動乱の前夜へ①

 真っ青な空を舞う鷲の数が次第に増えていた。

鷲たちの眼下には、オホーツク海に面して真っ白に結氷した風蓮湖ふうれんこが広がっている。氷の厚さは三〇センチから五〇センチに達し、漁師たちの移動手段はもっぱらスノーモービルになる。

 その一角に二〇人ほどが屯し、人の輪の中ではチェーンソーを使って氷に穴を開ける作業が行われていた。四〇センチ×二メートルほどの穴が開き、湖水が姿を現わすと古河恵作は仲間の漁師に声をかけ、氷の下に仕掛けた網の引き上げにとりかかった。

 十分ほどすると網の底が水面に現われ、銀色の腹を躍らせる大小の魚たちの姿が目に飛び込んできた。漁師を取り囲んだ観光客たちは一斉に歓声をあげながら、スマホを向けたり、カメラのシャッターを切ったりしていた。

 風蓮湖で明治の中ごろから続く冬の風物詩・氷下待ち網漁こおりしたまちあみりょう。一月から三月にかけて完全結氷する湖の氷の下に定置網を仕掛けて、回遊しているワカサギや氷下魚こまいといった魚を一網打尽にする。

 網には、ワカサギなど出荷する魚のほかにカズナギという小さな蛇のような雑魚も交じっている。引き上げた後は、出荷する魚と雑魚をより分けるのが漁師の仕事だ。恵作は、網から外されて氷の上を黒々と不気味にはい回るカズナギをタモで掬い取ると、凍った湖面に向かって放り投げた。

 すると、上空を旋回していた天然記念物の鷲たち——オオワシ、オジロワシなどが次々と湖面に降り立ち、カズナギに食らいつき始めた。羽を広げると二メートルをこえる鷲たちが

 舞い降りる際に見せる華麗な滑空を狙って観光客たちが再びスマホやカメラを向ける。網の引き上げから巨大な鷲のバードウオッチングが一連の観光ツアーになっているのだ。

 網の引上げを行うのは、夜明け前とお昼すぎの二回。恵作の所属する漁協では、観光会社と組んで数年前からお昼時の漁を見せるツアーを始めていた。気候変動が影響しているのか、氷下待ち網漁の漁獲量は年々減少している。そうした中で、観光ツアーは漁師たちにとって冬場のいい収入源になっていた。

 客商売は苦手だからと、恵作はこれまでツアーへの協力を断ってきたが今シーズンからは積極的に加わるようになった。

(しっかり稼がなくてはな……)

 かしましい中高年女性たちの一団を相手に、恵作は精一杯の愛想笑いを浮かべながら記念写真の撮影役もこなしていた。

 この一昨日、北海道内の公立高校入試の合格発表があった。恵作の孫娘、美咲は四月から根室の高校へ進学することになった。


 去年八月、本田とユリアンのロシアへの脱出に同行して行方不明になった恵作。その後、美咲は札幌に住む母方の祖父母に引き取られることになったが、程なく心身の不調を訴えて不登校になってしまった。中学校の学区の中に両親が悲惨な最期をとげた家があり、学校には事件の経緯を知る生徒たちがいた。

『——あの子の父親は、ロシアに協力したから罰が当たって死んだんだ——』

 そんな陰口をささやいたり、SNSで中傷する者が現われた。靴を隠されたり、体育の授業中に着替えを汚れたりと、陰湿ないじめも行われるようになった。美咲は精神的に追い詰められ、行き場を失ってしまったのである。

 そこへ十月になり、恵作が海難事故に遭ったためにサハリンで収容されていることが分かり、やがて送還されることが決まったという知らせが入った。

『——もう札幌にはいたくない。根室のおじいちゃんと一緒に暮らしたい!』

 札幌にいると両親が、暴漢に刺されて亡くなった時の恐怖の記憶がよみがえってくるとも美咲は訴えた。十月下旬、恵作が海上保安庁の留置施設を出て根室に戻ったのと合わせて

 美咲は再び、恵作と一緒に暮すことになった。

「爺ちゃん、お帰り」

「おう、もう帰っとったのか」

 恵作が家に戻ると、先に美咲が帰ってきていた。いつもは美術部の活動があって夕方六時近くになる。年が明けてからは受験勉強の傍ら、卒業制作になる作品を仕上げるのに大わらわだと言っていた。

