第7話 男たちが背負うもの①
十五、
少年の記憶にある父の姿は、母を怒鳴るか、暴力を振っているものばかりだった。その暴力は少年にも向かってきた。
「お前は生まれてこなければよかったんだ! お前がいなければ、慶子はずっと俺だけのものだったんだ! 」
父は、そんな言葉を吐きながら、憎悪をむき出しにした目を向けてきたことをよく覚えている。
母は、少年から見ても美しい女性だった。ことしで四十四歳になるが、しなやかなに伸びた長い手足と豊かな胸元からは、未だに男を引き付ける色香が感じられる。二十代の頃は尚更であったろうし、父も魅了されたことだろう。だが、女として魅力にあふれた母の存在は、自分と父との不幸な関係の発火点でもあった。
父は地方銀行の行員で、札幌市内の支店勤務時代に母と知り合った。母の家は貧しかったという。祖父が事業に失敗して多大の負債を抱え、借金取りがよく家に押し掛けてきたそうだ。そんな家庭で育った母は、少しでも安定した勤め先を求めて地元の銀行に就職。そこで父に見初められた。大卒採用のエリート行員であれば、収入も安定しているはず。そう考えて母は結婚を決めたという。
父は品行方正を絵に描いたような男だったらしい。職場の同僚たちは父が声を荒げることなど見たことがなかったそうだ。だが、それはあくまで表の顔だった。その裏側には、常軌を逸した母に対する独占欲と支配欲が秘められていたのだ。
帰宅すると父は、真っ先に母の一日の行動の報告を求めてきたという。特に男との接点がなかったかをしつこく問いただしてきた。例えば買い物をめぐってもこんなやりとりがあった。
「どうして言われたとおり、百貨店の食品売り場に行かなんだ!」
「だって、このスーパーの方が同じ物でも半値で買えるのよ。そっちの方が得じゃない」
「そのスーパーは、飲み屋街が近くて柄の悪い男たちが大勢いるかもしれない。そんなところへ行かせたくないんだ。どんな男が見ているか分かったもんじゃない」
「でも、食費を押さえた方が家計の助けにもなるし・・・」
「俺の稼ぎじゃ心許ないっていうのか! お前、俺を地方銀行の行員だからってバカにしてるのか?! 」
「何もそんなつもりじゃ・・・」
「だったら何だ! おい、ひょっとしてスーパーに行ったときに他の男と仲良くなったんじゃないのか? だから百貨店に行かなかったんじゃないのか? どうなんだ? 」
そこから父は、母の髪をつかみあげて顔にビンタを見舞ったり、床に叩き伏せたりするなどの暴力を振った。床に這いつくばる格好になり、恐怖のあまり言葉を発することもできない母に、今度は言葉の暴力が頭上から降ってきた。
「お前みたいな貧乏人の娘が誰のおかげでまともな暮らしができると思ってるんだ! 俺が情けをかけてやったからだろうが! 感謝する気持ちがあるなら、どんなことでも黙っ て俺の言うとおりにしてろ! だいたい、お前の家というのはなぁ…」
その後は、母の実家を蔑む言葉を並べたて、父の家とはいかに格が違うかを延々と論い続けた。こうした日常の些細なことをきっかけに父は暴力と暴言で、肉体的にも精神的にも母を絶対的な支配下に置こうとした。
耐えかねた母が実家に逃げ帰ることもたびたびあったらしい。ところがそのたびに、父は母を追って実家を訪ね、涙ながらに許しを請うてきた。
「許してくれ。俺はお前を失いたくないんだ。お前がいないと俺は生きていけないんだよ。
俺は怖いんだ。誰かほかの男にお前を盗られてしまうんじゃないかって。頼む。俺を見捨てないでくれ。お願いだ、見捨てないでくれ…」
父は一転、子どものように母にすがりつき泣きじゃくったという。
乱暴なことをするのも、私を愛しているからこそなんだ。本当は、寂しがり屋で泣き虫なのね。やっぱり、私が着いていないと…そう自分に言い聞かせて母はまた父の元に戻るのが常だった。暴力で妻を支配下に置く夫と、精神的に依存する妻。典型的なDV夫婦の長男として少年は生まれた。
