第3話 壊れた家族

四、

 恭子の娘・奈々は睡眠薬を大量に服用して自殺を図った。いじめから逃れられない絶望からきた行動だった。

 奈々がいじめを受けるようになったのは、中学一年生の秋の運動会後のことだった。

母親の恭子に似て、長身でしなやかな体つきの奈々はスポーツが大の得意で、バスケットボール部に入部した。そこには、同じクラスの派手好き・おしゃべり好きの女子の三人組がいた。奈々とこの三人組は夏休みまでは仲良く過ごしていた。


 そして秋の運動会。クラス対抗の男女混合リレーのメンバーに奈々は選ばれた。

男子二人と女子二人。男子の一人は、男子バスケット部所属で長身・ハンサムぶりが同学年の女生徒たちの憧れの的だった。

 奈々もそれを意識しないわけではなかったが、大会前の一週間はメンバー四人だけで練習を行い、その過程で「憧れの男子」とも気心が知れるようになった。ところがその様子を女子三人組から苦々しく見られていたのである。

 運動会で、奈々たちの混合チームは見事に優勝を勝ち取り、タイムでは学年新記録を打ち立てた。四人は互いに喜びを分かち合い、奈々と「憧れの男子」はハグしあう場面もあったが、そのことが奈々の立場を暗転させることになってしまう。

 運動会の終わった夜、LINE上で、三人組から奈々への攻撃が始まった。


「何、あれ?どういうつもり?」

「むかつく」

「あれって公然わいせつってやつじぇね?」


 チャットには、奈々と「憧れの男子」がリレーの後、ハグした場面こそないものの、親

し気に向きあっている写メも添付され、奈々の目には、ハートマークが書き込まれていた。


「インラン女!」

「既読なら何か言えよ」

「彼とはそんなつもりじゃない。誤解です」

「じゃあ、何?いかにもラブラブそうだったよ」

「男に色目使って、あしたからは無視だかんね!」


 翌日から三人グループの無視が始まり、彼女たちによる陰口のループがクラスだけでなく、バスケットボール部にも広がった。

「本当、いやらしい。自分から〇〇くんに抱き着いて」

「少しかわいいからって、いい気になっちゃってさ」

 声を潜めながらも聞えよがしの会話が交わされる。誤解を解くために奈々が話しかけようとしても皆、潮が引くように遠ざかっていく。

 帰宅後もLINEで三人組からの中傷が続いた。耐えかねた奈々が三人とのLINEグループを脱会すると、今度は「リアル」な嫌がらせが始まった。机に中傷する落書きを描かれたり、体育の授業中に、セーラー服が土足で踏みつけられていたり、靴に泥をつめられたり。


 さらに奈々を傷つけたのが、「憧れの男子」までもがいじめに加わったことだった。

奈々との噂がツッパリグループに知れて「男子」は、呼び出しを食らった。

「お前から女に手を出したのか?」

と問い詰められたところ、「男子」は、

「ちがうちがう。あの女から言い寄られて俺も迷惑してるんだ」

と答えた。そのうえでツッパリどもから、

「そんなら、あの女、シめんといかんなあ」

と言われ、LINE上で奈々への中傷を始めた。

曰く、いかに奈々に強引に言い寄られたか。いかに淫乱な女か。

根も葉もないことを「タイムライン」に投稿し始めたのだ。


 「タイムライン」は、知らせたいことをLINE上で「友だち」登録した相手に一斉通知する機能だ。いつでも削除できて、削除した形跡も残らない。悪口を、ターゲットを含む「友だち」登録した相手に一斉発信し、ターゲットの相手が読んだ後に削除すれば、投稿し、削除した証拠も隠滅できるのだ。さらに、悪口は「友だち」登録したいじめグループの仲間によってツイッターなど、他のSNSに拡散されることもある。

 奈々は、「男子」のタイムラインから拡散されたと見られる中傷の書き込みを見て深い絶望を味わった。あれほど分かりあえたつもりでいても、人というのはこんなにも簡単に人を裏切れるのかと。


 家庭にも奈々の逃げ場はなかった。母の恭子は、テレビ取材を受けるまでに注目された介護現場の取組みに躍起になっていた。一方の父・徹も新規事業の契約を取り付けるため、全国各地に出張して家を空けることが多かった。

