解明への脱出③

 中天に上った太陽からの陽射しで金角湾の水面は、穏やかにきらめいていた。見上げるとウラジオストクの新しいランドマークとなった湾をまたぐ連絡橋が見える。

潜水艦「パル―トゥス」から降り立った本田は、埠頭で待ち受けていた黒いスーツに身を包んだ三人の男たちにユリアンと恵作から一人、引き離された。男たちが乗ってきた黒のアウディのバンパーには、白地にブルーの三叉槍——ルスモスコイの社旗が掲げられていた。社長であるミシチェンスキーが本田を迎えるために寄こした車のようだった。

 一方のユリアンと恵作は、武装した一個分隊の海軍陸戦隊の兵士たちに引き渡された。多勢に無勢だ。いくら格闘術に自信があるとは言え、ユリアンも一個分隊・一〇数名の武装兵と、まともにやりあえるとは思わなかったようだ。ユリアンは恵作と一緒に、憮然とした表情で、武装兵に促されながら歩き始めた。

「彼らの身の安全は保障してもらえるんだろうな? 」

 本田は、黒服の男たちの囲みを離れて、潜水艦から降りてきた艦長を捕まえて問いかけた。

「もちろんだ。二人は我々の計画の協力者だからな。最大限丁重に扱うようミシチェンスキー閣下から指示されている。ただ、情報漏洩を防ぐためにコンドラチェンコ少佐には、隔離措置をとらせてもらう。もう一人のご老人については、きみの協力次第というところだな」

「俺の協力だと? 」

「ミシチェンスキー閣下は、今夜、ウラジオストク在住の各国メディアに対して記者会見を開くことにしている。ルスモスコイ社が、日本の企業や政治家による汚職事件に関わっているかのようなスタンスで、日本の司直が捜査を進め、報道が相次いでいることへの抗議ということでだ。

 その席で、一連の名誉棄損の背景には、日ロの友好関係に尽力してきた政治家の黒崎昭造氏を贈収賄事件で失脚させるために仕組まれた「国策捜査」があったということを取材に当たったきみに事実とともに発表してもらいたい、というのが閣下のお考えだ」

「ルスモスコイへの名誉棄損よりも、ねらいはむしろ、江藤総理とCIAが結託した国策捜査を俺に告発させることだな? 」

「日本とアメリカには激震が走るだろう。これだけの事実を告発した人間にCIAも、自衛隊の秘密部隊も簡単には手を出せなくなる。そのことがひいてはあのご老人の身の安全につながるということだ。

 我々としては、記者会見後に、国境警備部隊庁を通じて、〝不慮の事故〟に遭ったところを保護したとして、きみとあのご老人を日本側に引き渡すつもりだ」

「なるほど。ユリアンと恵作さんの身の安全については理解した。国策捜査を告発する場を、各国メディアを前に用意してもらえるのは魅力的な提案だ。だがな、協力するからには、あんたたちの計画についてこちらとしても承知しておきたいんだが」

「もちろんだ。その説明はミシチェンスキー閣下自らがきみにするつもりだ。あの無愛想な連中は、そのお出迎えに来たのだよ」

 艦長は、本田の顔を見ながら黒服の男たちの方を見て顎を振り、笑みを浮かべた。

「カズマ! 聞こえるか? 」

 海軍陸戦隊の兵士たちに囲まれて歩いていたユリアンが急に立ち止まると振り向いて、本田に向かって大声を張りあげた。ユリアンの言葉は日本語だった。

「わたしを欺いた親父がこれから何をしようとしているのか。もはや知ったことではない! もう私はあなたの所に戻るつもりはない! 私は私のやりたいことをやって生きていく。親父に会ったらそう伝えてくれ! それとなぁ——」

 何を言っているのか分からずに戸惑う兵士たちをかき分けて前に出ようとするユリアン。兵士も慌てて押し戻そうともみ合いになる。兵士が何度も頭を押さえつけようとするが、そのたび手を振りのけてユリアンは顔を覗かせた。その顔には、子どものような邪気の無い笑みが浮かんでいた。

「私もアリアンナには、惚れていたんだ! 本当に、心底なぁ! 妹のように思ってきたなんて大ウソだ! アリアンナがお前に惚れちまったと分かったときは悔しくて仕方なかったぞ! だからなぁ惚れた女のためにお願いだ! 彼女の死をこれ以上、心の重荷には感じないでくれ! 彼女だってお前が苦しみ続けることを望んではいないだろうからなぁ! 頼んだぜぇ! 」