或いは、少年が生まれなければこの夫婦は「暴力と依存」の間で均衡を取りながら連れ添い続けていたかもしれない。均衡を崩したのは、少年の存在だった。一人息子として生まれ、成長するにつれて母の愛情は青年に注がれていった。
一方で、少年は父から愛情を受けたという記憶がなかった。抱き上げられたり、肩車をされたり、スキンシップの記憶は皆無である。その代わり、子どもの手が届かない遠い所から見つめてくる父の二つの目が記憶に焼き付いた。その目は、近寄りがたさを感じさせる冷たい光をたたえ、時に憎悪に満ちた火が点っていることに少年は物心がつくころには気づいていた。
その目に宿っていた感情が「嫉妬」というものだと理解したのは随分あとのことだ。美しい妻を独り占めしたいのに、この息子という奴は妻が自分に向ける愛情を削ぎ、邪魔をする。実に不愉快な闖入者だ…。高校時代、片想いの女性と交際していることが分かった男を遠くから見つめたとき、父の感情を理解することができた。そして父が「あの事件」を引き起こしたわけも。
十六、
それは少年が小学四年生の冬に起きた。
「大雪山の旭岳へスキーに行こう」
誘いをかけてきたのは父だった。少年の前では、いつも不機嫌そうな顔ばかりしていたのに、この時はなぜか陽気にはしゃぐようだった。母は、父の気分を害することを恐れたこともあっだが、漸く父親らしく息子に接しようと考えるようになったと捉えて、スキー旅行の誘いを喜んでいた。
だが、これまで家族サービスらしいことなど一度もしようとしなかった父がなぜ急にそんなことを言い出したのか。少年は父の言動にどこか不審なものを感じていた。
標高二二九一メートル。大雪山系最高峰の旭岳は、北海道でも有数の良質なパウダースノーを誇るスキーの名所だった。山の西側に設置されたスキー場は、正確には「旭岳スキーコース」と呼ばれている。
圧雪車一台分の幅で踏み固められたコースはあるものの、普通のスキー場なら当たり前の保護ネット設置や巡回パトロールも行われていない。子ども連れが気軽にレジャーとしてのスキーを楽しむような場所ではないのだ。
コースは、最も長いもので約四キロにわたり、二十度から三十度の急峻な傾斜が続いている。確かに初心者には近寄りがたい山だが、幼稚園の頃からスキーに親しんでいた少年は一〇歳のこの時、すでに大人の上級者向け斜面を容易に滑り降りるほどの腕前になっていた。スキーコースの最高点である旭岳ロープウェイ・姿見駅に降り立った時も物怖じはしなかった。
眼下に広がる雪に覆われた森林の風景とダイヤモンドダスト――寒さで氷の結晶となった水蒸気が陽を受けて輝く現象――の美しさを余裕を持って味わっていた。
「きゃあ、目がくらんじゃうわ。こんなに急なの? 降りられるかしら~」
最高点に立って早々、腰が引けてしまった母は泣きそうな表情を浮かべていた。
「お前はゆっくり降りてくればいいよ。悠太、きょうは男どうしの勝負だ。
着いてこい! 」
雄叫びを上げた父は、勢いよく斜面を滑り降り始めた。少年も後に続く。
殆ど板に抵抗がかからず、滑らかに雪煙をあげてスキーが走る。
この時の滑りの爽快な感触は今も体の中に残っている。
父は高校時代までスキー部に所属し、スーパー大回転競技の選手として冬の高校総体に出場した経験がある。高速で大きなカーブを描く長距離滑走が得意で、子どもが後から着いてこられるかなど気にもかけずスピードをぐんぐん上げていく。
だが、少年も父のスピードに難なく着いていくことができた。いや、抜き去れなくもなかったが、父が気分を害さないかが気になって、ひたすら後を追うことにしたのだ。
