第5話 奪われた誇り②

九、

 辞任勧告を受けた後、恭子は、介護病棟のナースステーション奥にあるパーテーションで仕切られた総看護師長席に潜り込んだ。

 ディクライニング付きの椅子に背中から倒れ込み、天を仰いで目を閉じた。

職を辞さなければならないと、ある程度覚悟はしていた。総看護師長の地位に恋々としがみつくつもりは毛頭ない。

 だが、入院患者を死なせただけでなく、若い部下たちの心身を深く傷つけてしまった点を指摘されると、恭子の精神には相当堪えるものがあった。例え自分を陥れようとする者の言葉であったとしても。

 

 部屋の中が薄暗くなってきている。腕時計を見ると夕方五時半近くになっていた。

恭子は、慌てて帰り支度を始めた。今日は、夕方六時に家で夫・徹と話し合う約束をしていたからだ。

 病院を出てマイカーに乗りこんだ途端、肩に重しが乗っかったように恭子は体が重くなった。家で徹とあの家政婦の女、江上慶子と相対することに強いストレスを感じていることを今さらながら感じた。

 

 介護病棟から新型コロナ感染による死者が出たことで、恭子は恐らく旭生病院を辞めることになるだろうと予想していた。

 そのことを踏まえて徹と慶子に、ある提案をするつもりだった。

「病院を辞めることになったので、これからは専業主婦として家庭を守ります。家事も私が引き受けるので、家政婦の江上さんには辞めてもらいます。これまで好きなことをさせてもらった罪滅ぼしのつもりであなたに尽くさせてほしいの。私とあなたの仲がまた円満になれば、奈々だって家に戻ってきやすくなるんじゃないかしら・・・」


 それは賭けでもあった。この提案が受け入れられなかったとき、徹と慶子の関係についての疑念――二人が男女の仲になっているという疑念は確証に変わる。その時、本当の意味であの家から自分の居場所はなくなってしまう。奈々が帰ってくる家庭も消えるのだ。

 ハンドルを握る腕が恐ろしさで震えていた。もう少し時間の猶予が欲しい。最悪の事態を迎えたときに持ち堪えられるだけの心のゆとり持つために。

 だが、外出自粛が続いた影響で帰宅時間帯の交通事情は随分と滑らかで、恭子のマイカーは病院を出て十五分たらずで自宅に到着してしまった。

 

 恭子の夫・徹の生家である原田家は、明治の中頃、旭川に入植した屯田兵とんでんへいにルーツを持ち、徹で五代目となる旭川でも屈指の老舗建設会社を経営している。

 家の真向かいにある永山神社は、初代屯田兵司令官・永山武四郎ながやまたけしろう中将を祀った神社だ。原田家の初代は永山の従卒だった男で、永山を慕って神社近くに居を構え、明治の末に建設工事会社を開業したという。

 

 永山神社正面の参道に面したガレージに車を置き、玄関に向かう途中も恭子の動悸は高まるばかりだった。家政婦の慶子に辞めてもらうとまでは言わずに、「私にも家事を手伝わせてほしい」くらいにしておけばいいか。あまりに白黒をはっきりさせてしまうことが恭子には空恐ろしくなってきた。


「お帰りなさいませ。ご主人さまがお待ちです」

 玄関で出迎えたのは家政婦の慶子だった。

普段は夕食の準備を済ませた後、恭子が帰宅する頃には引き上げていることが多いので顔を合わせるのは数週間ぶりだ。

 最近、慶子が大学生になるひとり息子を持つシングルマザーであることを知った。

いつも憂いを含んだ表情には、女手一つで息子を育ててきた苦労がにじんでいたのかと合点がいった。と同時に、その儚げな風情が、弱い女に手をさしのべたくなる男心をくすぐるようにも思われた。

 男勝りな恭子に対して、自分を頼りにしてくれそうな感じを持たせる慶子。徹にとっていずれが魅力的な女であるかは明らかだ。

 このまま放っておけば、徹はいずれこの女に盗られてしまう。ならば…、玄関から廊下を居間へと進み、待っていた徹と向き合ったとき、恭子の中から恐れや迷いは消え失せていた。

 

「また、残業で待たされるかと思ったが、思ったよりも早かったな。じゃあ急いで用件を言ってくれないか。江上さんを長く引止めるのもご迷惑だからな」

「旦那さま、そんなお気遣いいただかなくても」

 恭子を迎えた徹の態度は冷淡なものだった。一方で、慶子と妙に息があっているところも腹立たしい。恭子は、自分の口ぶりにかなり悪感情がこもっていると自覚はしていたが、思いをぶちまけるように「専業主婦宣言」と「家政婦更迭提案」を行なった。