「いつもより早いな」

「うん……きょうの漁はどうだったの? 氷下魚(こまい)やワカサギは? 」

「いつも通りだ。そろそろシーズンが終わりのせいか、駆け込みで見物にくる観光客は増えとるがな」

「そう……」

 恵作と恵雄から受け継いだ黒目がちな目に憂いの色が浮かんでいた。何かあったようだ。でも恵作は問いただしたりはしない。黙って微笑みながら美咲の顔を見ているだけだ。恵作の笑顔を見ると安堵感を覚えるのか、美咲は胸の内に抱えているものを吐き出したくなるらしい。

「札幌のおじいちゃんから電話があったの。札幌に戻ってこないかって」

「そうか……」

「私、いやだって言ったよ。お父さんのことで散々いじめられたから。ロシアに国を売った裏切り者って言われて。でも、高校に行けば……お前の入試の成績だったら札幌の進学校にも編入できる。進学校にはいじめるような悪い生徒はいないし、いい大学へ行くんだったらやっぱり札幌の高校がいいって」

「俺もそう思うがね」

「でも、やっぱり札幌には行きたくない。つらいことばかり思い出してしまうから。それに、札幌のおじいちゃんが、恵作爺ちゃんのことをあんなふうに言うのが許せなくて」

「わしがどうだというのかね」

 美咲は眉間にしわを寄せてしばらく押し黙った。続いて小さくため息をつき、いったん気持ちを落ち着かせてから再び口を開いた。

「恵作爺ちゃんはロシアのスパイで、警察に見張られているんだって。そんな人とお前が一緒に暮らしていたら、自分たちも疑われてしまうって言うのよ。何よ、それ! 結局、自分の都合しか考えてないってことなんじゃない! 私、腹が立ってきて途中で電話を切っちゃった」

「ロシアのスパイか……そんなふうに見られるのも仕方ないのかな」

「恵作爺ちゃんも、お父さんも日本という国を裏切ったわけじゃないでしょう。生まれ故郷の北方四島を取り戻したい。それが日本のためになることだと信じてたんでしょう」

「だがな。わしらのやろうとしたことは政府が考えていたこととは違っていた。歯舞・色丹の二島返還で領土問題を結着させることとはね。政府の方針に逆らった以上、恵雄もわしも国にとっては裏切り者になってしまうのさ」

「それを言うなら、国がお父さんやお爺ちゃんたちを裏切ったんじゃないの? あんなの総理大臣が、自分の功績にしたいだけじゃないの! 」

 恵作は、怒りを露わにする美咲の姿を見て目を瞠る思いがした。やっと十五になったばかりの娘が、いつの間にか恵作や恵雄の思いを胸に刻むようになっている。なんと成長してくれたことか。

 だが、国家同士が睨み合う領土問題を背負って生きていくのはあまりに苛酷なことだ。場合によっては命すら危うくなる。恵作自身も命の危険にさらされたし、恵雄は命まで奪われた。孫娘を同じ目に合すようなことはしたくない。

「美咲、わしに関わるとお前もスパイの家の者だと白い目で見られることになる。恵雄や俺のことに縛られずに、お前はもっと自由に生きていいんだ。俺や恵雄と同じような思いをさせることになったら、わしはあの世に行っても恵雄に顔向けができん」

 恵作は、美咲から目を逸らして室内に目を向けた。

日没が近づいている。薄暗くなった室内には朱色を増した陽射しが差し込み、家具や調度品を照らしていた。

 暴漢に襲われた恵雄と妻は、室内を血潮で染めて亡くなっていったという。実際に垣間見たわけでない。が、恵作は、血を流しながら痛苦にもがく恵雄たち夫婦の幻影が朱色に染まる室内に重なって見えて不吉な思いに囚われた。

「一度、札幌に行ったときに思ったことがあるわ。恵作じいちゃんがいなくなって、私、捨てられたと思ったから。やっぱり北方領土なんて関わらない方がいいのかなって。でも、何か違うと思ったんだよね、このまま我慢して生きていくことは」

