解明への脱出②

 本田のストップウオッチが九分をカウントした時、闇を切り裂く幾条ものサーチライトが、波を蹴立てて突き進む船を照らしだした。

 一瞬目が眩んだ後に、本田には船の進行方向正面に白い壁が現われたように見えた。

 「なつい」型500トン中型巡視艇——軍艦ならば掃海艇ほどの大きさでしかないが、それでも三十三尺の強化プラスチック製の漁船が衝突すれば、漁船の方はひとたまりもない。

 すでに双方の距離は一〇〇メートルを切っていた。

「おもぉ~かぁ~じ!! 」

 恵作が大声を上げて舵を素早く右に切った。海の上を飛び跳ねながら船が右へ旋回する。船尾のデッキにいた本田は遠心力がかかって、旋回方向とは逆に左側へ身体を投げ出されて転がることになった。思わず吐き気がこみあげてきた。特攻船は巡視艇に追われて、これまでと向きを変えて南の方向、根室半島を目指して走り始めた。

「あと二〇〇メートルほどだ! 左側の海へ突っ込んでくれ! それで中間ラインは突破できる! 」

 操舵室前方のデッキでうつ伏せになったユリアンは、振り返りながら大声で恵作に進行方向を指示した。

 だが、海上保安庁側も船の逃走ルートには見当をつけていた。巡視艇の方から「ウィーン」というモーターが高速回転するような音が聞えた後、ヒュンヒュンと音をたてて曳光弾の連射が船の左側の海面に降り注いだ。二〇ミリ機銃六機を束ねたM61バルカン砲が火を噴いたのだ。砲火は、ロシア側への逃亡進路を塞ぎ、本田たちの船を日本側の沿岸へ追い詰めようとしていた。

「とぉ~りぃか~じ!! 」

 恵作は何度か左側に舵を切って中間ラインの突破を図ろうとした。だが、そのたびにバルカン砲の弾幕に進路を塞がれて、船は海保の巡視艇によって南へと追い立てられた。このままいけば、根室半島の先端、歯舞群島方面を警戒していたもう一隻の巡視艇との間で挟み撃ちになってしまう。

「中間ライン側(左側)がだめなら、巡視艇の右手に回り込んで振り切ろう! 連中も、こっちが日本側の陸地を背負う形になれば、やたらめったら撃てんじゃろう! 」

 恵作は、一転して舵を右に切り、日本側の陸地に近づこうとした。するとバルカン砲の連射が、船のすぐ手前の海面に立て続けに着弾した。わざとバルカン砲の角度を下げている。少しでも砲の角度を上げれば機銃弾が船を直撃するのは明らかだった。

(威嚇じゃない……沈めるつもりの警告射撃だ)

 続けて本田の予感通りの声が巡視艇の方から聞えてきた。

「停船せよ! 停船せよ! さもなくば、撃沈する! 停船せよ! 停船せよ! 」

 本田は恐怖で胃袋が縮み上がるのを感じた。内容物が食道を逆流し、口の中に溢れてくる。無理に飲み込むと食道に焼けるような痛みが走った。

「どうやら、あのバルカン砲を黙らせるしかなさそうだな……恵作さん、じゃあ手筈通りに頼むぞ! 」

 ユリアンは機敏に片膝立ちの中腰姿勢をとり、恵作に向かって右手の親指を立てて合図を送った。直後に恵作の影は船尾の船外機へ歩み寄った。船の速度が急速に鈍ってきた。恵作が船外機を停止させたようだ。

 警告に従ったと判断した巡視艇もバルカン砲の射撃を止めた。本田が、恐る恐る船縁から頭を上げると、巡視艇の甲板上には武装した警備隊員らしき者たちの姿が見えた。およそ二〇人はいるだろうか。ジュラルミンの板を並べながらこちらの様子をうかがっているのが分かった。本田たちの漁船は、巡視艇に対して右舷の横腹を向けていた。巡視艇のバルカン砲は、正面から漁船に狙いをつけていた。

 徐々に漁船と巡視艇の距離が縮まってくる。千メートル、五〇〇メートル、三〇〇メートル……すると、恵作が舵を微妙に操作して、いつの間にか漁船は、巡視艇に対して船首を向けて向き合う格好になった。