 

 恭子が話し終えた後、慶子は神妙に頭を下げていたが、徹はそっぽを向いて口をへの字にして押し黙っていた。

(専業主婦になるだと。何を今さら勝手なことを言ってやがる)

 口には出さなくても徹の表情からは、そんな怒りが読み取れたが、それはやがて冷笑に変わった。

 

「あれほど病院の仕事に熱を上げていたのに、都合が悪くなると随分簡単に放り出すんだな。でも、主婦業なんてきみの本意じゃないだろう。気持ちを押さえつけてまで家事をしてもらおうなんて僕は思わないよ」

「そんな、自分の都合だけで専業主婦になると言っているわけじゃないわ」

「ほう、じゃあなぜ? 」

「会社と社員の方たちのために、あなたを仕事に専念させてあげなきゃいけなかったのに、奈々や家の中のことを押し付けてきたことを後悔しているの。あなたの自尊心も傷つけたと思うし、それを詫びたい気持ちもある」

「だからこれからは僕の身の回りの世話をして償いたいと? 」

「そういうところかしら」

「ふん! そういうことは奈々が家を出る前に言うべきだったな。

妻として母親として、あなたや奈々のことが心配だから、ぜひ側でお世話させてください、というなら僕としてもぜひ、ということになっただろうが、今さら専業主婦やりますと言われてもね。

 要するにあのコロナ騒動で病院に居られなくなったんで、家に居場所が欲しくなったということだろう! 」


――家庭が母親を求めていた時は仕事を優先したくせに、仕事を失くしたら今度は家庭に逃げ込むのか――

 自分の身勝手さに向けられた徹の怒りを感じた恭子は言うべき言葉を失った。


「僕としてはこれ以上、きみの都合に振り回されるのは御免なんだよ。これからは、そばにいてほしい人にそばにいてもらおうと思っている。だから江上さんに辞めてもらいたいというきみの申し出は受けられない」


(やはりそうか。この二人たんだ)

 徹と慶子に対して抱いた恭子の疑念は確証に変わった。が、怒りは湧いてこなかった。これまで家族を裏切ってきた自分に、今さら夫の裏切りを非難する資格などない。恭子は全身の力が抜け、諦念と悲しみが胸を満たしていた。


「じゃあ、この家にもう私の居場所はないということね。わかったわ。私が出ていくことにします。もう私たち夫婦もおしまいね」

「待ってください。奥さま!私の方が辞めさせていただきます。どうか落ち着いて」


 慶子が慌てて恭子に駆け寄ろうとした。徹は慶子の手をつかんで立ち止まらせたうえで、恭子をにらみつけた。

「どこまでも自己都合優先なんだな、きみは! 簡単に別れるだ、離婚だ、なんて言うなよ。奈々のことはどうなる? このままあの子の考えも聞かずに、僕たちだけでそんな大事なことを決めていいわけないだろう。知らないうちに帰るべき家庭がなくなっていたなんて、奈々にとってそんなひどい仕打ちがあるか? もう少し冷静に考えろよ」


 徹の言うことはもっともではある。だが、自分の裏切りについては棚上げした言いぐさだ。それだけに恭子も素直には聞いていられない。

「じゃあ、私はどうすればいいの? と言うより、あなたは私にどうしてほしいのよ! 」

 恭子は、悲しみとも怒りともつかない感情をあらわにした。徹は、しばし鼻白んだ表情で恭子をにらみ、押し黙っていたが、やがて宥めるように話しかけた。

「しばらく距離を置いて、お互いのことを冷静に見つめ直して、考える時間をとることにしないか? 離婚する、しないを判断するのはそれからでも遅くないはずだ」

「距離を置くって、それ、どういうこと? 私に家を出ていけってこと? 」

「徹さん、いや旦那さま。それではあまりに奥さまが…」

 慶子は、恭子と徹の顔を交互に見ながら困惑していた。


(私は、奥さんに出ていってもらうことまで望んでいるわけじゃありません)

 慶子は表情でそう訴えかけていたが、仇の女に同情などされたくはない。徹に恨み事を言う気も失せて、かえって開き直る気持ちが生じた。

 

「わかりました。おっしゃるとおりにしましょう」

「そうか。じゃあ、知り合いの不動産屋に適当なマンションをいくつか紹介してもらうから、その中から気に入ったところに入ればいいよ」

「いえ、行き先は自分で決めさせてもらいます。一週間か十日ほどいただけるかしら。知り合いに当たってみたいと思うので」

「じゃあ好きにしたらいい。今夜の用件はこれで終わりかな? それでは、江上さんにも帰っていただいて。私もこれから出かける用があるんだ。これで失敬するよ。じゃあ江上さんもおつかれさま」

