闇に生き闇に死す④

 本田とユリアンが恵作の家に着いたのは夜七時を過ぎた頃だった。

恵作は一人で焼酎を茶碗で啜っていて、孫娘の美咲の姿は見えなかった。亡くなった父・恵雄と母の墓は札幌にある。夏休み、お盆の時期なので、両親の墓参りをするよう言いつけて、美咲を母親の実家がある札幌に行かせたという。孫娘を作戦に巻き込まないようにする恵作の気遣いだった。

「親父さん、すまないが少し休ませてもらうよ」

 さすがに六時間近いドライブは身体に堪えていた。漁具の置かれた土間から、居間に上がると本田は、畳の上にカーペットが敷かれた柔らかい床に倒れ込むようにして横たわった。急激に睡魔が襲ってくる。

 テレビからは公共放送のニュースが流れているのが聞えてきた。

『……東京都港区台場で東京地検特捜部の東堂啓介検事が転落死体で発見された事件で、東堂検事は、亡くなる直前に月刊紙「セレクト」編集部の記者二人と会っていたことが関係者の取材で分かりました。二人とは連絡がとれなくなっています。警察は二人の記者が何らかの事情を知っているとみて捜査を進めています……』

 ニュースのリード部分を聞いたところで本田は飛び起きていた。実名こそ報道されていないものの、当局が本田と矢吹の二人を特定して捜査を進めているのは明らかだ。本田が出身地の根室に舞い戻る可能性があると見て、捜査の手が伸びるのは時間の問題だった。

「これは、ぼやぼやしてはおれんなぁ」

 喉を鳴らして茶碗に残った焼酎を飲み干すと、恵作はすくりと立ち上がった。背筋がピンと伸びている。相変らず八〇歳を超えているとは思えないほど姿勢がいい。

「今夜にも出発するとしよう。だが、歯舞はぼまい群島の方へ抜けるのは無理だ。きのうから水晶島の手前に海保かいほ(海上保安庁)の巡視船が停泊しとる」

 恵作は、壁に貼りだした根室から知床半島にかけての漁場を記した地図の前に歩み寄り、知床半島の東側の付け根を指さした。羅臼らうすと地名が記されている。

「しかも、知床の羅臼漁協に聞くと、きのうから羅臼港にも海保の巡視船が入っているらしい。たとえ国後島へ逃げ込もうとしても海保の連中は、根室海峡の北からも南からも追跡できる体制をとっとるようだ」

 するとユリアンが恵作に歩み寄り、地図上を指でなぞりながら問いかけた。

「この、手を開いたみたいな形の半島からが、国後島までは最も距離が短そうですね? 」

「そう、野付のつけ半島だ。国後島までは十八キロほど。わしが考えているのもここから根室海峡を突っ切るという方法だ。夜陰にまぎれて根室から別海町べつかいちょうのオホーツクの海岸沿いに船を野付半島まで進めて、一気に国後島へ突っ込む」

 最後に地図に近づいた本田が、不安げに恵作とユリアンに話しかけた。

「幸い、今夜は新月だから夜陰に紛れた行動はとりやすい。でも、海保の側もそれは承知しているから警戒を強めているでしょうね」

「どの道、ここを突っ切るしか方法はない。あとは、ケイサクさんがどれくらいいい船を用意してくれているかだが……」

 ユリアンは、サングラスをかけたままの顔を恵作の方へ向けた。

「昔、さんざんロシアの国境警備隊や海保の連中と追いかけっこをした〝密漁屋〟の知り合いに整備しておいてもらったよ。さぁ、さっそく出かけるとしよう」

 恵作は、本田とユリアンの顔を見まわすとニッコリと笑った。蛍光灯の灯りを受けて恵作の歯がとても白く本田には見えた。


 根室市のオホーツク海側に、戦前、北方四島にあった十一の神社の神体を仮鎮座させている神社がある。根室金刀比羅ことひら神社だ。神社のある小山の麓に広がっているのが根室港で、ビザなし交流船の出発地となっている。漁船の停泊数は根室市内では最も多い。その中に、作戦のために恵作が手配したFRP強化プラスチック製の漁船はあった。

