千里ちゃんの曜変天目

蓮葉泉

千里ちゃんの曜変天目


 いつも、祖父の家は掃除が行き届かないままだった。床には本が積まれているし、畳はざらざらだ。でも、床の間だけは、季節外れの掛け軸が掛けっぱなしになっていたり、生け花が枯れていたことはない。


 千里は畳の上に座って、差し向かいで鑑定人よろしく茶碗を検分している祖父を眺めていた。

 茶碗を見るときには正座をした膝の上に肘を置き、両手で包むように茶碗を持つ。このとき両手の小指を畳から浮かせないようにする。茶碗を裏返して高台を見るときも同様だ。万一手から茶碗が転げ落ちたとしても、高く持ち上げていなければ茶碗が割れたり欠けたりする心配はない。

 祖父は近所で茶道を習っていたことがあるらしく、まだ9歳の千里に、茶の飲みかたや茶碗の扱いを遊び半分に教えることがあった。祖父が教えた作法が正しいのかどうかはわからないが、祖父は茶道以外に、詩吟やら書道にも首を突っ込んでいた。絵に描いたような悠々自適の定年退職後の趣味生活である。

 そんな趣味人の祖父の息子は、祖父に輪をかけて浮世離れした人間だった。自分が持ち合わせない生活感と堅実さを求めて県庁勤めの公務員と結婚し、一人娘の千里をもうけたまではよかったが、どうも妻子の存在を忘れがちで、生活は妻におんぶにだっこ、ふらっと行方不明になっては本人も経緯を把握していない借金もしくは臨時収入を背負ってくる、という具合だったので、このたびついにめでたく離婚と相成った。


 これまで、千里は仕事中心の母親と頼りない父親をあてにするのはやめて、祖父を頼ることにしていた。

 家に誰もいなければ祖父の家に行った。一番先にすることは仏壇に手を合わせること。仏間の床の間に掛けてある軸や、違い棚に飾られた茶碗は祖父のコレクションで、週替わりで奥の納戸から出してくるのだった。夕方には、山と積まれた詩吟の教本や書道の手本の間のちゃぶ台で、祖父と一緒に晩ごはんを食べた。夜には熱いお風呂に入れてもらい、風呂あがりには冷たい麦茶を出してもらったりした。

 千里にとって祖父の家での穏やかで楽しい時間の記憶は茶碗や掛け軸やもろもろの教本たちと結びついていた。

 結果、千里は年齢にしてはずいぶん渋い趣味の女の子に育った。

 それで、祖父は10月の千里の誕生日プレゼントにあるものを選んだ。


 ――国宝・曜変天目。


 南宋時代に中国福建省は建窯で作られた、唐物の天目茶碗の最高峰。釉薬の深い黒の中に、銀河を思わせる無数の青みを帯びた斑紋が輝く。元来徳川家の所蔵だったが、徳川家光から春日局に下賜されて淀藩主稲葉家に伝わった。明治維新を経て稲葉家が手放した後、最終的に実業家岩崎小弥太が購入し、現在は美術館の所蔵だ。

 

 祖父は茶碗をのぞき込んだり、外側をためつすがめつしていたが、顔を挙げて千里に笑いかけた。

「いい仕事してますねえ。本物のぬいぐるみです」

「おじいちゃん、そのセリフはちょっと……」


 千里へのプレゼントは、美術館が販売した曜変天目のぬいぐるみ(5,800円)だった。

 最近の美術館や博物館の物販には目を見張るものがある。

 美術品をモチーフにしたTシャツや菓子箱のみならず、ポンペイで出土した炭化したパンのクッションや、遮光器土偶のぬいぐるみもあるらしい。

 曜変天目のぬいぐるみは、原寸大で、模様のプリントにもこだわり、一点一点手作りで曜変天目を再現している。ネットで情報が広まってあっという間に大人気になった。祖父は美術館の売店で予約をして、先日やっと受け取ることができた。


 祖父が千里の正面に茶碗のぬいぐるみを戻したので、千里は茶碗を拝見する作法で、ぬいぐるみを拝見した。

「ふふ、わたし、国宝の茶碗を持ってる。買ってくれてありがとう」

 千里は満足げに笑った。が、すぐに口ごもった。

「おじいちゃん、あのね。このぬいぐるみなんだけど、この家に置いたらだめかな」

「どうして。なにか嫌なのかい」

「嫌なわけない。とっても好きだけど、……他のひとにあまり理解されなかったら、困るから」

 千里は母が祖父をあまりよく思っていないことに気がついていた。地に足のつかない趣味人ぶりが、いいかげんだった父を思い出させるのだろう。千里は祖父の家がどれだけ楽しいか、素敵なものがたくさんあるか、母に話したことがない。消耗しきっている母に、さらに精神的な負担を負わせたいわけではなかったし、なにより自分の大切なものを不快な目で見られるのが怖かった。

 もうすぐ千里は母と官舎に引っ越す。母の職場の人たちとそのご家族、つまりは父とは違ってきちんとした人たちに囲まれて暮らすことになるのだ。失敗はできない。でも、いったいどう振舞えば、浮世離れした趣味人の暮らしに心を惹かれる子どもが、きちんとした人間のふりをできるのだろうか?


 母との官舎暮らしを想像すると、千里はたまらない気持ちになる。

 引っ越したら、官舎は今の家より祖父の家まで距離があるので、あまり来られなくなるに違いない。

「お母さんになんやかんや思われるの、嫌なの」

「千里にそんな風に思われたら、規子さんだってさみしいだろう。持っていきなさい」

「でも、」

 千里は声を詰まらせた。

 大事なぬいぐるみを持ち帰って母に自慢して、一緒に喜んでもらえたらどんなに嬉しいだろう。でも、それは勝率が極端に低い賭けにしか思えなかった。

「この先おじいちゃんに会いに来れるのかわからないのに、大事なプレゼントなのに、そんなことできないよ」

 千里はすっくと立ち上がった。喉元が熱くなって、泣きわめきたいのが我慢できなくて、この場を離れたかったのだ。

 これからも祖父に会いたい。祖父の家で、茶碗や掛け軸に囲まれたい。本の山の間のちゃぶ台で、祖父と一緒にごはんを食べたい。

 縁側の端に丸まってしくしく泣いていると、ぬいぐるみを持って祖父が追いかけてきた。

「忘れ物だよ」

 祖父はぬいぐるみを渡そうとした。千里は涙を乱暴に手で拭って顔を上げたが、ぬいぐるみは受け取らなかった。

「いや。涙で手が濡れているもん。……本物の茶碗だったら拭けばいいかもしれないけど、これはぬいぐるみだから、しみこんじゃう。涙がしみになっちゃうよ」

 祖父はそっと千里を抱きしめた。落ち着くまで「よしよし」と撫でてくれた。

「千里、このぬいぐるみは、おじいちゃんが責任をもってうちに置いておこう。千里はいつだってこの家に来たらいいんだよ。いつ来てもいいんだから、千里のぬいぐるみがあるのは当然だ」

 千里は祖父の腕の中で小さくうなづいて、また泣き始めた。




 二週間後、千里は母と官舎へ引っ越していった。

 祖父の家では、床の間の違い棚に曜変天目のぬいぐるみが飾られるようになった。






 

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