 徹は居間を出ていきざま、慶子に分かるように目で合図を送っていた。


 慶子はしばらく背後から恭子の様子をうかがっていた。顔を合わせて挨拶するのが恐ろしくなった慶子は、恭子の背中に言葉をかけた。

「夕食は冷蔵庫ご用意してありますので、どうぞ温めて召し上がってください。

では、失礼いたします」

 慶子が居間を出ていこうとしたとき、背後で恭子のつぶやきが聞こえた。

「これからは、そばにいてほしい人にいてもらいたいか…」

 慶子は思わず立ち止まり、背中に恭子の刺すような視線を感じた。

「あなたのどこに惹かれて、あの人はあんなふうに思うようになったのかしらね」

 恭子の暗い声に震えあがった慶子は、後ろを振り返らずに玄関へ駆け出した。

居間にひとり取り残された恭子は、目に涙をいっぱいにためてうつろな表情で立ち尽くしていた。



十、

 それから一時間後、旭川市内の繁華街にあるラブホテルの一室で、徹と慶子は抱き合いながら口づけを交わしていた。胸元を這いかけた徹の手を慶子は抑えた。

「シャワーを浴びてからにしましょう」

 徹から離れた慶子は、バスルームへ歩いて行った。先刻の恭子とのやりとりに気が立っていたようだ。部屋に遅れてきた慶子をそのまま抱きしめてしまったが、年甲斐もないことをしたと徹は気恥ずかしくなった。それでも慶子はこの後、何事もなかったように自分を受け入れてくれるだろう。

 

 きょうの対峙で、恭子は間違いなく自分と慶子が男女の仲になっていると気付いたはずだ。そのことに良心がとがめないわけではない。恭子が家庭に戻りたいと言ってきたことにしおらしさを感じつつも、自らの不倫の後ろめたさを糊塗するため、恭子の申し出を自分勝手だと非難したのもあくどいとは思った。

 だが、やはり慶子を失いたくはなかった。歳を重ねるにつれて、感情を煩わせることなく、従順で心身を癒してくれる女がいいと思えてきた。慶子はまさにそんな女だったからだ。

 

 恭子から家事を取り上げるために家政婦を雇うことにしたのだが、紹介所から派遣されてきたのが慶子だった。札幌の生まれで、夫の暴力を逃れて離婚し、旭川に移り住んできた。旭川市内の教育大学に通う一人息子がいる。苦しい経済事情の中、女手一つで息子を育てる慶子に同情するうち、心優しい人柄に魅かれていった。建設会社の経営が上向かず、妻と娘との関係にも疲れ果てる中、夕食どきに黙って話しに耳を傾けてくれる慶子に、徹は次第に本来のパートナー像を見るようになった。思いを打ち明けたとき、慶子は驚きつつも拒むことはなかった。

 

「息子さんの学費の手助けをさせてほしい」

 そう言って経済援助をちらつかせたことも大きかったとは思う。程なく男女の関係になると、徹は慶子の虜になった。恭子へのいら立ちからセックスでは、しつこい愛撫や破廉恥な行為を求めてしまったが、慶子は恥じらいながらも全てを受け入れてくれた。徹にとって慶子は「失いたくない女」になった。

 

 すりガラスごしに、シャワーを浴びる慶子の裸身のフォルムが見える。四十代半ばとは思えない美しさを保っている。今の自分には欠かせない存在ではあるが――。

 ふと、徹は若い頃のことを思い出していた。多分、二十代の頃には、慶子のような女には心惹かれなかったと思う。男として未成熟だったからもしれないが、あの頃は、やはり恭子が輝いて見えたのだ。

 

 なぜ、あれほど恭子に心惹かれたのか。それは恋愛感情というより畏敬の念に近いものだったように思われた。少女時代に肉親を相次いで亡くすという不幸な生い立ちの中で、恭子が培った固い信念に心を動かされたのだ。

 恭子は、中学に入ったばかりの頃に交通事故で両親を亡くし、親戚に預けられた。たった一人の兄は恭子の生活費を稼ぐために高校を中退し、北海道を離れて愛知県の自動車部品工場で働くことになった。働き始めて二年後、兄は進行性の癌にかかり、体調不良で入院した時にはすでに手の施しようがなかった。

 愛知から北海道に移動させることも難しい状態で、恭子が駆け付けた時には意識はなかった。それから十日余り、恭子はなす術もなく兄の命が朽ちていくのを見守るしかなかった。

 