 恵作が振り向くと夕日に照らされた美咲の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。その笑顔はあどけない少女のものではなかった。何かを悟ったような心の成熟と、癒されるような優しさと色香があった。おかっぱ頭の小娘に、つい男としての衝動を感じそうになり恵作は戸惑いを覚えた。

「このまま我慢して高校まで行ったらいじめもなくなるかもしれない。でも、何も悪いことしてないのになぜ、こそこそ生きていかなきゃいないの? お父さんや恵作爺ちゃんと関わることを避けなきゃいけないの? そんなのおかしい。やっぱり逃げるんじゃなくて、向き合おうと思ったの。誰に無理強いされたわけでもない。私、自分でそう決めたの」

 気負いのない静かな口ぶりだった。それだけに美咲の決意が固いことを恵作は感じた。

「それと、きょう早く帰って来たのは爺ちゃんに見せたいものがあるからなんだけど。ちょっと待っててね」

 美咲は、一旦居間を離れると、自室から紫色の風呂敷包み一つを持ってきた。A2サイズの大きさの額縁であることが分かる。

「やっと卒業制作の絵が完成したの。真っ先に爺ちゃんに見てもらいたいと思ってたから」

 解いた風呂敷の中から現れたのは半年前、恵作がスケッチブックで目にしていたデッサンが、色彩を持つ水彩画作品となったものだった。

 荷台に乗せられてもっこ網に吊るされた母親と三人の子どもたちの姿。恵作と母親、姉と妹が、ソ連軍に占領された国後島から収容所のある樺太へ船に乗せられて移送される時の様子を描いたものだ。

 昭和二十二年十一月。すでに北辺の地では季節は冬にさしかかり、曇天で小雪交じりの強風が吹きつけていた。もっこ網が大きく揺れるのが恐ろしく、風の冷たさで頬が痛くなるほどだったことを恵作は鮮明に覚えている。

 水彩画の中の男の子——恵作は、吹きすさぶ風の中で目に涙を浮かべながら口をへの字にゆがめて泣くのを堪えていた。空は暗灰色で、身にまとったぼろ布のような服はくすんだカーキ色。冷たい風で痛みを感じた頬は赤らみ、白黒のデッサンでは分からなかった臨場感が生れている。美咲が、恵作の言葉にいかに熱心に耳を傾け、当時の人々の感情や感覚を再現しようとしたかが伝わってきた。

「この絵を描きながら、爺ちゃんや同じような体験をした人たちがどんな思いだったのか考えたわ。ふるさとも、家も、友だちも、家族も、みんな奪われた人たちがどんなに悲しかったか。この絵を描くにつれて、国の勝手な都合でひどい目にあった人たちが大勢いたことを忘れちゃいけないと思うようになったの。

 今、日本とロシアの間で北方領土の交渉が続いているけど、内容が納得できるものなのか、見守っていかなきゃいけない。もし、間違っていると思ったら、自分に何ができるのか。これからもっと学んで、考えていきたいわ。それができるのは、この根室の街しかないと思っているの」

 恵作は涙が止まらなくなっていた。美咲が歩もうとしているのは容易な道ではない。政治的な駆け引きがあり、綺麗ごとでは済まない生死をかけた攻防すらある茨の道だ。それが北方領土に関わるということだ。

 だが、美咲は陰謀に満ちた争いの中で家族を失う悲しみを味わっている。すでに幼くして地獄を見たのだ。かつて故郷を追われ、家族を失った恵作自身のように。地獄を見る思いを味わってきた美咲の覚悟を、同じ痛みを知る恵作がどうして覆すことができようか。

 恵作は、キャンバスに這い寄って水彩画に描かれた母や、姉、妹を見つめた。今はもう誰もこの世にはいない。いずれ自分もいなくなる。それでもこの絵が残ることで、自分たちの生きた証は残る。この絵が残り続ける限り悲劇の歴史があったことを後世の人々に伝え続けていくはずだ。

 キャンバスを両手でつかんだ恵作は、家族の姿を間近に見つめながら、何度もありがとう、ありがとう、とつぶやき続けていた。

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