第4話 奪われた誇り①
七、
患者ひとりひとりに寄り添い、心の中で願っていることを可能な限り病院でも叶えていこうという「縛らない介護」。
その土台となるのは、看護師や介護士が患者に密着したきめの細い介護だ。寄り添う中でのコミュニケーションを通じて患者が心に秘めた願いをくみとり、形にしていく。
野菜を育てることが生きがいだった老婆のために畑が作られた。畑には、かつて農作業に精を出していた老人たちが集うようになり、天気のいい日には、あちこちから老人と医療スタッフたちの楽し気な歓声が聞こえてきた。
それは、看護師として患者の命を守り、支えることを志してきた恭子にとって、努力の末に築き上げた楽園だった。
だが、その楽園に死神が忍び寄っていた。新型コロナウイルスである。
二〇二一年一月、旭生病院内の畑で歓声を上げていた老人たちの多くはベッドに横たわり、ある者は死の淵に立たされていた。
新型コロナに感染したものの無症状だった二十代、三十代の若い看護師・介護士たちを通して介護病棟に入院する老人たちに感染が拡大。「縛らない介護」の土台となる、一人ひとりに密着したきめの細かい介護が災いしたのだ。
介護病棟の入院患者九十名のうち五十名が感染し、その半数が重症化。介護病棟は、コロナ感染患者を収容する病棟と化した。
非常事態の発生だったが、恭子は迅速な対策に動いた。
療養を目的とする介護病棟にはそもそも高度な医療機器が乏しい。そのため第一に、コロナ重症患者を旭生病院から、地域有数の高度医療機関である
第二に、医師・看護師・介護士全員にPCR検査を行い、医療スタッフから患者への感染拡大を防ぐことだった。
ところがこの対策が尽く頓挫してしまう。
まず、旭星医科大学病院がコロナ重症患者の受入れを拒否した。
救急患者や高度ながん治療を担っている医科大病院としては、コロナ感染者の受け入れは、患者を高いリスクにさらすことになり、引き受けられない、というのだった。
そして一度のPCR検査では、感染のすり抜けを防ぐことができなかった。検査後に体調を崩したスタッフが再検査したところ陽性が判明するケースが相次いだのだ。その結果、医療スタッフを介した感染は、一般病棟の入院患者や外来を訪れる患者にも拡大。二月に入り、旭生病院の新型コロナ感染者は、スタッフと入院・外来患者は合わせて二五〇人をこえ、クラスターとしては当時、国内で最大規模となった。
ここに至って北海道知事は、自衛隊に旭川市への災害派遣を要請。旭生病院には、感染症患者の隔離と応急処置を専門とし、クルーズ船で発生した新型コロナ集団感染に対応した「対特殊武器衛生隊」が投入された。同隊の監視の下、恭子をはじめ、病院関係者は全員感染の疑いありとして病院からの外出を二週間禁じられることになった。
(こんなの看護師として生殺しだわ…)
恭子たちは、病院内の隔離区域から出ることは許されず、患者のケアは全て自衛隊の医官と看護官に委ねなくてはならなかった。自衛隊が投入されたと言っても、
患者死亡の情報が入るたびに担当したスタッフたちは深い悲しみと無力感に打ちのめされた。泣き崩れたり、精神的に不安定になる者が相次いだ。
「総看護師長、私たち一体何やってきたんでしょうね。畑を耕したり、収獲した野菜を食べるパーティ開いたり…。でも結局、いざという時、何の役にも立ちませんでしたね…」
「農場長」と呼ばれるようになった認知症患者・佐藤シズエさんを担当し、畑での野菜栽培を率先してやってきた二十歳の女性介護士・鈴木春香が憔悴しきった表情で恭子に話しかけてきた。食欲がないのか頬がこけ、青白い顔で足どりも覚束ない。
「そんなこと…あなたの努力があったからこそ、シズエさんだけじゃない。たくさんの患者さんが元気になったのよ」
「畑に出ていた人たちも何人か亡くなっています。シズエさんだって、きょう明日どうかって言ってるじゃないですか。シズエさんにもしものことがあったら私、どうしたら…」