 ユリアンは笑顔を浮かべたまま兵士たちともみ合い続けていたが、やがて取り押さえられると、そのまま引っ立てられていった。

「あいつ、今頃になってあんなことを言いだしやがって、どういう気だ……」

 そうつぶやきながら、本田の顔にも笑みが浮かんでいた。

——俺も自由に生きていく。だから、お前も悲しみや苦しみから解き放たれて生きていけよ—— ユリアンは、奇矯な行動でエールを送ってくれたように本田には思えた。

「自分を騙した男の言葉が嬉しくなるか……俺は相変わらず救いがたいお人好しだな」

 自嘲して独り言ちた言葉とは裏腹に、本田の心のうちは妙に温かだった。本田の視線の先には、波の穏やかな金角湾が広がり、陽光を浴びてきらめく水面が眩しくきらめいていた。


 ウラジオストクはロシア沿海州の南部、日本海に突き出たムラヴィヨフ・アムールスキー半島の先端に位置しており、その南端に浮かんでいるのがルースキー島だ。

旧ソ連時代には、太平洋艦隊の基地として民間人が許可なく立ち入れない閉鎖地域となっていた。ベゾブラゾフ政権時代に入って、リゾート開発や大学、研究機関の誘致が活発に行われ、二〇一二年には連絡橋が開通し、同時にAPEC会議の会場ともなって、島の様相は一変した。

 だが、ルースキー島の至るところには旧ソ連時代の要塞が残され、地下には網の目のように坑道が張り巡らされていた。本田たちを乗せたアウディは、極東連邦大学の敷地に入るとキャンパスの外れにある森の中へと進んだ。

 舗装されていない林道を五分ほど走ると、地肌がむき出しになったテニスコートほどの広さの空き地に出た。その先には、草木に覆われた高さ五メートル横幅一〇メートルほどの鉄製の巨大な扉が見えた。本田も話で聞いたことはあったが、上陸した敵を迎撃する戦車を格納する地下要塞の入り口のようだった。

 巨大な鉄扉の前にアウディが横付けされるとほぼ同時に、脇にある小さなドアが空いて、迷彩服を着た武装兵たちが飛び出してきた。ざっと一〇数名、一個分隊。兵たちの左腕には、上が青・下が黄色のウクライナ国旗を象ったワッペンが貼られていた。

 本田は、黒服の男たちから兵士たちに引き渡されて小さなドアから中へ入った。外からは一切聞こえてこなかったが、内部は喧騒に満ちていた。予想どおり、扉の中は巨大な格納庫になっていて、一〇数台の戦車が並べられ、兵士たちが整備に動き回っていた。整備兵たちの腕にもまたウクライナのワッペンが見えた。

本田は、格納庫の奥にある地下坑道へと案内された。坑道内には岩盤を穿って作った部屋の並びが続き、地図や書類を広げてミーティングをしている幕僚たちや、銃火器の整備をする兵士たちの姿が次々と本田の目に飛びこんできた。恐らく部隊の規模は、一個連隊、千数百人程度にはなるだろう。

 地下坑道を一〇〇メートルほど進むと、突き当りのドアの前に出た。本田を引率する分隊指揮官が他の部屋よりもやや凝った装飾のドアを開いた。応接セットの奥の机に、ネイビーブルーのスーツを着た恰幅のいい初老の男の姿が見えた。

 薄くなった前頭部の毛髪と口元の髭は白く、鷲鼻で、吊り上がった両目の中の瞳はやや緑がかっていた。元ロシア国境警備部隊庁・少将にしてルスモスコイ社会長、ドミトリー・ミシチェンスキーである。

 豪傑肌で熊のような大男を想像していたが、立ち上がると一七〇センチそこそこの本田よりもわずかに高いくらいの身長だった。七〇歳を過ぎた年齢のせいか物腰は柔らかで、瞳の光には理知的なものが感じられた。本田はソファにかけるよう促され、ミシチェンスキーも正面に腰かけた。武装兵たちは退出し、部屋の中には対座する本田とミシチェンスキーだけが残された。

