する廊下の待合席にあった。看護服ではない普段着姿だ。誰も恭子が看護師、しかも外来の看護師長候補者だとは思いもしなかった。

 この前日、精神科を受診した恭子の診断結果は「適応障害」だった。それも病院という「場所」に対するものだ。

 長年、実績を積んできた病院での手厚い介護が新型コロナの集団感染を招き、死者まで出してしまったこと。その責任を一方的に負わされて職場を追われたこと。それほどの犠牲を払ったにもかかわらず家族からの理解を得られなかったこと。

 病院という「場所」に端を達した一連の出来事が、恐怖を記憶する脳内部位・偏桃体に刻みこまれ、特に診察の場に身を置くことが体の変調つながっているというのだ。

 

 一方で、この障害は恐怖の記憶が成功体験に置き換わることで改善するとも言われている。回復のきっかけをつかむために恭子は、笠井に頼み込んで、外来の近くで患者を観察させてもらうことにしたのだ。

 ざっと見たところ二十代から七十代くらいまで、患者の年齢は多岐にわたっている。どの人たちからも伝わってくるのは深い「孤独感」だった。味覚・嗅覚の喪失や、絶え間ない倦怠感など、この苦しさは当事者以外にはなかなか分かってもらえない。原因も分からず治る見込みもない。このままでは世の中から見捨てられてしまう…。何とか社会との関わりを取り戻したいと、一人ひとりがすがるような気持ちでいることがひしひしと伝わってきた。


 外来待合席の重い空気に耐えかねた恭子は、気分を切り替えようとハンドバックから封筒を取り出し、その中身を手に取った。福岡で暮らす夫・徹の妹、古賀智子から届いた手紙と三枚の写真だった。

 写真には、娘・奈々が写っている。古賀夫婦と泊りがけの旅行に出かけた時のものか、三人揃いの浴衣を着ているものが二枚。もう一枚は、バスケットボールをしている姿を捉えたものだ。


「・・・御覧の写真のように奈々ちゃんも私たち夫婦に打ち解けてくれて、本当に娘ができたような楽しい日々を過ごさせていただいています。学校にも毎日元気に通っていて、去年暮れに福岡に来たばかりの頃、絶えず何かに怯えるような表情を見せていたのとは大きく変わりました。奈々ちゃんが本来の明るさを取り戻してくれたように思います。

 私も衣服や身の回り品などを注意して見ていますが、いじめられているような様子はなく、バスケットボール部にも入って友達も増えているようです。お義姉さんとしては複雑なお気持ちかもしれませんが、奈々ちゃんにとって環境を変えてみたことはとてもよかったように思われます。

 ところでお義姉さん夫婦と奈々ちゃんの今後についてですが、まだお二人が別居したことは奈々ちゃんには知らせていません。兄からは毎月の生活費は振り込まれていますが、このひと月何の連絡もありません。実の兄ながら何を考えているのか私も分かりかねています。お義姉さんとしては、この先、兄との関係をどうしていこうとお考えでしょうか?もう離婚することを検討されていますか? もし、離婚となった時、奈々ちゃんの親権についてはどうお考えでしょうか?

 私たち夫婦としては、あまり先走ってもいけませんが、このまま奈々ちゃんを養女に迎えて本当の親子になって構わないとも考えています。ただ、あくまで兄とお義姉さんのご意志と、何よりも奈々ちゃんの希望を最大限尊重するつもりです。

 お義姉さんにはご多忙とは存じますが、なるべく早く兄と話しあう機会を持ち、今後、ご家族のことをどうしていくのか、考えをお知らせいただければと思います。


令和三年五月  古賀智子 かしこ」


 写真の中の奈々は、この二年余り、恭子の前では見せることのなかった明るい笑顔を浮かべていた。奈々にとって北海道から福岡に環境を変えたことは、人生をリセットするいいきっかけになったのだと改めて思った。

