闇に生き闇に死す②

 ゲリラ戦の要諦は、相手に気づかれずに奇襲をかける絶好の位置を確保することにある。ユリアンにも分かっていたことだが、改めて追手の男たち——自衛隊の秘密部隊「特情とくじょう」の恐ろしさを実感した。彼らはロシアや東欧諸国にも秘密裏に潜入して諜報活動を行っていたともいう。ロシア語を巧みに話すこの男はそうした一人かもしれない。

 間もなく同じように髪を短く刈り込み、やや鼻の潰れた男を従えるような恰好で本田が席に戻ってきた。本田の顔色は先刻の船酔い症状が見られた時のように真っ青だ。背後にいる男は赤いパーカーを肩から羽織っていたため正面以外からは見えないが、右手には消音装置付きのベレッタM9が握られていた。恐らくユリアンが背中に感じているものの正体も同じだろう。本田とユリアンは二人の男に挟まれる形で席を立ち、レストランを出た。

四人は階段を登って一つ上のフロアに出た。スイートルームが並ぶ廊下には人の姿はなく、その先に展望デッキへの出口が見えた。

 そのまま廊下を突っ切り、展望デッキに出ると横殴りの風が吹き付け、雨が容赦なく降り注いだ。

二人の男たちは本田とユリアンの背後に回りこみ、退路を断つ態勢をとった。やがて闇に眼が慣れてくるとレインコートを着た二人の男の姿が見えるようになった。

一人は右腕を肩から通した帯で吊るしているのが分かった。ヤッケを被っているので特徴的な耳たぶは分からないが、重量級の柔道選手のような体格から「耳たぶ男」と推察された。すると、隣の痩せたシルエットは工作指揮官ケースオフィサーのイーグルか。

 背後にいた男たちが、本田とユリアンの身体を探り始めた。本田のジャケットの内ポケットからはマカロフPMが。ユリアンが胸に吊るしたホルスターからはヘッケラー&コッホP7M8が取り出され、ユリアンが足首に忍ばせたアーミーナイフも見つけ出された。

 「耳たぶ男」はユリアンのヘッケラー&コッホを手に取り、銃口と照準の具合を確かめた後、レインコートの懐にしまい込んでユリアンと本田の前に歩み寄った。

「思ったとおり武装していたな。これであんたらはテロリストということになる。おかけでどんな目に合わせても正当防衛という理屈が通せるよ」

 薄暗い中だったが、耳たぶ男が白い歯を見せたのが分かった。男は腰のあたりから銀色の棒状のものを左手で抜き出し、ユリアンの肩の上に乗せた。どうやら南千住の東京メトロの車両倉庫で、矢吹を殴りつけるのに使った特殊警棒のようだ。

「命中精度の高い銃を使っていたとは言え、あの転んだ姿勢で見事な射撃だったな。おかげ俺の右肩甲骨は粉々に砕けちまったよ。俺はこう見えて柔道よりも剣道の方が得意でね。竹刀で相手を思うさまぶっ叩くのが何よりの楽しみだったんだ」

 そこまで言うと、耳たぶ男は特殊警棒の先をユリアンの首元に押し付けた。ウッ、と声を発してユリアンが顔をゆがめる。その後、耳たぶ男は嬲るようにして警棒でユリアンの顔の表面を撫で上げていった。

「たとえ傷口が塞がっても、砕けた骨は完全には元に戻らないらしい。思うさま竹刀や木刀を振ることもできなくなる。俺はあんたに何よりの楽しみを奪われちまったわけさ」

 ユリアンの首筋から顔にかけて警棒を這いあげていった耳たぶ男は、警棒が左頬まで達するとこれを一閃させてユリアンの左ひざに打ち込んだ。獣のようなうめき声を上げてユリアンは崩れ落ちて左ひざを抱えてしゃがみこんだ。だが、すぐに背後にいた男に引き起こされて、膝をついた状態で耳たぶ男を仰ぎ見る格好になった。警棒は上を向いたユリアンの顎の下に押し付けられていた。

「思う存分、力の限り人を叩きのめせる。こんな楽しくて気持ちいいことはなかったよ。何よりの楽しみを奪われたことが悔しくて、悔しくてならなくてなぁ。あんたに会ったらこの礼はたっぷりさせてもらおうと思っていたんだよ」

 耳たぶ男がそこまで言うと、特殊警棒は鈍い銀色の光を発しながらユリアンの首筋や、肩、横っ腹、頬へと振り下ろされるのが本田にも見えた。金属の棒が肉に食い込み、裂ける音と、ユリアンの悲鳴が聞こえてくる。

(ああ…このまま俺も嬲り殺されるのか……)

 風雨にさらされる寒さと拷問を見せつけられた恐怖で本田が全身を振るわせていると、耳たぶ男の横に立っていた痩せた影が近づいてきた。

「北海道のクシロといったかな。夜の街の酒場で会って以来ですな。あの時、言った通りになった。このまま手を引くも良し。あくまで我々を追うと言うのならそれも良し。なぜなら、あなたに近づいてくる我々の『真の敵』を炙り出してくれるから、とね。まぁ、出てきたのはこの男と、この前叩きのめした日本人潜伏協力者スリーパーと合わせてネズミが二匹。大した成果はなかったが」