春香は、目に涙をいっぱいにためながら恭子に縋るような表情を向けてきた。
(これ以上ショックを与えると、この子、精神的に持たないわ…)
恭子は、春香の肩を抱き寄せて耳元でささやきかけた。
「あなた、全然休めてないんじゃない? いざという時、ちゃんと働けるように休めるときに身体を休めておくことも医療スタッフの仕事のうちよ。さあ、少し眠剤を処方してもらいましょう」
恭子は、うなだれる春香を精神科医のところへ誘った。
(若い意欲にあふれた子ほど打ちのめされていく…これもコロナの恐ろしさね)
恭子は、このクラスター騒動が収まった後に残るスタッフたちの心身へのダメージのことを考えると暗澹たる思いになった。
約二週間続いた対特殊武器衛生隊の処置によって旭生病院の新型コロナクラスターは収束した。感染者は、患者とスタッフを合わせて三一〇名に達し、患者八名が亡くなった。
犠牲者の中には、「農場長」佐藤シズエさんの名前もあった。
八、
四月を迎えて
病院敷地内の畑が雪に埋もれた時期、そのありかを示し続けたトウモロコシの茎の並び。
まだ冬枯れした姿をさらしているが、心持ち背筋を伸ばし始めたようで、再び命が芽吹く気配が漂っている。
「今年もいい実がなりそうですね。私も皆さんと一緒に収獲したかったんですけど…」
亡くなった佐藤シズエさんを担当していた「元」介護士・鈴木春香は、トウモロコシの茎に手を触れながらつぶやいた。その手はひどく青白く痩せている。
佐藤さんが亡くなったことを聞いた後、春香は重度のうつ状態に陥った。気分が落ち込み、立ち上がることもできないほど重症だった。精神科医の診断では、職場復帰は当面難しく、長期の療養が必要とのことだった。
『回復には、少しでも精神的な負荷を減らすことが必要』という精神科医の指示に従い、春香は旭生病院を退職することを決めた。
漸く立ち上がれるようになった春香は、職場を去る前、最後に畑を見ていきたいと、恭子に連絡してきた。春香は歩くのに杖が必要な状態だったため、恭子は介助しながら一緒に畑まで付き添うことにした。
「あまり無理はしないで。寒くなってきたからもう病院に戻りましょう」
「いいえ、大丈夫です。もう少しここに居させてください。私にとってとても楽しい思い出がある場所ですから」
冬枯れしたトウモロコシの茎を手に取りながら春香は静かに目を閉じた。
「こうしているとシズエさんや他の患者さんたちが元気で野菜を収獲したり、一緒に料理したりして楽しく過ごしている姿が浮かんでくるんです。
みんな、本当にいい笑顔をしている。
この数か月は、地獄みたいだったけど、こうやって目を閉じていると、また元気な皆さんに会えるから。私、すごく今、気持ちが穏やかでいられるんです」
やつれた青白い春香の顔に穏やかな笑みが浮かんだ。
が、それもつかの間。目を開くと、たまっていた涙が一気にこぼれ落ちた。
「でも、みんないなくなってしまった。私のせいでみんな…。それが本当に残念で、申し訳なくて…」
嗚咽の声を上げ始めた春香の肩を恭子はしっかりと抱きしめた。
「ごめんなさいね。あなたをこんなに傷つけてしまって。これからっていうあなたみたいな若い人の心に深い傷を負わせてしまって…本当にごめんさない」
恭子も感情の押さえが効かなくなり、涙ぐみはじめていた。
すすり泣く声を漏らしながら暫し抱き合う二人。お互いの体温を感じあう中で、顔をあげた春香の表情は落ち着きを取り戻していた。
「しっかりしてください。総看護師長。これからもあなたが先頭に立って、患者さんを支えていかなきゃいけないんじゃないですか」
優しく諭す春香に、恭子は、はっと我に返った。確かに悲嘆にくれている場合ではなかった。新型コロナウイルス感染の収束後、介護病棟を取り巻く状況は、一層厳しさを増していたからだ。