 智子には、旭川の家を出る時に一度電話したが、徹が家政婦の慶子と不倫関係にあることは知らせなかった。また、恭子が家を出てから徹は、智子や奈々と何の連絡もとっていないようだ。まったく女にかまけて離れて暮らす娘のことなどどうでもよくなっているのだろうか。徹に対する怒りが湧いてきた。


 かと言って、今の恭子も奈々に近づくことはできない。智子に電話した際、札幌での仕事が落ち着いたら奈々を呼び寄せて一緒に暮らしたいと考えていることを伝えた。

「それは難しいと思います」

 智子によると、奈々はようやくいじめから逃れて新しい環境になじみつつある。そこには目に見えないさまざまな奈々の努力があるはずであり、それを無にすることはできない。

 そして何よりも、奈々は未だに恭子のことを固く拒んでいる。

「気分を害さないでくださいね。奈々ちゃんの言葉をそのままお伝えすると…、あの人は私が助けてほしいときに何もしてくれなかった。見て見ぬふりをした。そんな人をこれから先、母親だなんて思えない」


 子どものいない智子は、奈々を養女にしたいと願っているが、同時に、決して悪意のある嘘をつく女でないことも分かっている。遠く離れた娘との心の距離を縮めようとしても、今、その術はない。智子から届いた写真と手紙に目を通しながら、恭子は無力感を味わうことになった。


 呆然として顔を上げた恭子の正面に、いつの間にか四十歳くらいの母親と中学生くらいの娘が座っていた。二人とも憔悴した表情だが、娘の左手上腕部には包帯が巻かれている。自傷行為を行う少女に見られる典型的な姿だ。

 「新型コロナ後遺症外来」の待合席にいるということは母娘どちらか。恐らく娘が感染したということか。その結果、娘が何らかの心の病を抱えるようになったのか…。

 想像をめぐらすうち恭子は、少女が自分に救いを求めているように思えてきた。

左手に巻かれた包帯の白さ。マスクの上からのぞく悲し気な目元。それらが目に焼き付き、やがて、聞こえるはずがない声が聞えてきた。


「――お母さん、助けて――」

 

 それは、紛れもない奈々の声だった。

「佐々木さん、お入りください」

 母娘を呼ぶ看護師の声で恭子は我に返り、恭子の目の前を通って、二人は外来の中に入っていった。


 その日、恭子は、午後三時近くに遅い昼食休憩をとっていた笠井に「佐々木母娘」のことを問い合わせた。

 母・佐々木律子、四十一歳。娘・真帆、十四歳で中学二年生。

娘の真帆は、バスケットボール部に所属していたが、合宿中に新型コロナのクラスターが発生。真帆も陽性となり、自宅隔離になった。

 登校できない中で、真帆とその他のバスケットボール部員たちの唯一の接点となったのが、LINEだった。そのやりとりの中で、諍いを起こして仲間外れにされてしまったという。その際、人間性を否定するような言葉も投げかけられたらしい。


「それですっかり自分に自信を無くしちゃったらしいのよ。私なんて死んだ方がいいんだ、みたいなことを口にして、あげく自傷行為を繰り返すようになってね」

 真帆は、去年秋以降、学校が再開された後も登校できず、今年四月にもう一度、二年生に編入されたが、依然として不登校が続いているという。

 恭子は真帆の姿を見るうち、助けを呼ぶ奈々の声が聞えてきたことに運命のようなものを感じていた。そして一つの決意が固まった。


『この娘を見捨ててはいけない』

 

 いじめにあっていることに薄々気づきながら見て見ぬふりをしてしまった。

再び奈々と向き合うには、同じ境遇の娘を見捨てるわけにはいかない。この娘と真正面から向き合うことができたとき初めて、奈々とこれからどんな関係を築いていけばいいか話せるのではないだろうか。

 恭子は、佐々木母娘の次回の診察に立ち会い、可能ならば自分が訪問診療を行いたいと笠井に申し出た。


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