「木を隠すには森の中と言うじゃろ。船の数が多けりゃ少し見慣れないのがあっても目立たないもんだよ」

 日が暮れてからも根室港の波止場には、ぽつぽつ人通りはある。だが、四トントラックから降りて漁船に向かう恵作と本田の姿は、漁師と仲買業者のようにしか見えないようだ。さすがにユリアンは目立つのでコンテナの中に隠れている。

 この後の手順は、恵作が船で海路、風連湖へ。本田は、風蓮湖にトラックで先回りしてユリアンとともに恵作の船を待ち、到着次第、乗りこんで野付のつけ半島沖に向かう。

 ユリアンは、トラックのコンテナの中で、漁船に積み込む武器の準備をしていた。強化プラスチック製の床の下には、歩兵一個小隊が丸一日の戦闘を行うだけ銃火器と弾薬が隠されていた。

——火力が大きいのはRPG7対戦車ロケット砲か、GP25擲弾筒グレネードランチャーだが、命中精度を考えれば、RPG7か……武装隊員との交戦もあり得る。すると、AK74突撃銃アサルトライフルやPP2000サブマシンガンも必要になるかもしれない——

いずれにせよ〝戦争〟は避けられないだろうとユリアンは覚悟していた。

 漁船は船体の長さは三三尺(約一〇メートル)。ごく一般的な近海漁用の小型漁船だ。屋根の覆いは操舵部分にしかない。エンジンは一六〇馬力の船内機が一基だけというのが本来の姿だが、この船が異様なのは、船尾部分にゴム製の布で覆われた何やら大仕掛けな機械が取り付けられていることだった。

 本田を案内して漁船に乗り込んだ恵作は、船尾にあるゴムの覆いを叩きながら楽し気に話しかけてきた。

「二〇〇馬力の船外機が二つ取り付けてある。四〇から五〇ノット(時速七〇~九〇キロ)ぐらいは出せるそうだ。その速さになると漁船が競艇のモーターボートみたいに飛び跳ねながら海を走ることになる。しかもこのくらいの大きさの船だと結構小回りも効くから、なかなかロシアの警備艇も追いつけないし、機関砲の弾も当たらんらしい。中間ラインの向こう側から、散々ウニやカニを分捕ってきた『特攻船とっこうせん』だよ、こいつは」

 特攻船——高速の船外機をつけた漁船で北方領土周辺海域に侵入し、密漁を行う日本の漁船のことだ。一九七八年ごろにウニを密漁していた根室市内の暴力団員と漁師が当時のソ連の警備艇から逃げる方法はないかと思いついたものとされる。

 ところが同じ頃、北方領土周辺の好漁場をソ連が一方的に禁漁区域にしてしまった。漁場を失った一般の漁師たちまでもが特攻船に参入するようになり、最盛期の一九九〇年には三十六隻にも達していた。一回の漁で得られる売り上げはおよそ四〇〇~五〇〇万円とされ、八〇年代末から九〇年初頭にかけて根室に水揚げされるウニやカニの殆どは特攻船による密漁品が占めるようになっていた。

 密漁品とは言っても、本来ならば〝俺たちの海〟で捕れたもの。北方領土を不法占拠しているロシアに何の気兼ねがいるものか——日ロ間で北方領土周辺海域での「安全操業協定」が結ばれる前の時期、故郷の海を奪われた人々の不満と怒りが生みだしたのが、特攻船という異形の船だったとも言える。

「まさか今でも特攻船で、中間ラインをこえて密漁する連中がいるんですか? 」

「最近は、キンメとかメンメとかいう赤い色をしたメバルの仲間が高級魚でよく売れるらしいが、国後島の近くがいい漁場なんだそうだ。こいつを手配してくれたのは、国後島にかなり近づいて、その高級メバルを捕っとる羅臼漁協にいるわしの友たちだよ」