敵は内側にいた。旭生病院の経営陣は、クラスターを発生させた責任を介護病棟にとらせたうえで、病床数を半分に削ろうとしていた。
「縛らない介護」に取り組むことで、人件費は高騰。畑作りや様々なリクリエーションはすべて病院側の持ち出しだった。一方で、介護保険の報酬単価は年々切り下げられている。介護病棟は赤字ばかりを生み出す元凶と経営陣からは見られていた。
これまで介護病棟は社会的に高い評価を受けてきた。在宅介護が困難な老人の行き場を求める地域のニーズもあり、容易に合理化を進めることは経営陣にも憚られた。
ところが、今回のクラスター発生は、むしろ今の介護病棟のあり方こそが大きなリスクということで、大ナタを振るう口実を経営陣に与えてしまったのだ。
そしてこの日、大ナタは恭子めがけて振り下ろされることになった。
元介護士の春香を病院の玄関まで送った後、恭子は、病院長の須藤と、事務長の金子から呼び出しを受けた。
須藤と金子が待つ会議室の扉横には、縦長の紙が貼りだされていた。仰々しく毛筆で書かれた文字が記されていた。
「旭生病院構造改革実施本部」
(『改革』って便利な言葉ね。そう言えば、何やったって正当化されるんだから)
お題目の文字を見上げながら恭子は鼻白む思いがしていた。
と同時に、『改革』の名のもとに、恭子が心血を注いできた介護病棟を押しつぶす姿勢を見せている経営陣に対する闘志がわいてきた。
「失礼いたします!」
恭子は、闘いを宣するように気合をこめた声で断わりを入れて『改革実施本部』へ入った。十名ほどの居並び座る男たちが一斉に視線を送ってきた。
冷ややかで敵意に満ちたもの、生贄にされる者への哀れみを浮かべたもの、無関心で何の感情も読み取れないもの、男たちの表情はさまざまだ。
「まあ、おかけください」
気遣うような声で恭子に着席を促したのは病院長の須藤だった。顔の表情は、同情を寄せているようでもあり、怯えているようでもあった。
(小心者は、後ろめたさを隠し切れないようね)
恭子はうつむきながら、やや口角をあげて苦笑した。
クラスタ―発生の原因が、介護病棟の患者とスタッフの頻繁な接触と密着にあったことは否定できない。北海道庁クラスター対策班の調査でも、無症状感染したスタッフを源として介護病棟の入院患者の中にクラスターが発生したことが裏づけられていた。
だが、感染した患者を、早期に他へ移送する体制ができていれば、爆発的な感染拡大は
防げたのではないか、ともクラスター対策班は指摘していた。
有力な移送先としてあげられたのが、同じ旭川市内の旭星医科大学病院だったが、この病院は受け入れを拒否した。
既存の入院患者を危険にさらすことを避けたかったから、というのが公式見解だが、旭生病院経営陣との日ごろからの確執が背景にあったという噂が絶えなかった。ともあれ、爆発的な感染拡大を防ぐ体制をとれなかったという後ろめたさが須藤病院長の表情を曇らせていたのは間違いない。
「これまでも聞き取りさせていただきましたが、構造改革実施本部としては、介護病棟が抱えている問題を大変ゆゆしきものだと認識しています。我々としては、一刻も早く改革を断行しなくてはならないと不退転の決意を固めております」
持って回った言い方で、介護病棟のリストラをほのめかしてきたのは金子事務長だった。
なるほど、他の病院と協力体制を築けなかったことに問題はあったかもしれない。
だが、コロナで問題を起こしたことを契機に、赤字を垂れ流す介護病棟を縮小してしまう方が経営的には得策だ―― そう考える急先鋒が金子だった。
つい先日まで、尻を叩いてNHKの取材に協力しろとハッパをかけていたにもかかわらず、少しでも問題を起こせばつぶしにかかる。そのご都合主義に、恭子はほとほと嫌気がさしていた。自然と金子を見つめる目つきにも嫌悪感が露わになった。
