虚しき深謀①

 ウラジオストク南端のルースキー島、極東連邦大学キャンパスに隣接した地下要塞最奥部の一室。壮年の東洋人の男と初老の白人の男が向き合い続けていた。

 険悪で張り詰めた空気を和らげようとしたのか、耐えかねたのか。初老の男、ドミトリー・ミシチェンスキーが口を開いた。

「ところで、きみは北方領土にルーツを持つ家の生まれらしいな? 」

「母方の祖母が、歯舞はぼまい群島の志発島しぼつとう出身です」

「あの男も、父親が歯舞の多楽島たらくとうの生まれだと言っていた。だから北方四島返還は自分の生涯をかけた悲願だと」

「黒崎昭造のことで、何か言いたいことがあるのですか? 」

「ここまで私の話を聞いてきて、勘のいいきみなら察しがつくのではないか? 日本の江藤総理がベゾブラゾフとの間で、二島返還で決着を目論み始めたのに、なぜあの男が四島返還にこだわり続けたのか」

「つまり、黒崎もクーデター計画を承知していた。『ベゾ』政権が崩壊して、『アニー』政権になれば、四島返還の目が出てくると分かっていたから、ということですね」

「そういうことだ。ところが、ロシアに潜伏しているアメリカのエージェントに、〝ポセイドン〟の情報が漏れてしまった。ロシア側の主謀者は分からないが、クーデター派と黒崎昭造がつながっているということをCIAはつかんだのだ。

アメリカの現政権はベゾ政権とは友好関係を維持しようとしている。だからクーデター派とつながっている黒崎は排除すべき政治家になったのだ。その最初の一手が、ルスモスコイと黒崎の大口スポンサーである企業家……古河恵雄ふるかわけいゆうとの関係を日本のメディアが騒ぎ立てたスキャンダルだった」

 北方領土返還に最も強硬に反対を表明していたルスモスコイ会長のミシチェンスキー。

 ルスモスコイとの取り引きで大きな収益を上げていた古河恵雄を、国益に背いて私腹を肥やす売国奴として日本のメディアが叩いたのがルスモスコイ・スキャンダルだった。このスキャンダルは、CIAが日本のメディアに情報をリークしたことから火がついた。

「そもそもあなたが、四島は一つも返すなと強硬に反対していたから恵雄はCIAに狙われてあの騒ぎになったんでしょう。なぜなんだ? あなたの本意は四島返還も容認することだったはずなのに」

「ベゾブラゾフに睨まれないためだ。ベゾブラゾフもCIAからの通報でクーデター計画があることは掴んでいたはずだ。疑惑の目を向けられないためには、奴の本意に沿うことを声高に言い続けるしかなかった」

「だが、恵雄が日本の司直の手に落ちて、あなたと黒崎との関係が明らかになれば、クーデター派の首魁があなたであることが明らかになる。あなたはおしまいだ」

「同時にクロサキにとってもケイユウは邪魔な存在になっていた。ケイユウの口から私とクロサキが手を握っていることが明らかになれば、売国奴として叩かれているケイユウへの批判が、そっくりクロサキに向いてくる。

 北方領土返還が悲願と言いながら、その実、最も強硬に反対している新興財閥オリガルヒと結びついている。そんなことが公になればクロサキの政治生命は危うくなる」

『——古河(恵雄)を葬り去ることで一体誰が得をするのか、もう一度考え直されたほうがいいですよ——』

 ふいに本田は、CIAのイーグルが言い残したことを思い起こしていた。あれは、ルスモスコイ・スキャンダルを仕掛けたものの、何者かが先手を打って恵雄を亡き者にしたことを暗に仄めかしたものだったのか。そしてイーグルを出し抜いた者たちとは—— 目の前にいるミシチェンスキーであり、黒崎昭造ということになる。