「ケイサクは元気かね? もう一〇数年会っていないが、これだけ危険な仕事を引き受けてもらったからには直接会って労いたかったんだが、時間の余裕がなくなってね。きみだけに来てもらうことにした。当初は、きみたちを救出した後、国後島からユジノサハリンスクを経由してモスクワに飛び、そこで記者会見を開くつもりだったんだが——」

 ミシチェンスキーの話を遮って本田は口を挟んだ。

「ウラジオストクには、日本をはじめ欧米各国の特派員が駐在している。情報は直ちに世界に流れる。それで十分だと考えたんでしょう。アナトリー・ビルデルリングが逮捕された以上、あの男から計画の情報が洩れる恐れがある。だから一刻も早くベゾブラゾフ政権を追いこむ必要があった。私に会見を開かせることでね」

 ミシチェンスキーの口角があがり、緑がかった瞳には冷ややかな光が宿ったように本田には見えた。

「どういうことかな? きみの会見は、わが社に対する日本の捜査当局による名誉棄損への抗議の一環として行うつもりだが……」

「とぼけてはいけない。私の告発で、最も打撃を受けるのは、ベゾブラゾフ大統領だ。ウクライナへの干渉でEU諸国と対立する中、ベゾブラゾフは、日米とは決裂しないことで国際的に孤立することを避けてきた。だが、黒崎への国策捜査をロシア側が——つまりあなたたちルスモスコイが暴くようなことになれば、日米とは対決姿勢を取らざるを得なくなる。ロシアの孤立は避けられなくなる。しかも、日米とは、友好関係を築こうとしていたのに欺かれていたわけだから、ベゾブラゾフの権威と信用は失墜する。そのうえでだ——」

 本田は、テーブルの上に両手をついて半立ちになり、正面に座るミシチェンスキーの顔をのぞきこんだ。

「あなたは、このまま現政権が続けばロシアの危機を招くと、軍や治安機関、財閥のベゾブラゾフに不満を抱く者たちに訴えて、政権を打倒するクーデターを仕掛けるつもりなのではないのか? 新政権の首脳には、欧米で人気のあるアニー・ビルデルリングを担ぎ出すつもりだった。サハリンで遊説中に、あなたと密会した『アニー』もそれを承知していた。ところが肝心の『アニー』が逮捕されてクーデター計画が露見する恐れが出てきた。だから、時間がないと事を急いでいるのはないのか? 」

 ミシチェンスキーの顔には満面の笑みが浮かび、瞳はやや潤んで光を増したように見えた。それは、生徒の出したいい回答に感銘を覚える教師のようでもあった。こちらを包み込むような慈愛も感じられる。或いは、ユリアンとアリアンナも、このミシチェンスキーの人柄に惹かれて諜報員の世界にのめり込んでいったのだろうか。

 少し若やぐような弾んだ声でミシチェンスキーは本田に問い掛けてきた。

「クーデターをやる動機があるかね? この私に。国境警備隊の出身で、KGB出身のベゾブラゾフ大統領とは身内のようなものだ。ルスモスコイの事業を拡大する上でも大統領には世話になっているのだよ」

治安機関シロビキ出身の新興財閥オリガルヒである以前にあなたはウクライナ人だからだ。

 潜水艦でウラジオストクに向かう途中、恵作さんが話してくれました。あなたの一族がウクライナ人であるがゆえに、この国でいかに辛酸をなめてきたか。あなたが、いかにロシアという国を呪って生きてきたかをね」

 それまで笑みを浮かべていたベゾブラゾフの表情が凍りついた。包むこむような温かさは消え失せ、相手の出方をうかがう油断のない顔つきに一変したのだ。

「あなたの両親は、第二次大戦で故郷のウクライナを追われてサハリンに移住したそうだが、実は家を焼き払って一家を故郷から追い出したのはソ連軍だったそうですね。攻めてきたドイツ軍に与える物を残さない焦土作戦の犠牲になったのだと。

 移住先のサハリンでの生活は過酷なものだった。もともとサハリンは帝政ロシアの時代から流刑地だったが、移住者は囚人並みの居住環境と労働条件で森林伐採に携わることになった。

 まず寒冷な気候に耐えられなかった祖父母が相次いで亡くなった。そして大黒柱だった父親も伐採作業中、倒木に巻き込まれて亡くなってしまった。残された母親は一人息子のあなたを養うため男たちに混じって森林伐採の現場で働き始めたが、無理がたたって四〇代の若さで寝たきりになったそうですね。経済的に困窮したあなたは上級学校に進学することもできず、結局、軍に志願するしか生きる道はなかった。