「親戚の家で肩身の狭い思いをする生活から早く自立したい思いは強かったわ。だけどやっぱり大事な人を助けることもできずに、ただ見ているしかないって本当にみじめで情けなかった。あんな思いは二度としたくない。それが、私が看護師になろうと思った一番の動機なの」


 初めて身体を交わした後、腕の中で恭子が話した看護師という仕事にかける思いは強く徹の心を打った。

(いっぱい苦労して、悲しい思いもたくさんしてきたんだなぁ。でも、安心しな。これからは俺が守ってあげるよ。きみを守る力で俺自身も必ず強い男になるよ)

 言葉の代わりに徹が力強く抱き寄せると、恭子も応じるように身体をすり寄せてきた。思いが通じたことに徹は心を高ぶらせた。

 

 だが、現実は徹を「強い男」にはしてくれなかった。

旭川の地域経済の衰退と公共工事の削減が重なり、徹の建設会社は業績不振にあえぎ続けた。一時は、従業員を殆ど解雇し、開店休業の状態に陥った。

 原田家は、明治時代に開拓した土地を旭川市内各地に所有しているため不動産収入で生活に困ることはなかった。だが、それは先祖の遺産で食いつないでいるだけであり、徹は自らの力で何かを築き上げる達成感は得られなかった。


 対照的に恭子の人生は輝きを増していった。

結婚後も看護師を続け、介護保険制度で老人介護に競争原理が導入された時代の波に乗り、「縛らない介護」など新しい介護のあり方を実践。実績を評価されて大規模病院の総看護師長に昇りつめた。

 自らを不遇と思う男は、自分よりも名声を得ていく女に嫉妬を抱くものだ。ただ、それを表に出すことはプライドが許さない。徹は恭子の昇進を祝福する姿勢を見せて「キャリア女性に理解がある男性像」を演じ続けた。


 恭子は、結婚当初、同居する姑への遠慮から、どんなに仕事が忙しくても家族の食事の世話だけは怠らなかった。だが、十年前に姑が亡くなった後、タガが外れたように家事を徹に依存するようになった。徹の「優しさの演技」を本心だと錯覚してしまったのだ。

 徹も建設業が行き詰った状況に甘んじ続けたわけではない。会社に残った技術者たちに機械製造の研修を受けさせて、自動車や機械メーカーの下請け業務を受注しようと、全国各地を駆けずり回った。しかし、大きな契約をとることはできず、またも挫折を味わうことになった。

 一向にビジネスで成果を上げられない現状。マスメディアから注目されるほどの活躍を見せる妻。その妻に本心を言えないストレス。徹が精神的なはけ口を求めていた時に現われたのが慶子だったのだ。


 シャワーを浴び終えてバスローブに身を包んだ慶子が、ソファの横に腰かけると、徹の肩に頭を乗せてきた。

「奥さんに言われちゃった。あんたのどこに夫は惹かれたのかしらって。顔は見なかったけど、背中に殺気を感じたわ。慌てて駆け出してきちゃった。あの人がいる家には私、もう怖くて行かれない」

 慶子は甘えるように身体をすり寄せ、徹の手の上に自らの手を重ねた。


「あいつは自分から出ていくって言ったからな。出ていくまではお休みしてもらっても結構だよ」

「私、別にあなたを奥さんから奪うつもりなんかなかったわ。誘惑したこともなかったはずだし」

「きみが悪いわけじゃない。すべて俺が決めたことだ。本当にそばにいてもらいたいと思う女性はあいつじゃなくて、きみだと俺が決めたんだ」

「だったら今夜はずっとそばに居てもらえる? あの人のところへ帰したくないから」

「もとよりそのつもりさ」

 家政婦を愛人にして働き者の妻を追い出した夫。どこかで神や仏が見ていたら、罰当たりもいいところだろう。だが、道を踏み外して愛人を抱くことで、徹は心に安らぎを感じていた。



十一、

 翌朝、家と会社事務所、両方の戸締りをした後、恭子は旭生病院に向かった。

結局、徹は朝になっても戻らなかった。一人になってから一時間ほどで恭子は落ち着きを取り戻していた。徹と慶子の不倫も薄々気づいていたことではあった。

 悪い予感が当たった場合の身の振り方も恭子は考えていた。昨晩、メールを一通、札幌にある医科大学病院に務める先輩看護師に送っておいた。


『…旭川の病院を辞めることになりました。札幌に出ようと思います。北斗(ほくと)医科大学病院で働けないでしょうか。ご検討のほどよろしくお願いいたします』

 旭川の街からは一刻も早く離れたかった。生まれてこの方住み続けた故郷だが、あの二人がいると思うと今は嫌悪感しかない。だが、娘の奈々が状況を知らないまま親の勝手で縁を切るわけにはいかない。家族が再び旭川でそろう機会があった時、往来がしやすく、看護師としての仕事が得やすいことも考えて札幌に出ようと考えた。