十五分余り滑走した後、終着点のロープウェイ・山麓駅にたどり着いたのは、ほぼ同着だった。体力を消耗したのか、父は肩で息をしながらしゃがみこんでしまったが、少年の呼吸は、余り乱れることはなかった。正直言って余裕を持っての滑りだった。やがて呼吸の落ち着いた父は、凄まじい表情でにらみつけてきた。
(また火が点ってしまった…)
少年は父の目に憎悪の火が点ったことを悟り、戦慄した。だが、一瞬後には口角をゆがめて不敵な笑みを浮かべていた。相変らず目は笑っていなかったが。
「何も遠慮することはないぞ。男と男の勝負と言ったはずだ。思い切ってお前のスピードを見せてみろ、もう一度勝負だ!」
父はそのまま背を向けて再びスキー場の最高点に向かうロープウェイに乗りこもうと、山麓駅に向かって歩き始めた。
「お母さんが、まだ来てないよ。待ってあげたほうがいいんじゃないの…」
遠慮がちに言葉をかけると、父は横顔から鋭い目つきを向けて答えた。
「あいつには、追いつけなくなったら山麓駅で待っていろと伝えてある。あいつのことは気にするな! お前は俺に着いてくればいいんだ! 」
それ以上、話を聞く気はないらしい。少年は父の後ろに着いて山麓駅に向かった。その後、少年も本気で父の滑りに挑みかかり、二度の滑走勝負は一勝一敗と五分の星となった。父は至って上機嫌だった。少年も、ある限りの技術を駆使した滑りができたことに充実感を覚えていた。このスキー旅行がお互いを認めあえるいい機会になるのではないか。少年は期待を持ち始めていたが、その胸の内を見透かすように父はある提案を持ち掛けてきた。
「思い切って旭岳の山頂まで登って、そこからの滑走で決着をつけないか? コースの外を滑るバックカントリースキーというやつだ。どうだ、やってみないか? 」
とたんに神々しい風景が少年の脳裏に浮かびあがった。スキーコース最高点のロープウェイ・姿見駅から見上げた旭岳の山頂部に向かって広がる雪の大平原である。その平原の向こうには、地獄谷という小火口群から上がる白い噴煙を身にまとい、山頂部が巨人のように聳え立っていた。あの巨人の頭のてっぺんから見える景色はどんなに美しいだろうか。滑走はいかに爽快であろうか。少年の胸は一気に高鳴った。
「コースを外れたところへ行くのはさすがに危険じゃないかしら。いくらスキーが上手でも悠太は小学生なんだし、それに山の気候は変わりやすいから…」
母は、機嫌を損ねないようやんわりと釘を刺そうとしたが、父が不愉快そうな顔でにらみつけると口をつぐんでしまった。
「今日このまま行こうと言うんじゃない。冬の旭岳に上るには雪山登山の装備は必要だ。これから麓の町で買いそろえて明日チャレンジするつもりだ。さあ、悠太行こう! 」
少年は反射的にうなずいていた。父に買い物に誘われるなど初めてのことだ。その後、少年はしゃぐように車に飛び乗った。運転する父に後部座席から話しかけることは怖くてできなかったが、初めて自分に関心を持ってくれたことだけでも嬉しかったのだ。
翌朝の旭岳周辺は快晴だった。冬晴れの絶好のスキー日和だ。母を宿に残して、少年と父はスキーを背負いながら、ロープウエイ・姿見駅から旭岳山頂に向けて登り始めた。
スキーコースから外れた姿見駅より標高の高いエリアは圧雪車で押し固める整備はされていない。歩くたびに足がひざ元くらいまで雪に沈み込んでしまう。先導する父が積もった雪をラッセルしながら登り路を作ってくれる。
その朝、少年と父は最も早い組だった。先に誰かがラッセルをして登り路が作られた形跡はない。眼前には、昨夜積もった新雪に覆われた雪の平原が緩やかな傾斜とともに広がっている。
普通の親ならば、大丈夫かとか、まだ登れそうかとか、子どもを案じることを聞いてきそうなものだ。父は携帯食料を口にした後は、黙ったまま落ち着かない様子だ。話しかけてもこないし、目を合わそうともしない。だが、これがいつもの父が少年と接するときの態度だった。少年もどう話しかけていいか分からない。余計なことを言って機嫌を損ねるのも怖かった。やがて、後から登ってくる人の声が遠くから聞えてきた。
