解明への脱出①
闇に閉ざされた国境の海に漁船のエンジン音だけが響いていた。
風蓮湖畔で武器を積み込んだ本田たちが乗る「特攻船」は、
悪化すると思われた天候も時間の経過とともに回復してきた。雲が晴れて、宝石を散りばめたような星のまたたきが望めるようになってきた。
目標である
「夜釣りの船が出てくるようだな。おかげでわしらの動きも目立たなくなりそうだ」
闇の中で恵作の表情は分からなかったが、声には安堵の響きがあった。
知床半島から根室半島に至る根室海峡には、一九九六年に北海道が管理する漁場管理レーダーが六か所設けられた。情報は海上保安庁とも共有されている。中間ラインを超えて行き来する密漁船を取り締まるのが目的だ。
だから、本田たちが乗った漁船の動きも当然、レーダーには捕らえられているはずだ。しかし、夜釣りに出てくる漁船が増えてくればその中に紛れ込むことができる。
恵作が船を停止させたのは、ポイントに着いた釣り船になりすますためであった。この時、時刻は午後十時ごろだった。
「このあと一時間おきに停止して少しずつ北へ進んで、午前〇時ごろには野付の南端に着けるようにしよう。突入するのは〇時すぎでいいんじゃな? 」
「ああ、〇時を過ぎたら救援体制をとれるようにすると(ロシア)国境警備隊は返事を寄こした。まぁ、あくまで中間ラインを突破できたらの話だが……」
ユリアンは両手を後頭部で組んで、仰向けに寝転びながら恵作の問いかけに答えた。ユリアンに釣られて本田も天空を見あげてみた。星の海の中に靄がかかったような帯が伸びている。天の川銀河だ。都会では光量が目立つ一等星か二等星が点のようにしか見えないが、さすがに北海道東部の夜空は彩りに満ちている。
(俺は何をやってきたんだろうか……)
星空を見あげながら本田は、古河恵雄が殺されたのをテレビで垣間見てからの四か月ほどの出来事を思い起こしていた。
嘘と謀りごとに満ちた世界で、本田はただ翻弄されるばかりだった。そんな惨めな姿を天空の星々は、冷ややかな光を放ち、憐れみながら見つめているようだ。あたかも物言わぬ死者たちのように。
「人は死んで星になるそうだが、星になったアリアンナは私たちをどんなふうに見ているんだろうな……」
仰向けに寝転んだまま星空を見あげていたユリアンが本田に問いかけるように呟いた。
「もういい加減にしたら、と言われるのかしれない。きみの夢の中では、このままだと私も
そこで話を途切れさせたユリアンは上半身を起こして本田の方に向き直った。じっと見つめているようだが顔にどんな表情が浮かんでいるのかは暗くて読み取れない。
「ただ、きみや恵作さんを巻き込んだことは申し訳ないとは思っている。しかもきみの真実に迫りたいという情熱や、記者としてやり直したいという思いを利用してしまったことには心がとても痛んでいる。
あっちの世界に行ってもアリアンナには責められそうだ。私の心を救ってくれた人、愛した人の思いを踏みにじるなんて許せない、とか言われてね」
「この期に及んで同情など無用だ! 」
本田は怒りをはらませた声を張り上げた。
「今さらスパイが人並みに懺悔などするな! お前たちからすれば俺は用意した舞台で踊らされているだけにしか見えんかもしれん。だがな、そんなことは知ったことじゃない。
散々、右往左往したあげくにつかみ取った黒崎昭造に対する「国策捜査」の真相だ。何としてでも世に伝えたい。そのためならば、俺はいくらでもお前たちの思惑に乗ってやる。
だからお前は、何としてでも俺を生かして、プロのスパイとして仕事をやり遂げることだけを考えろ! 」
本田の怒声の後には長い沈黙が続き、ユリアンの影はぐったりと項垂れた。肩がかすかに震えているようにも見えた。
やがて漁船のエンジン音がはっきりと聞こえるようになってきた。別海町沿岸の漁港を出た夜釣りの漁船群が近づいてきたようだ。
「そろそろポイントを変えて動かんと時間までに野付にはたどり着かねぇぞ」
恵作は、本田とユリアンに声をかけると船のエンジンを再起動させた。船の右側正面には、昼間ならば国後島の姿が遠望できるはずだった。だが、この時は深い闇が底なし沼のように広がるばかりだった。
午前〇時を過ぎた頃、本田たちの船は野付半島南端の沖合三〇〇メートルに到着した。
国後島があるはずの方向には、全く灯りが見えなかった。本田、ユリアン、恵作。いずれも赤外線暗視ゴーグルをつけていたが、視界はせいぜい二〇〇メートルほどしかない。
ここから国後島まではおよそ一八キロ。中間ラインはその半分だから九キロほど先だ。特攻船で最高速度を出せば、十分ほどで突破できるはずだ。恵作が船尾に取り付けた二〇〇馬力の二つの船外機に手をかけた。
「そろそろ突っこんでもいいんだな!? 」
恵作が振り返ってユリアンに尋ねた。
「ああ、いつでもやってくれ! 全速で頼むよ! 」
ユリアンが答えた途端に、恵作は二台の船外機を起動させた。にわかに盛大な爆音が闇に閉ざされた海峡に響き渡った。
「海に投げ出されんように、しっかり船にしがみついとけ! いくぞ! 」
恵作が声を張り上げた直後、本田は一瞬、船が宙に浮いたような感覚を味わった。そして船首をやや上げながら、船は猛烈な速さで海の上を走り始めた。
水しぶきとともに強烈な風が正面から吹きつけてくる。本田が顔をそむけて船縁から後方を見ると白く泡立つ航跡が真一文字に描かれていた。海面が凪に近い状態なので、波の抵抗を受けて船が上下に揺さぶられることも殆どない。ここが海の上であることを一瞬忘れそうだった。
エンジンスタートとともに押したストップウオッチで五分を過ぎた。何も起こらず順調に船は走り続けている。
「このままの速さで進めば、あと五分で中間ラインをこえるぞ! こえたところで照明弾を打ち上げる。灯りを目指してロシア側から救援が来ることになっている! 」
強風と船外機の爆音にかき消されないよう大声をあげたユリアンの右手には、照明弾発射用のピストルが握られていた。
無灯火のまま走り続ける船の先には相変わらず漆黒の闇だけが広がっている。
突然、本田の脳裏にレーダーが異常な速さで根室海峡を動く点を捉えている映像が思い浮かんだ。そして動く点をじっと見つめている者たちがいる……。
(なぜ、そんなイメージが急に湧いてくるんだ?)
恐怖が生んだ妄想なのか? 本田は戸惑いを思えた。しかし、それは幾たびか命が危うくなる場に直面してきた人間の第六感がとらえた迫りくる危機へのシグナルだった。
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