 漁船の操舵室前方のデッキでは、ユリアンがうつ伏せになっていた。肩に担いだRPG7対戦車ロケット砲で、正面から向かってくる巡視艇のバルカン砲にねらいをつけていたのだ。

距離二〇〇メートル。RPG7の有効射程距離に入った。ユリアンはまだ引き金を引かない。弾頭を確実に命中させるため、巡視艇を引き付けることにしたようだ。

 距離一五〇メートル、一二〇メートル……。もし、ユリアンがねらいを外せば至近距離でバルカン砲の掃射を受けて、漁船は木っ端みじんにされるだろう。緊張が高まり、また本田は胃の内容物が食道を逆流しそうになっていた。

 距離が一〇〇メートルを切った時、ユリアンの肩からRPG7の弾頭がオレンジ色の炎を上げて飛び出し、瞬く間にバルカン砲の砲台に突き刺さった。途端に火柱が上がり、爆発音とともに二〇ミリ機銃を束ねた砲塔が一〇メートルほどの高さまで吹き飛んだ。続けて仕掛け花火を点火したようなバチバチバチ……という連続した破裂音が高く響き渡る。機銃弾が炎を浴びて誘爆しているようだ。火薬と油の燃える臭いが本田がいる漁船にも漂ってきた。巡視艇の甲板上では、隊員たちがジュラルミン板を捨てて逃げ惑う姿が見えた。

「よし、今だ! あの巡視艇の脇を突っ切って中間ラインをこえるぞ! 」

 再び膝立ちの姿勢になったユリアンは恵作に向かって声をかけた。すでに恵作は船尾の船外機に取りついており、合図の声をとともに起動を知らせる爆音が響き渡った。

 本田たちの漁船は、動きを止めた巡視艇を左手に見ながら再び、北に方向を変えて進み始めた。バルカン砲の砲台が吹き飛んだだけでなく、その後ろの艦橋部分からも煙があがっている。被害は人のいる領域にも及んだようだ。犠牲者が出ていなければいいが……

 本田が巡視艇乗組員に思いを馳せていたところへ、ヒュンヒュンと空気を割く音が連続して聞えてきた。漁船を飛び越えて曳光弾の連射が海に突き刺さった。

 本田が漁船の後方を振り返ると、海を照らし上げる幾条ものサーチライトが近づいてくるのが見えた。

ブオーッ! ブオーッ! という警笛とともに警告も聞こえてきた。

「停船せよ! 停船せよ! さもなくば、撃沈する! 停船せよ! 停船せよ! 」

「歯舞方面を塞いでいた巡視艇だ。挟み撃ちにこそならなかったが、送り狼をかけてきやがったか……一馬、早く船首の方へ行け! 船尾の方におっては弾丸に当たっちまうぞ! 」

 恵作に急かされるまま本田はユリアンのいる操舵室前のデッキへ這っていった。その間にも、漁船の周囲には曳光弾が次々と着弾した。もはや威嚇射撃ではない。もう一隻の巡視艇は明らかに本田たちの船を沈めるつもりのようだ。

「おい、今どっちに進んでいるんだ? 」

「奴らは中間ラインに近づけまいと弾幕を張ったうえで、こちらを狙っているはずだ。多分、知床半島の方へ追い立てられていると思う」

「いよいよ中間ラインを超えられないまま沈められるのか? 」

 曳光弾が至近距離で海に連続して着弾し、水しぶきをあげる。弾丸を避けるために、恵作が左右に急な舵を切る。本田は危うく海に転げ落ちそうになったが、ユリアンがしがみついて何とか食い止めた。デッキは上下左右に激しく揺れ、波しぶきが飛び込み、本田もユリアンもずぶ濡れになっていた。強い風にさらされて体感温度は下がってくる。ウエットスーツを着こんでいなければ二人とも低体温症になっていただろう。