「そろそろ行くぞ」
声が聞こえてきたとたん、父は急いで退避小屋を出て行こうとした。何かに追い立てられるような慌てぶりだった。
(人目につきたくないのだろうか…)
不可解さを感じながら少年も急いで後に従った。
山頂へ続く尾根道は、幅十メートルほど。山頂に向かって左側は小噴火口群のある地獄谷へ五十メートルほどの谷がある。右側は、旭岳の山裾に向かって四百メートル以上の谷になっている。右側に滑落すると容易には昇ってこれそうにない。天候は快晴だが、標高が上がるにつれて風が強くなっていく。顔は毛糸地のマスクで覆っているがそれでも刺すような冷気が肌に差し込んでくる。
眼前の風景も一面にパウダースノーが広がる平べったい雪原から一変した。白い大地に大小さまざまな起伏に富んだ波状の紋様が広がっている。数メートルの高さで雪の壁が出来ているところもあれば、山の地肌が露出しているところもある。
シュカブラ(風紋)と呼ばれ、厳冬期の大雪山に吹く強烈な北西風が作り出す現象だ。
全てが凍り付いた世界???。美しくはあったが、そこに生ある者の気配はない。全てが死に絶えた世界を思わせる光景だった。
一時間半あまり登り続けて、標高二千メートル近くの地点に達した。地獄谷から上がる白い噴煙の向こうに見える山頂部はずい分近くなり、父は小休止をとることを宣した。
山頂まではあと三十分ほど。そこからは父とのスキー勝負だ。ただし、尾根道はアイスバーンと化している。標高千八百までは下がらないと滑らかな雪面にはならない。そこまでは余りスピード勝負にはならないな…。少年はこのあとスキー勝負の展開に思いをはせていた。
ふいに父が少年に話しかけてきた。
「悠太、南の方を見てみろ。真ん中に見える尖がった山がトムラウシ。左の少し低いのが忠別岳だ。この旭岳と合わせて、大雪の山々をアイヌたちは神々の遊ぶ庭と言ったそうだ。なるほど、天からお迎えがきそうなほど、きれいにそそり立っているよなぁ」
父は旭岳の南側に広がる山並みに見とれながらため息をついた。少年もその言葉に誘われて尾根道の南側に目を向けた。
「もっと近づいてみろよ。きれいに山が見えるぞ」
少年は尾根道の際まで歩を進めた。遠くの山々の景色は確かに美しい。だが、足元には、深い谷が広がっている。雲に隠れて下まで見通すことはできない。思わず足がすくんだその時だった。
少年は背後から強い力で押されて尾根道の南側斜面に飛び出してしまった。
体が回転して青い天が見えた後、アイスバーンに頭が打ちつけられて一瞬、意識が遠のいた。体が斜面を滑り落ちていくのが少年にも分かった。
「助けて!お父さん!」
少年は叫び声を上げて、頭から滑り落ちながら尾根道を見上げた。父がこちらをのぞきこむ顔が急激に遠ざかっていく。
その時少年には、はっきりと見えた。父の顔には薄ら笑いが浮かんでいたのだ。
十七、
少年が意識を取り戻した時、目の前に金色に輝く光の柱のようなものが見えた。
これがあの世の景色なのか。まぶしくてきれいだなと、ぼんやり眺めていると急に肌を刺すような寒さを感じた。僕はどうやら、まだ生きているようだ。
光の柱の正体は、
少年は驚くほど冷静に状況を把握していた。父に尾根道から突き落とされたのが昼前ぐらい。滑落しながら失神したようだ。日の傾き具合から考えて四時間近くは気を失っていたことになる。日中は陽が照っていたが、夕刻になって急激に気温が下がり、その寒さで目が覚めたと思われる。
斜面に突き出た岩場に積もった雪がクッションになってくれたようだ。アイスバーン状だった山の斜面がパウダースノーになっているから標高では百メートル近く滑落したかもしれない。幸い体に痛みはなく大きなケガはしていないらしい。