 旭生病院の総看護師長席に着いてから早速、パソコンを開いてメールをチェックした。昨夜メールを送った相手――笠井冴子かさいさえこから返信が届いていた。


『急にどうしちゃったの? とにかく電話で事情を聞かせて。午後一時半からお昼休みなので連絡をちょうだい』

 

 泡を食っている姿が目に浮かび、懐かしさも加わって思わずクスリと笑ってしまう。

パソコンから顔を上げるとカンファレンスルームから二、三人の看護師たちがこちらをにらみつけていた。


(あんたはもう辞めるから気楽かもしれないけどさ。残る私たちは大変なんだからね。朝から締まりのない顔でニヤニヤしてるんじゃないわよ)

 無言の圧力を感じながら恭子はパソコンに向きあい、後任者への業務の引継ぎ文書を作り始めた。

 文書が半分ほど書きあがったところで、気が付くと笠井が指定した昼休みの時間になろうとしていた。時計の針が一時半を回ったところで電話をかけた。着信音が二回だけで相手は電話に出た。


「もしもし。ああ、おきょうかい。一体どうしたのよ? 久しぶりに連絡くれたと思ったら、いきなり旭川の病院辞めて札幌出るから、よろしくなんてさ。家の方は大丈夫なの? 」

 相変らずハスキーな声だった。二〇数年前、初めて会った時からヘビースモーカーだったが、今でも煙草はやめられないのだろう。

 

 笠井は、恭子の前任の総看護師長だった。年齢は一〇歳上。寝たきり老人の尊厳を守ろうと可能なかぎりおむつを外してのトイレ誘導を実践。患者のQOL生活の質を高めた手腕は全国的にも注目され、三年前に北斗医科大学病院の総看護師長にスカウトされた。恭子は、笠井の愛弟子として鍛えられ、後事を託されたのだ。

 

 恭子は、クラスター発生問題の責任を負って総看護師長を辞めることになった経緯と、夫の不倫が明らかになった事情をかいつまんで話した。ふんふんと、軽快な相槌が受話器の向こうから聞こえてくる。


「本当に散々だねえ、あんた。それでどう? 首くくりたくなった? 」

 暴言紛いの乱暴なリアクションだが、恭子がそんなヤワな女でないことを重々承知のうえで言っていることだ。むしろユーモアで気を紛らわそうという心づかいが恭子には嬉しかった。

 

「さてどうでしょう。旦那は絞め殺してやりたくなりましたけど、何とかこらえてやっているというところでしょうかね」

 しゃくりあげるような大きな笑い声が返ってきた。

「それでこそおきょうだよ。男を絞め殺そうって気力があるなら大丈夫そうだ。実は、ちょうど、今月、医科大病院で新しい外来を立ち上げることになったんだけどね。誰か任せられる人がいないかと思ってたんだけど、あんたがいいかもしれない」

「新しい外来? 」

「新型コロナ感染症から回復しても原因不明のいろんな後遺症が現われているでしょう。そうした患者を対象にした専門の外来さ」


 倦怠感、頭痛、発熱、脱毛など、いわゆる新型コロナ感染の後遺症とされる症状は多岐にわたる。専門外来では、症状に合わせてさまざまな科の医師が出入りして治療にあたりながら、専従の看護師とソーシャルワーカーが患者の心のケアとリハビリを行うという。笠井は、その専従スタッフの束ねを恭子に任せたいというのだ。


「医療についての幅広い知識は勿論、どんな科のドクターにも物怖じせずにモノが言えて、現場のスタッフも引っ張れる。そんな人が欲しかったのよ。実を言うと、おきょうみたいな人がいてくれたらいいなと思ってたんだけど、まさかそちらから飛びこんできてくれるとは思いもしなかったわ」

 またしても新型コロナか…。医療の世界で生きつづける限り、もはや逃れることはできない相手だ。一度は完膚なきまでに叩きのめされたが、今度は後遺症患者を支えるという形で立ち向かうことになる。自分にとって格好のリベンジの舞台になるかもしれない。


「どう? 旭川の仇を、札幌で討ってみたいと思わない? 」

 笠井も恭子の胸の内を察して、改めて誘いをかけてきた。

「わかりました。仇をとらせてください。よろしくお願いします」

 よっしゃ、よっしゃ、と言いながら、しゃくりあがるような笑い声が再び受話器の向こうから聞こえてきた。

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