 悪寒に襲われた本田は、たまらず嘔吐してデッキの上にうずくまった。

「もうだめだ! こんな船には乗っていられない! 海に飛び込んだ方がマシだ! 」

「こんなところで海に入ったら中間ラインまで泳ぎつけないぞ! その前に捕まるか、撃ち殺されてしまう。今は、恵作さんの腕にかけるしかない。がんばるんだ! 」

 だが一〇数秒後、わずかな望みが絶たれる時が来た。船外機の一つが被弾して動かなくなり、舵も損傷した。船は左方向にしか動かなくなり、中間ラインからは離れて日本側の海岸に向かって走り始めた。

「おもかじが効かねえ! このままだと狙い撃ちにされちまうぞ! 」

 恵作の叫び声が聞こえて間もなく、船尾部分がバルカン砲の掃射に見舞われた。内臓エンジンが損傷して煙が上がり始めた。燃料タンクにも穴が開いたのか、鼻を突くガソリンの臭いが漂ってきた。

「急いで海へ飛びこめ! ガソリンに火が回れば船が吹っ飛ぶぞ! 急げ! 」

 そう叫んだ直後に、恵作は海に飛びこんでいた。慌てて本田とユリアンも後を追う。ライフジャケットのおかげで身体は海面に浮き上がってくれた。本田は、炎を噴き上げ始めた漁船から少しでも離れようと懸命に手足をバタつかせた。

 三人が海に飛び込んでから三分足らず。まず操舵室が真上に吹き飛び、続いて船体を真っ二つに引き裂く爆発が起きた。火のついた漁船の断片が四方に飛び散り、闇夜に炎の色をした花火が炸裂したように本田には見えた。

 四散した断片が波間に漂うところへサーチライトの矢を放ちながら海保の巡視艇が近づいてきた。甲板には一〇数名の隊員たちの姿が見えた。いずれも防弾服を着込んで自動小銃で武装している。

 サーチライトが波間に漂う漁船の断片を照らし上げていく。何か断片が照らされるたびに自動小銃の一斉射撃が浴びせられていた。

「問答無用で撃ち殺すつもりらしいな。まあ、ロケット砲で攻撃されたんだ。我々はテロリストと同じ扱いを受けても仕方ないか」

 事態が切迫しているにも関わらずユリアンの口調はどこか他人事のようにのんびりしている。サーチライトの灯りでかすかに浮かび上がった横顔には虚ろな表情が浮かんでいた。

——万事休す。と、ユリアンの表情が無言のうちに告げていた。

 中間ラインからは一キロ以上日本側に追い立てられてしまったようだ。獲物を追い詰める野獣のようにサーチライトの光の矢を放ちながら巡視艇が近づいてくる。

「タタタタタタ……!!」

 時折、静寂を破って自動小銃の射撃音が響き渡る。数分後、サーチライトに捕らえられた時、あの小銃弾に五体を引き裂かれて、永遠の闇が訪れることになるのだろうか。

 暫し現実を逃れようと本田は星空を見上げた。真上には薄く靄がかかったような天の川が見えた。波間に揺れながら見つめていると星の海を漂っているような気分になる。

(最期に見る景色としては悪くないかもしれないな。すまない、真鈴——。)

本田が最期の時を待つ覚悟を決めて目を閉じていると、恵作のつぶやきが聞こえてきた。

「……巡視艇が止まったぞ」

 本田が目を開けると、巡視艇が前進をやめただけでなく、あらゆる方向に探りを入れていたサーチライトも動きを止めていた。それから間もなく、ヴォーッ、ヴォーッと悲鳴を上げるように警笛を鳴らすと、巡視艇は、急くように後退を始めたのである。

(……何が起こったんだ? )

 本田が茫然と巡視艇が遠ざかるさまを見つめていると、再び恵作がつぶやいた。

「海の中の潮が動いている……何か足元にいるぞ。クジラか……」

 確かに、知床半島沖の国後島をはさむ海域は、日本有数のホエールウォッチのポイントとして知られている。だが、クジラが近づいたくらいで巡視艇が逃げ出すだろうか。

 本田たちから二十五メートルほどまで近づいていた巡視艇は、いつしか三百メートル以上も遠ざかっていた。やがて本田は寄せてくる波が次第に高まっていくのを感じた。波は本田たちと巡視艇との間に広がる海域から発しているようで、次第に大きく渦を巻き始めた。渦の下には、点滅する光が見えた。