 本田は、己の推理におぞましさを感じながら問い掛けを続けた。

「あなたと黒崎にとって恵雄は生きていてもらっては困る存在になっていたということですね。じゃあ、恵雄を襲った連中は、あなたと黒崎が差し向けたということですか? 」

 警察は、恵雄とその妻を殺害した犯人たちには、犯罪組織や外国勢力などとの背後関係はないという結論に達していた。だが、極東ロシア随一の財閥の総帥で、日本に根を張るロシアマフィアにも影響力があるミシチェンスキーが関わってくると話は別だ。

 本田の想像に違わない答えが、ミシチェンスキーからは返ってきた。

「実行犯の二人は、日本の暴力団を破門になった元ヤクザだ。私の傘下にあるロシアマフィアに、依頼を受けなければ親族ともども皆殺しにすると脅されていた連中だ。奴らを雇っていた運送会社はルスモスコイとの取り引きがなければとうに潰れている会社でね。元ヤクザは私に命じられれば何でもやる。運送会社の社長は私からの頼みは断れないし、警察にも決して口を割りはしない」

「ちょっと待て! 」

 感情を抑えられなくなった本田は、両手でテーブルを叩いて再び大声をあげていた。

「自分の言っていることが分っているのか? 恵雄はあなたと黒崎が描いた夢を心底信じてあなたたちを支えてきた。あいつがマスコミの集中攻撃を受けながら申し開きをしなかったのは、黒崎を守るためだった。なのに、自分たちの身が危うくなったからと言って殺してしまうなんて……」

「私にも躊躇はあった。ケイユウは、私にとってもケイサクから預かった大事な青年だ。ユリアンと同じように息子も同然と思ってきた。

 だが、クロサキにこう言われて私は決断した。我々が倒れてしまっては、ウクライナも北方領土もロシアに踏みにじられたままだ。お互いの故郷を取り戻すために今、死ぬわけにはいかん。ベゾブラゾフを倒して必ず故郷を取り戻す——その大義のためにケイユウには犠牲になってもらうしかない。余りに非情ではあるがな」

 ミシチェンスキーは、本田に横顔を向けて右手を顎の下に置き、暫し押し黙ったが、再び口を開いた。

「しかし、ケイユウを犠牲にした工作を経ても、クロサキへの追及は止まらなかった。

CIAは、我々クーデター派と日本が手を握ることがないよう、特捜検察と江藤総理を抱き込んで、国策捜査を仕掛けてクロサキの失脚を図ろうとしたのだ。

 クロサキは、我々のクーデターを支持してくれる数少ない政治家だ。新政権が出来た後、日本の支持は何としても必要だ。だから私は、CIAと日本の捜査当局が仕掛けた陰謀を暴くことで、黒崎の復権を図ることにしたのだ」

「それで、黒崎は江藤から外相辞任を迫られた時も、素直に従ったわけだ。あとは、あなたの意を受けたユリアンと恵作さんたちの工作がうまくいくかを外野で見ているだけでいい。

そして、ユリアンと恵作さんは見事に作戦を成功させた。日米が共謀した国策捜査の証拠と、それを語れる生き証人。つまり私を、あなたの元に無事に送り届けたんですからね。

この後、私が記者会見で告発を行えば、江藤は大きな打撃を受ける。そうすれば、来年の保守党総裁選挙の勝利は、黒崎に転がり込むというわけだ! 」

 本田が推理を語る口調は、次第に相手を糾弾するように鋭さを増していた。

だが、対照的にミシチェンスキーは落ち着いた様子で厳かな口調で話しを始めた。

「ガスパジーン・ホンダ。確かに私のやったことは汚くて血生臭いことばかりだ。だがな、これはウクライナの、いや言わせてもらえば世界を救う道だと私は信じているんだ。

アナトリー・ビルデルリングを首班とする新政権は、クリミアとウクライナ東部から軍を撤退させて、EU、日本とはいずれも平和条約を締結する。日本との条約締結の暁には、北方四島は全面返還する。そうすれば、この忌まわしい新冷戦も終わる。前の世紀の終わりにあった、あの未来に希望を抱ける世界に戻ることができるのだ。