「で、改革って何をなさるおつもりなんですかぁ? 」
恭子は努めて冷静に声をかけたつもりだったが、やや声が甲高く挑発するように聞こえたかもしれない。現に、金子は癇に障ったらしく、顔を青白くしながらまくしたててきた。
「いざ感染症が起きれば重症化の恐れがある高齢者を九十人も抱えて、それとほぼ同じスタッフがいる過密状態を解消しないと、今後もクラスターが発生しかねません。
再発防止のために介護病棟の病床数は半分に、看護師・介護士の数は三分の一に削減します。スタッフが減りますから、認知症患者への身体拘束は再開。農作業などのリクリエーションは当面中止です。
さらに、死者を出す深刻な事態を招いた以上、責任者の処分は避けれられないでしょう。
そこで、原田総看護師長、あなたについてだが…」
金子事務長は、一瞬間をおいた後、ニンマリと笑いながら言葉をつないだ。
「改革実施本部としては、この際、総看護師長の職を後進に譲っていただきたいと思っています。当面は、あなたの身は(改革実施)本部預かりということにさせていただきます」
金子の顔に、勝ち誇るような会心の笑みが浮かんでいた。
(何がそんなに嬉しいのやら。生意気な女をやりこめられたらそんなに満足なの? )
この男の狭い了見が分かると、恭子は、腹を立てること自体が馬鹿らしくなってきた。今の自分にとって大事な拠り所ではあるが、総看護師長という地位に執着する気持ちもなくなってきた。病院の経営陣にも愛想が尽きていた。
だが、二十数年来、曲がりなりにも地域の医療を担ってきた身として、言い残しておかなくてはならないことがあった。
「総看護師長を辞めることに異存はありません。介護病棟のあり方がコロナに対してあまりに脆かったというのも、その通りだと思います。
ですが、もう少し
地域で役割分担ができていれば、コロナのような危機が起きたときにもっと協力しあえていたんじゃないでしょうか? 」
須藤病院長は、眉間にしわを寄せ、金子事務長は露骨に不快な表情を浮かべた。
恭子の言い分は確かに正論だ。だが、今、介護はもうけが少ない。ただでさえ人口減少が進む北海道の札幌以北で、介護に特化しても経営的には苦しくなるばかりだ。
生き残るには医療保険の報酬単価が高い救急医療や高度ながん治療など、「稼げる医療」にシフトする必要がある。そのため、先進医療で先行する旭星医科大病院とは競合することになった。常日頃から対立関係にあったために、旭生病院は「コロナ禍」の中で、足元をすくわれることになったのだ。
恭子の指摘は未曽有のクラスター発生を招いたのは、旭生病院の経営判断にも問題があったのではないかと問いかけるものだった。
ここで恭子の言い分を認めては、須藤も金子も責任を問われかねない。金子は、元凶は、あくまで介護病棟のあり方だという論法を押し通そうとした。
「患者さまの命が失われる事態を引き起こした張本人が、病院の経営を云々するのは、僭越というものではないですかね。
それに、今、介護病棟のスタッフで依願退職する人が増えているそうじゃないですか。
この「コロナ禍」で、今までみたいな密着介護をやっていたのでは命がいくつあっても足りないと、皆、逃げ出しているわけでしょう。中には、心を病む若い人もいるそうですね。本当に人生台無しだ。そんな若い人たちに対してどう責任をとるつもりなんですか? 」
――お前の理想に付き合って傷ついた部下たちへの責任をどう考えるんだ――
つい先刻、うつ病を患って病院を辞めていった若い女性を見送ったばかりだっただけに、金子の物言いは恭子の「痛点」を鋭く突くものだった。
その後は、介護病棟のリストラ方針について一方的な申し渡しが続いた。恭子は、沈黙したまま朦朧とした意識の中で話を聞いていた。
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