「これは……」

 本田が声を発しようとした時、突然海面が大きく盛り上がった。本田もユリアンも恵作もいきなり巨大化した波に激しく揺すぶられたかと思うと、頭上から滝のように降り注ぐ大量の海水を浴びることになった。

 「海水の滝」が収まったとき、本田たちが目にしたのは巨大な黒い化け物——高さ三メートルほどの艦橋と上甲板を海上に露出させた潜水艦だった。

艦橋上にあったハッチが開き、二、三人の人影が見えた。ほぼ同時に上甲板艦尾部分のハッチも開いて、三人の男が姿を見せた。一人がブイらしきものを担ぎ、あとの二人は何か重機関銃のようなものを担いでいる。

 艦橋上の一人の男がマイクを握って呼びかけてきた。

「これから、そちらに飛ばす救援用のブイにつかまってくれ! 」

 ロシア語だ。どうやらロシア海軍の潜水艦らしい。

 甲板上で二人が担いでいたのはブイの投擲装置だった。斜め四十五度で発射されたロープの着いた赤いブイは宙を舞って、浮遊する本田たちの目の前に落下した。本田、ユリアン、恵作、三人が揃って一緒にブイにつかまると、投擲装置はロープをたぐり寄せ始めた。三~四〇メートルほど海面上を引っ張られた後、三人は甲板上に救い上げられた。

 水面上に出ている甲板の長さは一五メートルほどだが、潜水艦の全長はおそらく七〇メートルほどはあるだろう。原子力潜水艦は一〇〇メートルをこえるから、これはディーゼル潜水艦のようだ……。本田は黒く聳え立つ艦橋を見上げながら思いを巡らしていた。

「ようこそ、わがパル―トゥス(※ロシア語で大型カレイのオヒョウを意味する)へ」

 救援隊の指揮をとっているらしい下士官の男がユリアンに握手を求めてきた。ユリアンも握り返した。

「潜水艦パル―トゥス号か。きみたちはウラジオストクから来たのか? 」

「ダー! 太平洋艦隊第一九潜水艦旅団所属であります。ユリアン・コンドラチェンコ少佐ですね? 少佐殿たちを救助次第、速やかなる帰投を命じられております。どうかお急ぎください! 」

 下士官の男にはろくに話を聞けないまま、三人は艦尾ハッチの中へ瞬く間に押し込められてしまった。ハッチが閉まると、すぐに艦長と思われる声の艦内放送がかかった。

「ただいまから帰投する。ベント全開。深さ二〇! 急げ! 」

 艦内への注水が始まり、侵入した海水の圧力がかかったのか、周囲の隔壁からは獣のうなり声のような音がし始めた。間もなく船体が前方に傾き始めて潜水艦は急速潜航を始めたようだ。だが、一分もしないうちに艦は水平に戻った。よほど水深の浅い海域を進んでいるように思われた。

「野付半島から国後島近辺の海域は深さが浅いところだと一〇メートル程度しかない。このクラスの潜水艦だとギリギリか、或いは通常は活動できないはずだが……」

 ユリアンが独り言ちると、救難隊の下士官もしきりにうなずきながら答えた。

「ええ。いつスクリューを海底に引っかけて航行停止になるか冷や冷やものでしたよ。しょっちゅう海底との接触の危険を知らせる緊急ブザーが鳴っていましたから。だけど、このまま北へ進んで知床半島沿いに進めば水深が二千メートルを超える海に出ます。あとは一気にウラジオストクまで直航です」

 快活に語る下士官の男に導かれて、本田たちはCIC戦闘指揮所へと案内された。

(おや? )

 暗がりの中、青い間接照明で浮かび上がった大画面レーダーの上に掲げられた紋章を見て本田は違和感を持った。それは赤地に金色の王冠をかぶった双頭の鷲を象ったロシア連邦のものではなかったからだ。