今、ベゾブラゾフを倒さなければ、あの独裁者は必ずウクライナ全土の占領に乗り出すだろう。そうすれば、アメリカも黙ってはいられまい。中国も、ロシアの動きを見て台湾への武力侵攻に乗り出すかしれない。事態は世界を巻き込んだ大戦になるかもしれないのだ。

 ウクライナと北方領土のためだけではない。世界を救うために私は、何としてもクーデターを……ポセイドン計画を成功させなければならないと考えている」

 いつしかミシチェンスキーは、顔を幾分紅潮させて両の目に力をみなぎらせて、本田をにらみ返していた。

(怪物だな。この男……)

 確かにミシチェンスキーの言う「大義」には、世界を危機から救う一つの理想が示されているようにも思われた。だが、理想に酔った権力者は、その実現を妨げるものを容赦なく抹殺する。それは、ミシチェンスキーが倒そうとしているベゾブラゾフをはじめとした強権国家の独裁者たちと何も変わりはしない。この男もそうした怪物のひとりなのだ。

 協力を拒めば殺されるだけだろう。本田の告発などなくてもミシチェンスキーはためらうことなくクーデターへと突き進んでいくはずだ。

 ここで死ぬわけにはいかない。俺には帰りを待つ者がいる。何としても生きて帰らなくてはならない。ならばとる道は一つ。CIAと江藤総理が共謀した国策捜査の告発者となるしかない。

(とは言え、このままなす術もなく言いなりになるだけでいいのか……)

 本田は記者としての反骨心から、何か一矢報いる方策を探すため必死で知恵を巡らせた。

——クーデター後に成立する新政権は、日本と平和条約を締結して北方四島も返還……本当だろうか? そう、何か証になるものはないのか?——

「アニー・ビルデルリングの新政権は、日本と平和条約を締結後は北方四島を返還すると言っておられたが、まさか口約束だけというわけではないでしょう。黒崎が承知しているということは、何か証になる文書はないのですか? 」

「うむ。私と黒崎の署名が入った北方四島の領有について定めた文書がある」

「黒崎も署名しているんですか? 一体、いつの間に? 」

「去年の夏、黒崎が首脳会談の予備交渉でモスクワに行ったとき、私の部下が日本大使館に出向いて黒崎のサインをもらってきた。彼の元にも私の署名入りのものがある。署名文書は双方で保管することにしてある」

 本田は、去年夏、黒崎がモスクワを訪れた際のことを思い起こしていた。日本大使館で開かれたレセプションの後、黒崎に呼び出されて特別室のドアの前に立った。すると、入れ替わりにルスモスコイの社員と思われる二人連れの男たちが出てきた。

 あの時、すでに黒崎はクーデター計画を承知していたということか。いや、正式サインがあの時とすると、ずいぶん前から計画に関わっていたのだろう。

 ミシチェンスキーと黒崎は、北方四島を全面返還するという密約文書をそれぞれが持っているという。だが、百聞は一見に如かずだ。

「それは本当のことですか? ならば、あなたの手元にある文書を見せていただきたい」

「文書を見せるのはやぶさかではないが、代わりにきみは何をしてくれるのかね? 」

「あなたたちの望むとおり、黒崎への国策捜査を告発させていただきましょう。ただし、そうするからには、あなたたちが四島を日本に返還すると約束したことを確かめておきたいのです。自分のしたことは四島返還を願う私の祖母をはじめ、故郷の先達たちの思いに沿うものだと納得したい。そうでなければ、古河恵雄も、アリアンナも、そして河田美幸も、その死は全く報われないものになってしまう……」

 死んだ者たちの面影が頭を過ると本田は言葉に詰まり、涙がこみあげてきた。俯くと肩が震えてきた。

(なぜ俺は泣いているのだ? 恵雄たちが哀れだからか? それともあまりに自分が情けないからか? )

 手を口にやり、嗚咽の声が漏れるのを押さえながら、本田は自問自答していた。

「なるほど。協力するにしてもそれだけの価値があることなのか、確かめておきたいということか……。うむ」

 ミシチェンスキーは電話を手に取ると早口で指示を出した。どうやら密約文書を見せる気になったようだ。

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