 五〇歳そこそこで亡くなるまで長患いした母親は、自分の人生を台無しにしたソ連という国家への恨みを語り続けた。

 こんな仕打ちを受けるのは、私たちがウクライナ人だからだ。この国はウクライナ人を虐げ続けている—— 母親から繰り返し聞かされてきたあなたは、いつか恨みを晴らしてこの国を転覆させてやると強く思うようになった。そのためには、この国で最も力を持つ組織に入らなくてはならない。軍務を経験したあなたは、KGBの士官養成アカデミーを経て、サハリンやシベリアを管轄するKGBの外局である国境警備部隊庁に入る道を選んだ。

 恵作さんから聞いた話はここまでです。レポ船でつきあいがあった頃、深酒をしてそんな話をしたことがあるとね。

 ここから先は、私の推測ですが——あなたは、国境警備隊で昇進を続ける中で、同じ境遇のウクライナ出身者たちをまとめて秘密結社化していった。秘密のウクライナ人ネットワークをね。だが、組織を維持拡大するには金がいる。そこであなたは、日本から金を引き出して資金源となる会社を立ち上げることにした。それが「ルスモスコイ」だ。日本側が交渉のテーブルに乗ってくるように、敢えて国境警備隊に日本漁船への襲撃を増やすよう命じてね。

 北方領土周辺海域の豊富な漁業資源を生かして、ルスモスコイは急成長した。そして資金源を得た秘密のウクライナ人ネットワークは、ロシアの地上軍や海軍、ついにはFSBやSVRのような治安機関にも広がった。その一端が、あの潜水艦の乗組員たちであり、地下要塞で出撃準備をしているウクライナのワッペンを付けた兵士たち——そんなところではないですか?」

 話を進めながら本田は、ミシチェンスキーの目つきが険しさを増していくのが分かった。

 誰しも触れるには余りに痛みをともなうため、普段は心に秘めていることがある。他人には決して触れられたくない出来事が。

 ミシチェンスキーの表情の変化から、自分は今、この男のそんな領域に踏み込んでいるのだということが本田には分かった。

 一方で、本田の心中にも激しい怒りがあった。ベゾブラゾフ政権打倒のクーデター計画に憑りつかれたことが、この男を本田にとって決して許すことのできない、ある犯罪に駆り立てたという確信があったからである。

 沈黙を続けていたミシチェンスキーは本田から目を逸らして小さくため息をついた。

「なるほど、私にはクーデターをやるだけの動機があるということか」

「ええ。それともう一つ。これは明らかな犯罪だ。ある人物の命を奪う動機もあなたには、あった」

「今度は、殺人犯かね? 」

 余りに突拍子もないと思ったのか、ミシチェンスキーの口角が再び上がった。

「クーデターが成功すればいいが、相手はKGB出身で策謀に長けたベゾブラゾフだ。至る所に監視の目が光っている。事前に発覚する危険があまりに高い。露見すればあなたの命はない。そんなあなたを何としても救いたいと思う人間がいた。誰だか分かりますよね? 」

 ミシチェンスキーの顔から再び表情が消えた。そして、目つきが険しくなり始めた。決して触れられたくない痛点に踏み込まれた者が見せる苦悶の表情だった。

「その人は、クーデター計画を信頼できる西側のジャーナリストに打ち明けることで、あなたに計画を思いとどまるよう説得してもらおうと考えた。合わせて、あなたの身柄も保護してもらおうと考えていたのでしょう。

 だが、あなたは。それほどまでにあなたを愛していた人を、計画の邪魔になるからと殺めてしまったんだ! ずっと娘のように思っていたはずの女性を! そうアリアンナを! 違いますか! 」

 本田が大きな声を出したためだろう。武装兵数名が部屋の中に飛び込んできて、本田にAK74M自動小銃を突きつけた。よく見るとまだ二〇歳前後の若い兵たちばかりだった。

 立ち上がったミシチェンスキーは兵たちの動きを手で制し、ひとりひとりに心配は無いからと声をかけ、部屋から送り出していた。

 兵たちが出て行った後も、ミシチェンスキーは空いたドアの前で本田に背を向けて立ち尽くしていた。少し猫背気味の背中が、荒い息づかいのために上下しているのが分かった。疲れがかなり溜まっているようだ。重い荷を負った背中が、重みに耐えかねてあえいでいるようにも見えた。