 親にも悩みを打ち明けられない孤独。服や靴を汚される嫌がらせに加え、SNS上でどんな噂を流されているか分からない疑心暗鬼。精神的に追い詰められ、心療内科に通い始めた奈々は、睡眠薬を蓄え始めた。


「このまま生きていてもつらいことしかない。どうせ死ぬなら楽に死のう」

 芽生え始めた自殺願望。実行に移すきっかけとなったのが、「男子」が投稿したと見られる奈々の顔に女性のヌード写真を合成した画像だった。

「ぼくは、この体で迫られました」

 画像には、そんな書き込みが添えられていた。


 もう耐えられない。女としてこんなに恥ずかしい思いをさせられて。

母に打ち明ければこのつらさから抜け出せるんじゃないか。同じ女として寄り添い、支えてくれるんじゃないか。

 そう思って奈々は、今朝、朝食を終えた恭子に向きあった。

だがこの日、テレビの撮影を控えていた恭子は黙って向き合う奈々に、ただいら立つばかりだった。相対した奈々は何も言えなくなってしまった。さすがに、父・徹には、こんな恥ずかしい姿をさらされたことはなかなか話せない。


 寄る辺を失った奈々は、家を出た後、登校することもなく街にさまよい出た。

「もう、これでおしまいにしよう」

 奈々が、ため込んだ睡眠薬を一気にあおったのは、行くあてもなく一日街を歩いた末にたどり着いたショッピングセンターのトイレの中だった。



五、

 駆け付けた看護師は、恭子をNHKの撮影クルーから少し離れたところへ連れ出して、小声でささやきかけた。


「トイレで見つかったときには、睡眠薬の袋が傍らにあったそうです。だから、娘さん、自殺を図ったんじゃないかって…」

 そこまで話を聞いたところで、恭子は脱兎のごとく駆け出していた。

けさの奈々の様子から何か困っているのでは??とは思っていた。それでも、テレビの撮影があるからと振り切って出てきたことへの強烈な後悔が恭子を苛んでいた。


(そんな。あんな中途半端で終えた会話が最後になるなんて。そんな、そんな…)

 病院の廊下を走り抜けていく恭子を驚いて見つめる看護師や患者たち。その姿がだんだん涙でかすんできた。

 よちよち歩きをしていた頃のことや小学校入学。バスケットボールを始めて急に身長が伸びて二人で背比べをするようになったこと…奈々との楽しい想い出が脳裏を駆け巡り、トイレで昏睡状態になった哀れな姿が像を結ぶと、恭子は半狂乱になって奈々の名前を叫んでいた。


 涙で顔を濡らした恭子が大声を上げて飛び込んできため、ICUのスタッフたちは皆、棒立ちになった。スタッフたちに囲まれたベッドに横たわる奈々は??恭子の姿に驚き、目を見張っていた。

「ああ~、良かった! 生きてたぁ! 」

 そう声をあげた途端、腰砕けになった恭子はベッドにすがりつきながらへたりこんでしまった。救急医が恭子に歩み寄って声をかけた。


「発見が早かったのが幸いしました。睡眠薬は殆ど吐き出しましたから、もう命に別状はありません。今は少し体がしびれているでしょうが、明日には起き上がれるはずです」

 症状が重くないという救急医の話に恭子の気持ちも落ち着いた。

恭子が顔をあげると、横たわる奈々はこちらをじっと見つめていた。何も言葉を発さず、無表情で、目の光には冷ややかなものがあった。


(一体何なの? まったく、可愛げがない)

 恭子は心中、舌打ちする思いがした。

 そこへ、夫・徹が駆けつけてきた。

「奈々! ああ、意識はあるんだな。良かった、良かった」

「お父さん! 」

 それまで恭子には何の言葉もかけなかったのに、奈々は徹を見た途端、すがるような声をあげて手を伸ばしてきた。徹も手をとって握りしめている。

 奈々は、徹とは会話を交わそうとしていたが、恭子のことは敢えて無視しているようだった。どこか不貞腐れているようにも見える。


(あんなに心配をかけておいて、私が仕事を放り出さなきゃいけないような迷惑をかけておいて、一体どういうつもりなのよ! )