これまでの不可解な父の言動への疑問が少しずつ解けてきたと少年は思った。なぜ、父がスキー旅行に出かけると言い出したのか。それも、およそ家族レジャー向きではない大雪山最高峰の旭岳を行き先に選んだのか。冬山遭難が多いこの山なら事故に見せかけて息子を殺せるのではないか。それで邪魔者がいなくなる。美しい妻を独り占めにできる――。
父が出かける前、陽気にはしゃいでいたのは、そんなことを想像して喜びを抑え切れなかったからだろう。
「くくくく、くふっ、ふふふふふ・・・」
少年は笑い声を上げはじめた。周囲は気温氷点下二十数度。あまりの寒さに気がふれたわけではない。妻を独占するために我が子を手にかけた父という男は狂人だ。
だが、その狂人と、スキーを通して心を通わせられたらと願っていた自分の存在が何とも滑稽に思えてきたのだ。何というおめでたい奴なんだろうか、僕は。
それは深い絶望の裏返しでもあった。そこまで僕は、父から愛されていなかったのか。殺してしまいたくなるほどに、父から憎しみを買っていたのか。僕の何が悪いと言うのか。僕が何をしたというのか…。答えの出ない問いかけが続き、やがて一つの結論にたどり着いた。そこまで親に憎まれた子どもには、生きる価値はないのではないか。
「はっははははははは!・・・」
父の狂気をはらんだ高笑いと叫び声が聞こえてきた。??今ごろそんなことに気づいたのか。そうだ。お前に生きる価値などない!お前はそこで死ぬんだ。凍え死ぬんだ!??。
先刻まで笑っていた少年の表情は凍り付き、目の前の光景が涙でにじんできた。
「そうか、やっぱり僕はここで死ぬんだ・・・」
そう呟いて仰向けになったとき、背負ったリュックの裏地に忍ばせてあったものの感触を背中に感じた。
起き上がってリュックの裏地を開いた。革製の鞘に入った刃渡り一五センチほどの登山用ナイフが出てきた。持たせてくれたのは母だ。もし父から危害を加えられそうになったときに備えてと、買い与えてくれたものだ。
母も、父が息子に対して異常な嫉妬感情を抱いていることを感じていた。幼い頃は、妻の愛情を妨げる邪魔者だった。それが成長するにつれて、男としての競争相手という意識が強くなり、息子への嫉妬は、より危険なものになりつつあると思ったようだ。
「あたしの目が届かないところで、もしも、ということがあるかもしれない。その時は自分で自分の身を守れるようにしておいてほしいの」
そう言って母が一〇歳の誕生日に与えてくれたのがこの登山ナイフだった。
鞘から刃を抜き出した。青みがかった銀色の刃が夕日に照らされオレンジ色の光を放つ。少年はその光の中に母の姿を見た。父のように笑い声を発したりはしない。ただ、黙ってこちらを見つめているだけだ。その目が少年に語りかけていた。
――生きて帰ってきてちょうだい――
少年は強くうなずいた後、ナイフを雪の上に突き立てて斜面を這い上り始めた。
「必ず、生きて帰ってやる。僕が帰らなかったら、誰が母さんを守るんだ…」
父は、癇癪を起すたびに母を殴った。父を狂気に駆られたのは僕がいたからかもしれない。でも、あの父から何とか母を守りたい。ああ、僕も母の美しさに魅せられておかしくなっているんだろうか。それでもいい。父の狂気に抗うには僕も狂うしかないのだ。
二〇分ほど登りつづけたところで、山の斜面はパウダースノーからアイスバーンに変わった。ナイフを強く突き立て、アイゼンの靴裏のスパイクに力をかけて踏ん張らないと前に進むのが難しくなってきた。標高が上がるにつれて気温は低下し、陽が沈んだ山々の稜線は濃い紫から闇に沈もうとしている。視界が闇に包まれるにつれて死の恐怖が募ってくる。それは、この理不尽な状況を強いた父への激しい怒りと憎しみとなっていった。
「あいつ、必ず殺してやる。帰ったら、絶対に…」
