闇に生き闇に死す③

 かなりうなされていたようだ。本田は目を覚ますとびっしょりと汗をかいていた。

額に浮かんだ汗を手で拭うと、手から血生臭い匂いが漂ってきた。指先や手の甲にはうっすらと赤黒い染みが残っている。人間の血というのは、一度洗っても簡単には流れ落ちてくれないものだ。流した者の怨念がこもっているからだろうか。

 昨夜、展望デッキで繰り広げられたユリアンと「特情とくじょう」の隊員三名との戦闘は、激しい風雨が幸いして、フェリーの乗員乗客に気づかれることはなかった。

「耳たぶ男」をはじめ三人の男たちが死んだことを確かめた後、本田とユリアンは、遺体を船縁から夜の海に投げ込んだ。本田の手に残っていたのは、海の藻屑と消えた「特情」隊員たちが流した血の残滓だった。

 夜は白々と明けてきたようだ。遮光性の弱いカーテンごしに朝の陽ざしを受けて、部屋全体が青白い光に包まれていた。隣の布団はすでに畳まれていて、部屋の中にユリアンの姿は見えなかった。

 本田が屋外デッキに出てみると海を見つめるユリアンの後ろ姿が見えた。雨はすっかり上がっていた。雲の合間から昇ったばかりの太陽が赤みかかった光を放ち、空と水平線を瑠璃色に染め上げていた。

 船縁から少し伸びをして顔を風にさらしていたユリアンは目を閉ざしていた。朝の風景を眺めていたわけではない。どうやら警棒による殴打で腫れあがった顔や上半身を冷たい風に当てて、痛みを和らげようとしているようだ。本田の気配に気づいたユリアンがこちらを振り向いた。特に左瞼の腫れがひどく、目はほとんど開かなくなっていた。

「身体のあちこちが痛んでな。とても眠れなかったもんだから風に当たっていたんだ」

 ユリアンは少し話すと表情を歪めた。口周りの筋肉を動かすだけで痛みが走るらしい。

「あまり、口を利かないほうがいいのかもしれないが、いろいろと聞きたいことがあるもんでな。少しこらえてくれ」

 本田の言葉に、ユリアンは苦笑いしながらうなずいた。

「本当に久しぶりだったんだが、さっきまでアリアンナの夢を見ていたんだ。アリアンナは俺に何か重大な秘密を打ち明けようとしていたとお前から聞いていたから、尋ねてみたんだよ。一体、何を俺に知らせたかったのかと」

 ユリアンは黙ったまま大きくうなずいた。

「ところがアリアンナの返事が聞こえてこないんだ。彼女も何かを懸命に伝えようとしているんだけどな。俺は叫んだよ。一体、何を伝えたいんだって。叫びつづけるうちに目がさめてしまった。それで、もう一つ彼女にどうしても聞いておきたいことがあって。もし、お前が答えられるなら答えてほしくてな」

「うかがおう」

「なぜ、アリアンナは秘密を打ち明ける相手に俺を選んだんだろう? 所詮、俺は彼女からすれば……いや、きみらからすれば仮想敵国の人間でしかなかったはずだ。そんな人間をなぜ、彼女は信用しようとしたんだ? 」

 ユリアンは少し思案するように俯いたが、フッと、ため息をつくと痛みを抑えるためにゆっくりとした口調で語り始めた。

「アリアンナがきみに睡眠剤の入ったロシアンティーを飲ませたことを覚えているかい? なぜ彼女があんなことをしたのか…」

「当時から薄々思ってはいたが、きみたちの素性から考えれば、やはりハニートラップにかけようとしたわけだろう? 」

「そう。だが、きみは罠に落ちなかった。当初は、アリアンナの手で籠絡したきみを介して、日本の当局に偽情報を流すことを考えていたんだがな。失敗してからのアリアンナが大変だったんだ……」

 冷戦期のソ連以来、ロシアの諜報機関が肉体を武器にした女性工作員の活動を有力な謀略手段にしているのは暗黙の事実だ。同時にそれは国家の名の元に女性に売春を強要することに他ならない。ユリアンの後を追い、祖国防衛を担おうとSVRに入ったアリアンナにとって「性」を道具にした活動は、理想とは懸け離れたあまりにおぞましい現実だった。