 のちのち恭子は、大いに悔やむことになるのだが、この時は、こみ上げてきた怒りを抑えることができなかった。


「何で、こんなに周りに迷惑かけるような事をやったのよ! そんなに悩んでいることがあるなら、ちゃんと相談してって普段から話しているでしょう! 」

 とても自殺未遂をした娘にかける親がかける言葉ではない。

傍らにいた徹は暫し呆気にとられていたが、やがて怒気をはらんだ声をあげた。


「死にかけた娘を、ミスを犯した部下みたいに叱りつけるやつがあるか! お前、それでも母親か! 」

 日頃の夫にはない剣幕にたじろぎながらも恭子も感情がおさまらない。

「今が、病院の大事な時だって、あなたも分かってくれていたじゃない。私の手が届かないことは、僕が面倒を見るって」


 なぜ、素直に自分の非を認めず、あんな甘ったれた言葉を吐いたのか。今から思えばそれが悔やまれてならない。

 父と母のいさかいをじっと聞いていた奈々はやがて口を開いた。

「もうやめて、お父さん。この人にとって私なんか邪魔者でしかないのよ。大事なのは自分だけなんだから」


 感情をあらわにしていた自分とは対照的な乾いた口ぶりと、冷たい光をたたえたまなざしに思わず寒気を覚えた恭子は、それ以上、言葉を継ぐことができなかった。



六、

 奈々の入院治療は十日間続いた。その間、冷静さを取り戻した恭子は、ICUで奈々に対して怒りを露わにしたことを深く後悔していた。

 自ら死を選ぼうとするほど追い詰められていたのだ。どんな事情だったのかを問いかけ、返ってきた言葉に黙って耳を傾けること。それが親としてとるべき態度だったはずだ。

 にもかかわらず、恭子は自分の仕事の邪魔をしたことや世間体が悪いことへの怒りをぶつけていた。


『――この人は私を愛しているんだろうか? 私のことなんて邪魔なんじゃないか?——』

 奈々が恭子に強い不信感を抱くのも仕方ないことだった。恭子自身、何も異変を感じなかったわけではない。何かひっかかるものを感じながら敢えて見過ごしてしまった後ろめたさがあった。

 ICUに駆け付けたときに奈々が見せた不貞腐れたような態度は、仕事優先で異変を敢えて見過ごしたことへの怒りだったのだと、恭子は理解していた。

 

 退院の日、恭子は病院への迎えを徹に任せて、夕食の準備をすることにした。

献立は、奈々が大好きな豚の角煮と野菜入りのスープカレー。北海道のスープカレーは、本州のカレーライスとは異なり、カレー風味の鍋料理のようなものだ。

 豚バラ肉を煮込んで灰汁をとり、しょうゆとみりんで味付けして角煮を仕上げる。甘口好きな奈々のために隠し味で砂糖を少々。茹でたアスパラやトウモロコシを海老で出汁をとったカレースープで煮込み、そこに豚の角煮を入れてカレーの風味をつける。

 豚肉と野菜の仕込みから初めて二時間近く。これくらいでは、とても奈々の怒りや不信感を拭えないかもしれないが、恭子は懸命に夕食の準備をした。


 夜の七時を少し回った時間に、徹と一緒に奈々が帰ってきた。

「おかえりなさい。退院、おめでとう。今夜はあなたが大好きなもの用意したわよ」

 恭子は努めて明るく声をかけたが、奈々は冷めた目を向けて答えた。


「もう夕食はお父さんと済ませてきました。これから部屋で荷物をまとめますから、どうぞお構いなく」

 そう答えると奈々は、さっさと恭子の横をすり抜けて自室へ入ってしまった。

呆気にとられている恭子に、遅れて家に入ってきた徹が声をかけた。


「福岡の智子と話をしたんだ。奈々が家を出たがっているんで暫く預かってくれないかって。智子は恭子を昔からかわいがってくれていたし、あの夫婦は子どもが欲しくても授からなかったから、奈々ちゃんさえ良ければぜひ、と言ってきた」

 智子とは徹の妹で、九州のガス会社に勤める会社員と結婚して福岡市で暮らしている。


「そんな! 私に何の話もなく智子さんのところへ奈々を預けるなんて」

「奈々がもう、きみとは暮らしたくないと言ってるんだ、つらい思い出ばかりの北海道からも離れたいと言っている。自殺を考えるまで思い詰めたんだ。あの子の好きなようにさせてやろうじゃないか。それがせめてもの親心というもんじゃないのか」