 マリンブルーの下地に黄色の三叉槍——海神ポセイドンが手にした三又の槍を象った紋章だった。それはルスモスコイの社章とも似ていたが、色の配置が違っている。青と黄色の二色になっているので改めて気が付いた。これはあの国のものではないか……。

 室内を進むと、艦長をはじめ副長や航海長らしい四人の将校が待ち受けていた。艦長の肩章は海軍中佐のものだった。ユリアンは姿勢を正し、敬礼する。艦長と周囲の将校たちも一斉に答礼した。艦長たちが礼を解くと、ユリアンは大きなため息をついた。

「国境警備隊には救援要請をしていたのですが、まさか海軍の方々が助けにきてくださるとは思いもしませんでした」

 少し白いものが混じるダークブラウンの髭の間から白い歯をこぼしながら艦長が答えた。

「ユリアン・コンドラチェンコ少佐。私たちは、きみの養父にあたるドミトリー・ミシチェンスキー元少将と志を同じくする者だ。第一段階の立役者であるきみと、そちらのお二人の日本の方たちを何としても救い出さなくては、今後の計画に支障をきたすのでね」

(ミシチェンスキーの仲間なのか? それにしても、第一段階? 今後の計画? 何のことだ? )

 本田の中で疑問が膨らんでいたが、艦長は饒舌に語り続けた。

「中間ラインを超えて国境警備隊に保護されたのならば、そこできみたちの身柄を引き受けるつもりだった。だが、中間ラインを突破できなかった場合は、海上保安庁の巡視艇を魚雷で沈めてでも救い出す腹積もりだったのだ。まぁ、距離一〇〇メートルでいきなり我々からのアクティブソナー照射を受けて、巡視艇が慌てて退散してくれたおかげで無駄な血は流さずにすんだがな。ハハハハハ……」

 海上保安庁の巡視艇を退散させたことを快哉している艦長に、ユリアンは憮然とした表情で一歩み寄った。

「助けて頂いたことには感謝します。だが、ミシチェンスキーがあなたたちと謀って何を計画しているのか、私は何も聞かされていない。こっちは命がけで、時には人を殺めても作戦を実行しているのに、何か肝心なことは秘密にして事を進められるのは、極めて不快だと言う他ないですね」

 アイスブルーの瞳に怒りの色を滲ませてユリアンが睨みつめてきたことに、艦長も笑いを収めて神妙な顔つきになった。

「きみの気持ちは分かる。だが、計画を知らせなかったというのは、ミシチェンスキー閣下のきみに対する思いやりではないかな。たとえ、作戦に携わっていたとは言え、全て計画を事前に知っていた上でか、知らずにいたのかでは、結果が悪い方に転んだ場合、きみの立場が違ってくる。閣下はきみを巻き込みたくなかったのだよ」

「巻き込む、巻き込まないって一体、何の話だ! あんたたちとミシチェンスキーは一体、何を企んでいるんだ! 」

 ユリアンの剣幕に、艦長と潜水艦の幕僚たちは互いに困った表情を浮かべて顔を見合わせた。とは言え、大きく動揺しているようではない。ある程度、ユリアンがとる言動も予想していたように本田には思われた。

 艦長は悩まし気な表情を浮かべて再びユリアンに向き合った。

「ミシチェンスキー閣下の命令というだけではない。幾多の同志の命がかかっている以上、私もきみに我々の計画について話すわけにはいかない。それと一つ言っておくが、この先、計画の上で必要なのは、そちらの日本の新聞記者の方だけだ。そちらを我々が確保した時点で、きみの任務は終了しているのだ」

「私は用済みだというのか——」

 ユリアンは思わず艦長の襟首をつかみにかかったが、すぐに動きを止めた。傍らにいる海軍大尉、航海長と思われる男がサイレンサー付きのマカロフPMをユリアンに向けていたからだ。

「あまり、悪意にとってもらいたくはないがね。きみは十分に務めを果たしてくれたのだから。まあ、少し休みたまえ。それとここ数日、逃げ回ってばかりで外の世界の様子も分からなくなっていただろう。新聞を渡しておこう」