「同じ工作員でも女というだけで蔑まれるのがロシアの諜報機関だ。でも、工作がうまくいっている時は何とかアリアンナの精神も持ち堪えられていたんだ。たとえ身体を差しだしても、男にはできない形で祖国に貢献できるということでね。だが、それもきみへの工作が失敗したことで彼女の精神を支えていたものが一気に崩れてしまった。

『国の役にたてない私は売春婦と同じ。もう生きている意味なんてない』と言って何度も自殺を図ったんだ。同時に祖国を呪うようにもなった。なぜ、国は私にこんな役割しか与えてくれないのだろうか。他にも役に立てることがあるはずなのに、と。私は深い罪の意識に苛まれたよ。アリアンナをこんな生き地獄の世界に引き込んだのは私なのだから」

 ユリアンの表情が歪んでいるのは、負った傷の痛みのせいだけではないことは明かだった。女であるがゆえに強いられる理不尽な運命——本田は、投身自殺した河田美幸のことを思い起こしていた。女は子どもを産む道具でしかない、という運命に抗って苛酷な政治の世界で生きる道を模索していた美幸。だが、女ゆえ、母親ゆえの弱さを狡猾な男たちに責められてついに精神に破綻を来してしまった。

(身を投げる寸前の美幸の顔に、アリアンナの面影が重なって見えたのはそういうわけだったのか……)

 本田は、理不尽な運命を背負って生き、ついに力つきたアリアンナと美幸のことが哀れに思えてならなかった。

 表情を歪ませながらユリアンが再び口を開いた。

「精神的に不安定だったがアリアンナは、工作員の任務を続ける意思は強く持っていた。かといってもうセックスに関わる活動なんかさせられない。私はこれ以上アリアンナを傷つけずに諜報活動に復帰させる方法を必死で考えていた。そこへきみから黒崎外相が訪ロするという話を聞いた。私は咄嗟に、黒崎を使って日本側を攪乱できないかと考えた。そこで、アリアンナを「四島返還」を主張するアナトリー・ビルデルリングの密使に仕立てて、黒崎に接触させるという作戦を立てたんだ」

「そして俺は、まんまとあんたたちの工作にひっかかったということか」

「きみを利用したことはすまんと思っている。でも何よりもアリアンナの心を癒したのは、あのロシアンティーの騒動の後、再会した時に、きみからかけられた言葉や、気遣いだったんだよ」

「俺もあの時は、アニーの四島返還論を日本のメディアに報じさせることに必死だった。アリアンナには上手く芝居をしてもらわなくては、と思っていたからな」

「アリアンナは言っていたよ。きみは決して蔑んだ目で自分を見なかったと。これまで一度でも自分を抱いた男たちは所詮、安易に身体を売る女だと侮る目を向けてきた。でも、きみは決してそうではなかった。そんな男もいると分かったことで、アリアンナは人間と言うものにわずかでも希望が持てるようになったのではないかな。

恐らくアリアンナは、抱えていた秘密を漏らすことが命の危険をともなうことも承知していただろう。それでもきみに打ち明けようとしたのは、きみに心を救われたからだと思うんだ」


 本田は、去年夏のモスクワで、黒崎外相のレセプションに行くため、アリアンナをアパルトマンまで迎えにいったときのことを思いだしていた。

鮮やかなブロンドの髪は黒貂の帽子の中に束ねて、漆黒のコートを身にまとい、ひどくぎこちない足取りで現れたアリアンナ。不安そうな硬い表情を浮かべて目にはいっぱいの涙をためていた。

 少しでも安心感を与えようと本田は努めて、にこやかな表情でアリアンナに歩み寄った。

「どうしたんだ? これからきみの名女優ぶりを拝見しようと思っていたのに、もっとリラックスしなくっちゃ」

 アリアンナの顔は、こぼれ落ちた涙で濡れていたが、心から安堵したような笑みが浮かんでいた。

(あんな他愛のない言葉が救いになったのか? アリアンナ。あんな言葉しかかけられなかった俺に、何かを打ち明けるために命をかけたのか? アリアンナ……)