「つまり。密漁ですね? 」

「そいつも国後島の生まれでな。故郷の海で魚をとることを密漁と言われる筋合いはねぇというのが信条の奴だ。ロシアの警備艇に追われて、海保にも見つかったときには、風蓮湖の近くまで逃げてきて。わしに捕れた魚を預けていくんだ。没収を免れるためにな」

「それで日ごろ親父さんに世話になっているお礼に特攻船の提供ですか」

「おう、そいつの保証付きだ。ロシアの警備艇にも、海保の巡視船にも、こいつは追い付かれたことがないと言っとったよ」

 恵作は再び、ゴムの覆いごしに船外機を軽く叩いてみせた。

 根室港で恵作と別れた本田は、トラックで風蓮湖畔の砂州に向かった。「特攻船」とのランデブーポイントだ。日が暮れると砂州や、隣接する春国岳しゅんこくだいの干潟に人の姿は見えなくなっていた。本田は、トラックのコンテナの中に広げられた銃火器をはさんでユリアンと向き合っていた。波が出てきたようだ。コンテナの中に届く潮騒の音が次第に大きくなってきている。

「……そうか、だがいくら特攻船が速くても、日本の海上保安庁の巡視船が積んでいる機関砲から逃れるのは簡単ではない。M61バルカン砲といって、二〇ミリ機銃を六本束ねた砲身を回転させながら毎分六〇〇発の弾丸を撃ち出してくる。有効射程距離は二千メートル。コンピュータ制御で目標を自動追尾する機能もついている」

「二〇〇一年に九州の南西沖で北朝鮮の工作船を沈めたやつだな」

「そうだ。今ここにある武器でバルカン砲に対抗できるものはない。強いて言えばこいつを直撃させれば砲身を破壊することはできるだろうが」

 ユリアンは、先端に細長い菱形状の弾頭をつけた長さ一メートルほどのロケット砲を手にとり、肩に担いでみせた。

「RPG7対戦車ロケット砲だ。厚さ三〇センチ以上の戦車の装甲を撃ち抜くことはできるんだが、有効射程距離はせいぜい三〇〇メートルだ。しかも発射した後のロケット噴射の炎が目立つので、撃った方の位置が相手にすぐ分かってしまう」

「リーチも短いし、弾頭は一発だけ。外したら狙い撃ちにされるというわけか。確か北朝鮮の工作船もRPGを撃ち込んできたから、海保に反撃されて沈められたんだよな」

「ああ、先に撃って外したらそうなる。そうならない工夫はするつもりだが……船を沈められるのは、ある程度やむを得ないと思っておいた方がいいと思う。だからあらかじめウエットスーツを着用しておくことにする」

「でも、泳いで逃げ切れるのか? 相手は高速巡視船だぞ。バルカン砲でも撃ってくるだろうし」

「昨日のうちにロシアの国境警備隊に救援要請はしておいた。ダークウェブを介したメールでね。今夜この後、作戦を実施することも伝えてある。それで返信はあったんだが……」

 ユリアンはRPG7を床に下ろすと眉間に右手の親指を当てながら表情を曇らせた。

「あくまで救援できるのは中間ラインを超えてからだ。超えない限り手出しはできないと言っている」

「もし、中間ラインの手前で見つかって、沈められたら万事休すということか」

「そして死ぬことになる。奴らにとって私たちは生きてもらっていては都合の悪い存在だからな」

 その時、海の方から警笛が聞えてきた。恵作が操舵する特攻船が到着したらしい。

 本田が海の方を見ると、二〇〇メートルほど沖に、先刻根室港で見かけた特攻船の船影が浮かんで見えた。曇天のせいか星もまばらにしか見えない。次第に風が強まる中、木の葉のように波間で揺れる船影が、翻弄され続けてきた自分の姿を暗示しているようだった。

(どこまで行けるか分からんが、今さら後戻りもできないか……)

本田は一つ深いため息をついた。

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