「そんな… 私、本当に申し訳ないと思って…これから、あの子を傷つけてしまったこと、償いたいって思っていたのに…」

「分からないのか? 今はもう、きみと一緒にいることがあの子を傷つけているんだ。自分のことを心の底では邪魔だと思っている母親と一緒にいることが、あの子にとってどんなにつらいことか」

「私…あの子のこと邪魔だなんて、これっぽっちも思っていないわ。とっても愛しているのよ…」

「きみがどう思っているかは問題じゃない。大事なのは奈々がどういう思いでいるかということだ。今の奈々は、きみが親としての愛情を抱いているとは信じていない。そのことをまずはしっかり受け止めるんだな」


 これまで徹が面と向かって恭子に意見するようなことはなかった。いつも遠慮していて、その気弱さにいら立つこともあった。それが一転、冷ややかな口調で突き放すような言葉を吐いた。

 驚愕している恭子を無視して、徹は仕事部屋へと姿を消した。

 ダイニングテーブルの上には、恭子が作ったスープカレーの入った鍋が置かれ、誰にも手をつけれないまま、香辛料の効いた香りを部屋じゅうに漂わせていた。


 

 退院翌日の朝、奈々は福岡へ向かうために家を出た。

恭子が出勤前の化粧をしている傍らを、奈々は見向きもせずにスーツケースを引きながら玄関へ向かった。後に続く徹が、恭子に声をかけた。


「荷物があるから、僕の車で新千歳空港まで送ってくる。きのうのうちにネットで航空チケットは手配したから。それと、見送りはいらないと奈々が言っている」

 恭子が振り返ったときには、徹も慌ただしく玄関を出ていくところだった。数分後にガレージから出ていく車のエンジン音が聞こえてきた。あまりにあっけない母娘の別れだった。

 その後、恭子からの電話やメールに奈々が答えることはなく、没交渉の状態が続くことになった。


 奈々が福岡に去った翌週、徹も新たな動きを見せた。家政婦を雇うことにしたと言って、ひとりの女性を家に連れてきたのだ。

 名前は、江上慶子えがみけいこ。年齢は恭子より一つ年上だという。

清楚ながら成熟した色っぽさの漂う女、というのが恭子の第一印象だった。

中年女性にありがちな体形の崩れは見られず、ウエストも締まり、色白で頬と胸元の豊かさが目をひく女だった。身長は恭子と同じく一六五センチほどで、すらりとして手足も長い。やや肌の浅黒い恭子には、精悍さが感じられるのと対照的だ。

 自分にないものを、徹はこの女に求めている。恭子は直感的にそう思った。


「俺の身の回りの世話は、来週から江上さんにお願いすることにしたよ。きみは病院の仕事に専念してくれればいい」

「奈々がいなくなったんですから、あなたの食事を作ることくらい私にもできるわ」

「きみは仕事が第一な人だ。俺のためにきみの手を煩わせるのも気が引けるんでね。

 それに、あなたの食事くらいか…。面倒に思われているんなら、いっそ何もせずにいてくれたほうがいい」

「私は、あなたの妻だし、この家の主婦でもあるのよ。このままじゃ居場所がなくなってしまうわ」

「居場所がなくなるか…そう思うんなら、別に居場所を作ってもらってもいいんだがね」

 徹は口角を上げて冷笑をうかべていた。


(『出ていきたいなら、止めはしない』ということか…)

 恭子は、感情を爆発させて『じゃあ、分かれましょう! 』と言ってやりたくもなったが、それでは奈々が帰ってくる家庭がなくなってしまう。

 徹の冷え切った心のうちはよくわかった。でも、今は奈々のために家庭の形だけは残しておくようにしよう。恭子はそう考えて気持ちを落ち着かせた。


 家政婦の慶子が働き始めてから、恭子は家でやることが殆どなくなった。

恭子と徹は、慶子が用意してくれた朝夕の食事を別々の時間にとることになり、ひとつ屋根の下で暮らしながら殆ど顔を合わすことはなくなった。結果として、恭子は一層仕事にのめり込むことになった。

 恭子の心の拠り所は、旭生病院総看護師長という職業上の地位だけになってしまった。

ところが二〇二一年一月、その拠り所を崩壊させる事態が起きた。病院内での新型コロナウイルスの感染者集団、クラスターの発生だった。

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