第2話 崩壊の前夜②
三、
「…その事件というか経験こそ、取り組みを進める大きなきっかけになったんですよね。とても大事なお話だと思うので、ぜひ、原田さんに、現場となった患者さんの部屋やトイレをご案内いただいて、インタビューさせて頂いたり、イメージ映像を撮らしていただきたいんですが…」
撮影の打合せで、恭子がその「事件」について話したところ、NHKのディレクターは、ぜひ番組の中でエピソードとして取り上げたいと食いついてきた。恭子はにこやかな表情を崩さなかったが、内心、穏やかではなかった。
見たところ三十そこそこと思われるディレクターの男。左の薬指に指輪をはめているから結婚はしているらしいが、相手の心の内を慮るところが、少々欠けているようだ。
まじめで仕事熱心なんだろうが、あまり女にはモテないだろうなぁ。いい会社入るために勉強ばかりしてきて、あんまり女の子と付き合ったこともないのかなぁ。
だいたい、あんな目に遭ったことを女が嬉々として話すなんて思っているんだろうか。
それは、恭子が当直を担当した夜に起きた。
深夜零時を回ったころ、廊下を急ぎ足で歩くスリッパの音が、恭子のいる介護病棟のナースステーションに近づいてきた。
「やれやれ、今夜も『シンデレラ』のお出ましか…」
傍らにいる看護師が、ため息をつきながらつぶやいた。
足音の主は、御年・八三歳の佐藤シズエさん。夫を亡くした後、長らく一人暮らしをしていたが、次第に認知症の症状が現われた。夜、ひとりで家を出て徘徊するようになり、翌朝、自家栽培の野菜を育てている畑周辺で保護されることが相次いだ。
子どもたちは旭川を離れて暮らしており、在宅介護が難しいため、旭生病院の介護病棟に入院してもらうことになった。
入院後もシズエさんの夜間徘徊は続いた。毎夜零時ごろになると、家に帰ると言って病院を出て行こうとするので、看護師たちから『シンデレラ』と呼ばれるようになったのだ。
アルツハイマー型認知症である以外シズエさんは至って健康体だ。足取りもしっかりしている。ナースステーションの前にさしかかると恭子たちの方を向いて頭を下げた。
「お世話になりました。ちょっと畑のことが気になるんで出かけてきます」
シズエさんは足早に立ち去って行った。
看護師のひとりが急いで後を追おうとしたが、恭子が肩に手をやって押しとどめた。
「今夜は、私が『シンデレラ』の相手をしてくるわ。後のことをお願い」
恭子は、急いでシズエさんの後を追った。
どのスタッフも疲れ切っている。恭子の方針は支持されてはいるものの、少しでも負担を減らしてあげないと果たしてこの先、どこまで着いてきてくれるか。恭子の不安は尽きなかった。
シズエさんは病棟の階段を駆け下り始めていた。恭子は駆け足で追いついて、横並びで着いていく。無理に動きを止めようとはしない。階段を下りているときに身体に触れるとパニックを起こして転倒し、大けがをする恐れがある。
一階まで降り、玄関に向かって廊下を歩き始めたところで恭子はシズエさんに声をかけた。
「きょうは代わりに息子さんが畑に行ってるそうだから、シズエさんにわざわざ来てもらわなくてもいいそうですよ。だからきょうは休んでいいんですよ」
「息子って、テルオとカズオのどっちが言ってるの?」
「テルオさんです。テルオさんが心配しなくていいっておしゃってますから」
あくまでシズエさんを落ち着かせるための出まかせだ。だが、結果としてこの答え方が「事件」を招くことになる。
シズエさんは急に立ち止まって恭子に向き直った。怪訝な表情を浮かべている。
「テルオが? あの子、東京からわざわざ来たっていうの? 私に代わって畑を見るために? 」
「ええ、そうですよ。これからは僕が畑を見るから、お母さんは心配しなくていいって言っておられましたから」
「ふ~ん、テルオがねえ」
シズエさんは首をかしげていたが、動きは止めてくれた。
徘徊は排泄の要求があるときによく起こるとされる。このままトイレに誘導して落ち着かせれば、大人しく病室に戻ってくれるのではないかと恭子は考えた。
「さあ、
恭子の声掛けに従い、シズエさんはトイレに入っていった。
こんなことが毎晩続くようでは当直の看護師の負担は大きくなるばかりだ。かと言って昔のように鎮静剤を注射してベッドに拘束するわけにはいかない。何とか、シズエさんを落ち着かせるより効果的な方法はないものだろうか。
恭子が思案を続けているとシズエさんがトイレから出てきた。この時、シズエさんは、両手を後ろに回していた。恭子からは手元が見えない状態だった。
「さあ、一緒にお部屋に戻りましょうね」
恭子がシズエさんに声をかけて近づいたその時だった。
シズエさんが突然、後ろ手で握っていたものを恭子に投げつけた。水分を含んだその粘着物は恭子の首筋から顔にかけて見事に命中。目に異物が飛び込んだ感覚とともに、ひどい悪臭に襲われた恭子は、そのままうずくまってしまった。
その傍らをシズエさんが、駆け抜けていく。
「嘘を言いでないよ! テルオは、百姓仕事が嫌で東京へ出て行って、決して実家には寄り着かないんだ。そんな男が、代わりに畑を見るなんて殊勝なことを言うもんか! 」