 彼女が命をかけて知らせようとした秘密とは何だったのか。アリアンナへの哀惜が募る中で、本田は何としても探り当てたいと強く思うようになっていた。


 午後一時三〇分。フェリーは苫小牧港に到着した。

本田とユリアンが、船内の駐車場へ向かう途中、船内放送がスイートルームに宿泊していた四人の客の名前を呼びかけていた。どうやら行方が分からなくなっているらしい。人数からするとCIAのイーグルと「特情」の三人が使っていた偽名のようだ。

「じきに、日本の警察が船に乗り込んできて捜査が始まる。さぁ、とっととずらかることにしようぜ」

 目元や口元の傷を隠すために、サングラスとマスクをつけたユリアンが、助手席から本田に声をかけた。どこでそんなヤクザな日本語を覚えたのかと不思議に思いながら本田は、四トントラックをスタートさせた。フェリーから走り出た本田の視界には、幾分秋めいた筋雲が広がる北海道の青空が飛び込んできた。

 苫小牧の市内を抜けて北上し、千歳東インターから道東自動車に乗って東へ向かう。根室までは約五時間半の道のりだ。片目が殆ど塞がって、満身創痍のユリアンに運転を任せるわけにはいかない。昨夜のイーグルたちとの戦闘で、張り詰めていた神経が単調なドライブの中で緩んでくる。本田は、睡魔に飲み込まれないようにユリアンに語りかけ続けた。

 すると、ユリアンはモスクワから姿を消した後のことを話し始めた。

「アリアンナが殺された後、私はサハリンの親父ミシチェンスキーの元で謹慎することになったんだが、その時、親父のところへ意外な男が訪ねてきたんだ」

「誰だ? 」

「アナトリー・ビルデルリングだ」

「アニーが? 」

「開発が遅れているシベリアや極東には、ベゾブラゾフ政権への不満がくすぶっている。今年秋の大統領選に向けて政府への不満を票に結び付けようとアニーは極東での地方遊説に力を注いでいたんだが、その最中のことだった。

 ユジノサハリンスクの郊外に親父の別荘があってね。私は別荘敷地内の小屋で寝起きさせられていたんだが、深夜、急に親父が護衛ボディガードを連れてやってきて、〝きょうここで見たことは誰にも言ってはならん〟と釘を刺されたんだ。すると、三〇分ほど後に、駐車場に車が止まって、降りてきた三人の男が親父のいる母屋の方へ歩いて行った。そのうちの一人はブロンド髪の長身の男で、紛れもなくアナトリー・ビルデルリングだった」

「で、二人が何を話していたのかは…」

「さっぱり分からない。私がいる小屋には、銃を携帯した親父の護衛がいたので外には出られなかったのだ。元から私を見張るつもりで連れてきたのだと思う。だいたい二時間ほど話しこんでいたのではないかな。それから数日後だった。私が、今回の作戦の指示を受けたのは」

治安機関シロビキ出身でベゾブラソフとも近いミシチェンスキーと、反体制政治家のアニーか」

「そんな二人がなぜサシで密談していたのか。不思議に思ってはいたのだがね」

 ミシチェンスキーとアニー、そして黒崎……。本田は三人がともに北方領土の「二島返還決着」には反対していることに気がついた。だが、意図するところが違う。

 アニーと黒崎は「四島返還」を前提に日ロ間の平和条約締結をめざしているのに対して、ミシチェンスキーは領土返還そのものに反対しているからだ。いわば互いに相容れることのない水と油のようなもの、のはずなのだが……。

 あるいは、この三人の間に何らかの密約があるということなのか? では、ミシチェンスキー、アニー、黒崎、——三人が利害を同じくして、目指すものとはいったい何なのか?

 車窓の風景は、いつしか十勝の田園地帯から、道東の湿原と牧草地へと変わっていた。太平洋の沖合を南下して流れる千島寒流の影響で、車窓から吹き込む風は次第に肌寒くなってきた。古河恵作の待つ根室が近づいていた。

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