 淡々として感情の起伏のない初老の男の皺枯れ声だった。吹き付ける風に煽られてヤッケの中で伸びた白髪が揺れているのが分かった。

「あなたたちが北海道に向かうのは読めていた。恐らく北方領土に忍び込んでそのままロシアへ逃れる気だろうとね。陸路と空路は日本の捜査機関に任せて、我々は船便を担当することになりました。日本側が見つけた場合は、速やかに我々に引き渡すこと。我々が見つけた場合は、我々の手で速やかに処分すること。日本の捜査当局は了解済みです。その前にですね——」

 イーグルが本田の顔を覗き込んできた。薄く漏れる船窓の灯りを受けてアイスブルーの瞳が冷たく光って見えた。

「ミスターホンダ。きみの手元にある検事の音声データをいただきたいのだ。クラウドに保管してあるなら、IDとパスワードを教えてもらいたい。協力してもらえるなら、あなたの命だけは助けてもいいと思っているんだがね」

 南千住の時と同じだ。連中はあの東堂検事の音声データの存在を恐れている。まずは、強い恐怖を抱かせて本田の口を割らせて、その後、始末するつもりだろう。だが、音声データの所在をつかむことができない限り、本田を手にかけることはできないということだ。

(二度と同じ手が通じると思うなよな……)

 本田は、沈黙を続けることを決心した。

暫し沈黙が流れた後、イーグルがいら立ちの混じった声をかけてきた。

「何も言ってもらえないというなら仕方ない。今度は体に聞かせてもらうしかないな。おい、そっちの具合はどうだ? 」

 イーグルは、特殊警棒でユリアンを打ち据え続けていた耳たぶ男に声をかけた。

「ええ、気を失ってしまったようです。私の気もすみましたよ」

 耳たぶ男は、口角をあげて残忍な笑みを浮かべている。ユリアンはうつ伏せになったまま動かなくなっていた。耳たぶ男の左手に握られた警棒には、ユリアンの血が飛び散ったのか、ところどころ黒い斑点が浮かんでいるのが見えた。

「よし、じゃあ今度はミスターホンダの身体に聞くことにしようか。そっちのネズミはもういい! 海の中へ放り込め! 」

 イーグルの指示を受けて、耳たぶ男がゆっくりと特殊警棒を左手に持って本田の方へ歩み寄ってきた。

(口を割ったらおしまいだ。五体満足でなくてもいい。生きて帰るためには、絶対口を割らないことだ……)

 本田は、こみあげてくる恐怖を押さえようと目を閉じた。

耳たぶ男の向こうでは、動かくなったユリアンを二人の男が海へ投げ込むために担ぎ上げようとしていた。その時だった。

 担ぎ上げられたユリアンは渾身の力で二人の男を振り払い、転がりながら革靴の右足の踵に手をかけた。すると踵がスライドして靴の底から一本のナイフが姿を現した。男たちと五、六メートルの間合いで膝立ちになったユリアンの手には取りだしたナイフが握られていた。刃渡りは一〇数センチ足らず。とても銃を持った二人の男に立ち向かえるとは思えない。

 男たちが上着の懐ろから銃を取り出そうとした時、ユリアンはナイフを男たちに向けて突き出した。すると刃の部分が飛び出して、目の吊り上がった男の胸に深々と突き刺さった。胸にナイフの刺さった男は、驚愕の表情を浮かべたままその場に崩れ落ちた。

 ユリアンはそのままの姿勢でナイフの柄をさかさまに持ち替えると、もう一人の男の方へ向けた。鼻が潰れたもう一人の男は暫し茫然としていたが、慌てて銃を構えた。しかし一瞬早くユリアンが、ナイフの柄に着いたレバーを指で引くと銃弾が発射された。

 発射された銃弾は鼻の潰れた男の喉に真正面から命中した。男は銃を放り出し、両手で喉を押さえたが、たちまち喉と口から血があふれ出してきた。

ゴボッ、ゴボッ、という音を立てて大量の血を吐くと男はその場に倒れこみ、唸り声をあげてのたうち回り始めた。出血で気道が塞がったために窒息しそうになっているらしい。

 二人の男が倒されたのを見ていた耳たぶ男は、特殊警棒を放り出し慌てて胸元のホルスターから銃を取り出そうとした。だが、右手で抜くために左脇に据え付けられているホルスターから、左手ではすぐに銃を抜き出せない。耳たぶ男が手間取る間に、ユリアンは倒した男の放り出した銃を素早く拾い上げていた。