パタパタと走るスリッパの足音が遠ざかっていく。
恭子は、よろめきながら洗面台にたどり着いて顔面についた汚物を洗い流した。目が見えるようになると首筋から顔、髪の毛にかけて大便特有の黄ばみが、こべり着いていた。
恭子は、暫し呆然と鏡に写った自分の姿を見つめていたが、やがて我に返って、当直がいるナースステーションへ駆け上がった。
「佐藤シズエさんが、病院を出て行ったわ! 手分けして探してちょうだい。あと、警察へも連絡を! 」
首筋や髪の毛に大便のかけらをつけたまま走り込んできた恭子に、当直スタッフたちは皆、肝をつぶした。唖然として恭子の姿を眺めている。
気恥ずかしさと怒りでいたたまれなくなった恭子は、叫ぶようにスタッフたちに声をかけた。
「早く言われたとおりにしてちょうだい! 私は、シャワーを浴びて着替えてきますから」
うつむいたまま、恭子は駆け出し、再び同じフロアのトイレにかけこんだ。
鏡台で顔だけでなく全身を見てみると、大便の黄ばみは白衣の上半身に広がっていた。
上着をその場で脱ぎ捨てると、ブラジャーにも黄ばみがしみこんでいた。
このままシャワーを浴びると浴室を汚したり臭いがつくかもしれない。恭子はトイレットペーパーを濡らして髪の毛や首筋についた大便のかけらをぬぐい始めたが、ふいに涙がこぼれてきた。
「何で? 一生懸命尽くしてあげているのに、何でこんな目に遭わされるの? 」
情けなさとみじめさで涙がとめどなくあふれてきた。
ところが、恭子の気性なのだろう。深い悲しみはたちまち、不当な仕打ちを受けたことに対する激しい怒りへと転化した。
「あのババア! 本当にクソババアだ! よりによって、うんこなんかぶつけやがって! ちくしょう! 捕まえたら絞め殺してやろうかしら、本当に、あのクソババアめ! 」
恭子の感情の動きはジェットコースターのようだった。シズエさんを罵る下卑た言葉を口走ったところで、今度は急に笑いがこみあげてきた。
「ハハハハハ、私ったら、何て品のないこと言ってるんだろう クソババアだなんて
フフフフフ、こんな情けない恰好で、何、言ってるのかしら、アハハハハハ…」
傍目から見れば気がふれたようだったかもしれない。だが、恭子は頭がすっきりして冷静な思考が働き始めたことを感じていた。
そんなに、畑の野菜が気になるなら畑に行かせてあげればいい。何なら病院で畑を耕してシズエさんに野菜を育ててもらえばいいんじゃないだろうか。
夫に先立たれ、息子二人も故郷に寄り着かない中、シズエさんにとって畑で野菜や草花に向きあうことが、生きていることを実感できた時間だったのだろう。
「縛る」ということは、ベッドに拘束することだけを言うのではない。どの患者にも元気なころ、大事にしてきたこと、生きがいだったことがあるはずだ。入院によって「大事なこと」ができなくなってしまうこともまた患者を「縛る」ことなのではないか。
ならば、本当の「縛らない介護」とは、患者ひとりひとりの心の中にある欲求を、かつての暮らしの中から見つけ出し、病院でもできる限り可能にすることなのではないか。
トイレや病室での撮影を終えた恭子とNHKのクルーは、病院の敷地の中にある畑にやってきた。レタスやトマト、トウモロコシなどが植えられている。畑仕事を大事な日課にしてきたシズエさんが生きがいとして続けられるようにと、恭子が介護病棟のスタッフとともに新たに設けたものだ。
畑の周囲に生えた下草を丁寧にむしっている野良着姿の老婆がいた。恭子に大便を投げつけた佐藤シズエさんだ。
「こんにちは、農場長。畑の具合はどうですか?」
恭子が声をかけると、シズエさんが顔を上げた。姐さんかぶりの下で日焼けした健康そうな顔をほころばせている。
「ここのところいい天気で、葉物野菜の出来が良くなってきているわね。下草も生えてくるから手入れが大変なんだけど、やりがいがあるわ」
恭子も最近シズエさんと接していると、病院ではなく、郊外の畑で農家のおばあさんと話しているのではないかと錯覚するほどだった。畑仕事を始めたことで、シズエさんが夜間に徘徊して病院を抜け出すことはなくなった。看護師たちも最近では、「シンデレラ」ではなく、「農場長」と呼び始めている。
畑には、シズエさんだけでなく、入院前は農家だったという他の患者も野菜の摘み取りにやってくるようになった。理学療法士がリハビリとして水やりをさせる試みも始まっていて、畑は病院全体の介護の質を上げる起点になり始めていた。
ベッドに患者を拘束しないところから、生活の質の向上へと進化を遂げつつある「縛らない介護」。
その手ごたえを力強く語る恭子のインタビューに、NHKのスタッフたちはいたく感心した様子で聞き入っていた。
そこへ、ナースステーションに入った電話を受けた看護師が慌てて走り込んできた。
「総看護師長、救急から連絡が入って、娘さんが救急車で運び込まれたそうです。今、
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