「一軍の将にとって兵などは使い捨て。ひとりふたり死んだところでいちいち感傷的になっていられるものかと思うようにしてはいたんだが。近頃どうもそうは思えなくなってきてなぁ。あんな若い兵たちを見ていると皆、わが子のように思えてきて。歳のせいなのか、それともアリアンナに対する罪の思いがそうさせるのか……」

——アリアンナに対する罪の思い。その独白が、本田の推理が的中していたことを裏づけていた。相変わらず背を向け続けているミシチェンスキーに本田は問い掛けた。

「あなたはクーデター計画の機密保持には細心の注意を払っていたはずだ。現にユリアンは何も知らなかった。なのに、なぜアリアンナだけは、クーデター計画を知ることになったんですか? もし計画を知れば彼女がどんな行動をとるか、あなたになら想像できたんじゃないんですか? 」

 ミシチェンスキーが、ドアを閉じて本田の方を振り返った。そこには、重荷を背負うことに疲れ果てた老人の顔があった。

「アリアンナには、アニー・ビルデルリングに対して打ちこむくさびになってもらったのだ」

「楔だと? 」

「あの男にとって離れがたい女になれ。そしてあの男の心の内を覗いて、私に知らせる役目を務めてくれと命じたのだ」

「つまり、情婦になれということか? あんた、アリアンナの精神状態のことを知っていてそんなことを命じたのか? 」

「無論、ユリアンから聞かされてはいた。無理強いはしないとアリアンナにも伝えていた。でもあの子は、私の力になりたいと役目を引き受けてくれたのだ。ぜひに、と言ってな。

 政治家など風向き次第でどう立場を翻すか分かったものではない。とは言え、我々の計画にはどうしてもアニー・ビルデルリングが欠かせない。あの男が裏切らないように、心も体も握れるくさびが必要だった。それができるのはアリアンナしかいなかったのだ」

 そこまで言うと、ミシチェンスキーは両目を閉じて俯き、そのままどっしりとソファに腰を下ろした。腕を組んで天を仰ぎ、『うーん』という呻き声をあげた。

「今にして思えば、アリアンナの厚意に頼ったのだが誤りだった。アニーと密接な関係になれば、クーデター計画が彼女に漏れるリスクは当然、高くなる。だが、その時は事情を話して説得すればいいと思っていたのだ」

「アリアンナの思いを読み違えましたね。心身ともに限界だったのにあなたの命令に従ったのは、それだけあなたへの愛情が深かったからだ。実の親に勝る恩を感じていたからだろう。治安機関シロビキの恐ろしさを知るアリアンナならば、ベゾブラゾフを倒すなど無謀なことと思うはずだ。アニーとの接触でクーデター計画を知ったアリアンナは、あなたに決起を思いとどまるよう言ってきたんじゃないのか? 」

「そのとおりだ。だが、すでに多くの同志が決起の時を待っている以上、今さら計画を投げ出すことなどできない。

「かと言って、命まで奪うことはないだろう? アリアンナは娘同然だったんじゃないのか! 」

「手遅れだったのだよ……。アリアンナの電話を盗聴したモスクワのFSBの同志たちは、アリアンナがきみにクーデター計画を漏らす前に命を奪うほかないと判断して、私には内密で襲撃を実行したのだ」

 本田の脳裏に銃弾を浴びて血まみれとなり、虫の息だったアリアンナの姿が思い浮かんでいた。


『どうか……父をとめて……やめさせて……ポ、ポ、ポセイドン……』

 目を見開いたアリアンナの死に顔に、黄金の三叉槍さんさそう。ウクライナの国家紋章が重なった。三叉槍は、海神ポセイドンを象徴する武器だ。ギリシャ神話のポセイドンは、大陸と海を支配し、その魔力で巨人たちの国を滅ぼしたとされる。

「最期にアリアンナは、私にポセイドンをやめさせて、と言い残しました。つまりそれは……」

 ミシチェンスキーは一つため息をついた後、淡々とした口調で答えた。

「我らの祖国・ウクライナを救うため、ロシアのベゾゾブラゾフ政権を打倒するクーデター計画。ポセイドンは、その計画のコードネームだ」

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