母への思いと、父への復讐に燃える心が少年に生きる気力を与えていた。遥か頭上には、昼間、突き落とされた尾根道があるはずだ。そこへ向かって叫び声を上げ続けた。
「おーい、ここにいるよ~! 誰か助けて~! おーい、誰か~! 」
幸い風は殆どなく、体感温度もあまり下がることはない。声は遠くまで響いていくようだった。叫び声を上げながらさらに三〇分ほど登りつづけたとき、頭上の暗闇から、複数の灯りが近づいてくるのが見えた。
「助かった…」
それが救出にかけつけた大人たちだと分かったとき、怒りによって抑えられていた恐怖や心細さが一気にこみ上げてきた。少年は、おいおいと声を上げて泣き始めていた。
「やあ、泣き声が聞こえるぞ。もうずぐだ! 待ってろよ! 」
泣き声が位置を知らせるサイレン代わりとなり、少年は、北海道警・旭川東警察署山岳遭難救助隊によって救出された。張り詰めた緊張の糸が切れ、疲労がどっと押し寄せたのか。大人たちに抱きかかえられた後、少年はすぐに意識を失ってしまった。
救出された少年が父親による殺人未遂を証言したことから、警察は父親の身柄を拘束した。だが、あくまで父親は少年が誤って足を滑らせて谷底へ転落したと主張した。
「あいつは私を陥れようとしているんだ。私があいつを突き落とすのを見たという証人でもいるんですか? 」
滑落事故の後、速やかに救助を要請したことを口実に、自分は息子に陥れられようとしている被害者だと言い張ったのだ。だが、拘束が長引く中で次第に、妻をめぐって息子に異常な敵意を抱く狂気に取りつかれた顔が露わになってくる。
「あいつさえ生まれてこなければよかったんですよ! そうすれば妻はずっと私だけのものだったんです。あいつさえいなければ…、妻はずっと私だけを愛してくれていたんですよ! 」
「だから、子どもが邪魔になって手をかけようとしたのか? 」
「うっ、うううう、うわーあああ! 」
あとは泣きじゃくるばかりで、まともな証言は得られない。結局、警察は父を心神耗弱と判断して不起訴処分にした。
何という愚劣で、狡猾で、恥知らずな男なのだろう。
少年は、父という人間。ひいては「大人の男」というものに対する根源的な不信と敵意を抱くようになった。
旭岳での事件をきっかけに父の暴力支配に依存していた母も呪縛から解き放たれた。
父に離婚を申し出て、数年間拒否され続けたものの、自分や息子への虐待の証拠を積み重ねることで裁判所による離婚調停が成立。復讐を恐れた母は、警察に保護を求め、父に対して接見禁止命令を出してもらった。さらに危険を避けるために、札幌から旭川に転居することにした。少年は旭川で中学生になった。
離婚後、父は一切少年の養育費を支払うことはなかった。それでも母は、女手一つで少年を地元の国立大学まで進学させてくれた。
母が就いていた仕事には水商売や風俗関係も含まれていた。酒臭い息をして深夜に帰ってくることや、家の近くまで男に送られて帰ってくることもたびたびあった。全ては自分を育てるために身を削ってくれていることだ。そう思うと少年の母への感謝と愛情は一層深いものになった。それだけに自らが慕う美しい母を我がものしようとする「大人の男たち」への憎悪は募っていった。
「今に見ろ、いつか俺がお前らからすべてを奪ってやる」
そんな思いを胸に抱いて少年は二十歳の青年になっていた。名前は、
そして今、新たな「父」になろうという男が悠太の前に現われた。原田徹・四十七歳。
旭川でも老舗の建設会社の社長だ。母・慶子は家政婦として徹の家で働くうち恋仲になり、今、再婚を考えているという。
「今度こそ、こいつから俺が奪う番だ・・・」
悠太は、慶子とともに会食の席で初めて徹と会ったとき、心の中で呟いていた。
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