 艦長は、副長から日本とロシアの新聞を受け取るとユリアンに手渡し、休憩室へ下がるよう首を振って促した。


 本田とユリアン、恵作の三人が士官用の休憩室に入ると外側から鍵がかけられた。体よく軟禁状態に置かれたということだ。

 ユリアンは、部屋の鍵がかけられると癇癪を起したように叫び声を上げて椅子の一つを蹴り飛ばすと、大きな音を立ててテーブルに両手をついた。ユリアンは暫く顔を真っ赤にして下を向いていたが、やがて蹴倒した椅子を元に戻すと脱力したように腰掛けた。

「カズマ、私はきみを騙す舞台の振り付けをしてきたことをずっとすまないと思っていた。だけど、結局、私も騙されて親父ミシチェンスキーが作った舞台で踊らされていたというわけだな。フフフフフ……本当にお笑い草だ。フフフフフ……」

 力なく笑い続けるユリアンを憐れむような目で見つめていた恵作は、空いているベッドの一つに潜り込むと背中を向けて横になった。用済みということでは恵作も同様なのだなと、思いながら本田はその背中を見つめた。

 自分という告発者を敵中から盗み出すのがユリアンで、海をこえて告発者を運ぶのが恵作の役目だったということか。そして、ミシチェンスキーとそれを取り巻く「同志」と称する者たちは俺に、日本とアメリカが共謀して国策捜査を仕掛けたという陰謀を暴露させることで、一体何をしようとしているのだろうか。

それは単に日本とアメリカを貶めるというだけではない。ロシアという国を大きく揺るがす「何か」を引き起こそうとしているように本田には思われた。潜水艦艦長が使った「我々の計画」という言葉がそのことを示していた。

本田は、椅子に腰掛けてユリアンがテーブル上に放り出した新聞に目を通そうとした。紙面を広げると角の折り曲げられたページがあった。古巣である東日新聞の国際面だ。

『——ロシアの反体制政治家、アナトリー・ビルデルリング氏が収賄容疑で逮捕。公民権停止で、秋の大統領選出馬は絶望的か——』

恐らくはでっち上げだろう。ベゾブラゾフ政権を批判する急先鋒に、誰が賄賂など贈るだろうか。社会の不満をくみとる受け皿となっているアニーへの国民の支持は日々高まっているとされている。

 やはり、ベゾブラゾフは強権発動でライバルを葬りにかかったか——と思いながらページをめくろうとした時、本田の手が、ぴたりと止まった。


『——治安機関シロビキ出身でベゾブラソフとも近いミシチェンスキーと、反体制政治家のアニーか……』

『そんな二人がなぜサシで密談していたのか。不思議に思ってはいたのだがね——』

『——諸君! だまされてはいけない! 政府がやっていることは、ロシアを世界から孤立させ、国民に苦しみを強いるだけだ! クリミア併合反対! 軍はウクライナから手を引け!——』

『——ミシチェンスキーの両親は、ウクライナの生まれでドイツ軍から逃れて命からがら樺太にやって来たらしい……俺はウクライナ生まれのユダヤだ。ソ連という国の権威を笠に着るより、もっとオープンにあんたらと商売したいと言っとったよ——』

 ユリアンや恵作と交わしてきた会話。アニーの演説。政府がでっち上げた疑いが濃厚なアニーの逮捕……。本田の脳裏をさまざまな情景が駆け抜けた。

 そして、ミシチェンスキーを「ある計画の盟主」と仰ぐ潜水艦の艦長以下の将校たち。

 CIC戦闘指揮所に掲げられていた「マリンブルーの下地に黄色の三叉槍」の紋章。あれは、ウクライナの国家紋章だ。

 そう、ウクライナだ——。治安機関出身の新興財閥オリガルヒであるミシチェンスキーと、反体制政治家の「アニー」ビルデルリングが手を握る一致点は、あの国にあった。そして、手を握った二人の前には、倒すべき共通の敵がいた。あまりにも強大な敵が。

 ミシチェンスキーが一体、何を計画しているのか。なぜ本田に日本とアメリカによる黒崎昭造への「国策捜査」を告発させようとしているのか——。本田には、ミシチェンスキーが幕を開けようとしている壮大な劇のありさまが少しずつ分かり始めていた。

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