「おい! 」

ユリアンは「耳たぶ男」に声をかけた。男の顔がユリアンの方を向いた。

「これが俺からあんたへの礼だ」

 ユリアンが握ったベレッタM9から放たれた9ミリパラぺラム弾は、耳たぶ男の額のど真ん中を撃ち抜いた。男は後頭部から脳漿を飛び散らせながら真後ろに倒れた。

すべては三〇秒足らずのできごとだった。ユリアンはベレッタM9の銃口をイーグルに向けて少しずつ間合いを詰めていた。一方のイーグルは、血だまりの中で倒れている耳たぶ男に歩み寄ってかがみこむと、見開いた瞼を閉じてやっていた。胸にナイフの刺さった男は全く動かなくなっていた。喉を撃たれた男もわずかに足を痙攣させていたが間もなく、こと切れようとしていた。

発射式ランチャーナイフとピストルを内蔵したロシア連邦軍特殊部隊スペツナッズ用ナイフか。SVRにもあんなものを扱う猛者がいたとはな……」

 イーグルはそう言って立ち上がると船縁の方へとゆっくりと歩き始めた。

「止まれ! 」

 ユリアンは叫ぶと、血の混じった唾液を吐いた。口の中を切って出血しているのか話し辛そうだ。ユリアンの左目は腫れあがって殆ど塞がり、頬の右側も裂けて血が滴り落ちているのが本田にも見えた。

「あんたにはこのまま俺たちと一緒に来てもらう。生き証人として自分たちの仕組んだ陰謀を洗いざらいメディアに公表してもらうつもりだ。いいな! 」

 ユリアンの声を聞いて立ち止まったイーグルは、ユリアンの方を向いてレインコートのヤッケを取った。よほどこだわりがあるのか、白いフェードラハットを被っていた。

「きみらには私などは薄汚い策謀家にしか見えんのだろうがね。私は、一貫して愛国者として生きてきたつもりだ。キューバ、ベトナム、イラク、血生臭くて汚い仕事ばかりだったが、それがアメリカという国、いやむしろ理念と言った方がいい…そう、民主主義デモクラシーだよ! 民主主義を守るためと信じたからこそ、この手を血まみれにしても続けてこられたのだ。どんなに大勢の敵を、たとえ女子どもだろうが殺めても。どんなに多くの仲間や部下を失ってもな。そうやって生きてきた年寄りに、今さら信じてきた国を裏切れなどとは……できる相談だと思うかね? 」

 これまで聞こえていた枯れた老人の声ではない。感情のこもった湿度と、妙な切なさを感じさせるイーグルの声だった。アメリカの闇を背負って生きてきたこの男にも、この男なりに信じる大義があったということか。

 しかし、それでもなお本田には、イーグルたちがめぐらしてきた陰謀に対する疑問を拭うことはできなかった。

「なるほど、民主主義デモクラシーのためか。だがな、今のロシアのベゾブラゾフ体制を容認して、反体制派をつぶすことが民主主義のためになるのか? 己の権力を守るために意に反する者を徹底的に弾圧して、隣国の主権も平気で犯す男の独裁国家と手を握るなんて——今のアメリカはあんたが信じてきた民主主義の理念を掲げている国だとは俺にはとても思えない。それでもあんたは愛国者と胸を張れるのか? そんな国のために死ねるのか? 」

 本田、ユリアン、イーグル。三人の男たちが立ち尽くす中、風で吹き流された雨が、デッキに打ち付ける音だけが暫し響いていた。

「フフフフ……」

 乾いた笑い声を漏らしたのはイーグルだった。先ほどの独白で見せた感情の湿りは消え失せていた。

「私と国とのつきあいは、もう五〇年をこえている。先に逝った家内と連れ添った時間よりも長い。いつもこちらを振り回すどうしようもない性悪女だと分かってはいるのだがね。今さら離婚するわけにもいかんのだよ。第一、別れてしまったらどうやって生きていけばいいのか……私にはとんと検討がつかん」

「イーグル……」

 本田は、ユリアンよりも前に進み出てイーグルに近づいた。

「少し聞いてもらえるかな? 俺には北方領土生まれの祖母がいる。九〇近いその婆さんから最近言われたことがあるんだ。自分たちの世代は返還運動を続けるために国に頼って、結局、利用されることになった。

だけどお前たちは、もう国なんかに頼らないで、自分が信じたこと。やらなければならんと思うことを存分にやっていけばいい——どうだろう、あんた自身、どうしようもない性悪だと分かっているなら、国のためなんかにここで死ぬよりも、本来、あんたが信じてきたもののため。民主主義ってやつのためにもう一度生き直してみようとは思わないか? 」

 話を聞いていたイーグルがどんな表情を浮かべていたのか。暗闇の中で本田には分からなかった。時間としては一〇数秒ほど、本田の方をじっと見つめた後、イーグルは再び船縁に向かって足早に歩き始めた。

「止まれ! 止まるんだ! 」

 ユリアンが射撃姿勢をとろうとした時、振り向いたイーグルが、被っていたフェードラハットを手に取って腕を旋回させた。ブーメランのように飛んできた帽子は、ユリアンの手の甲の肉を薄く切り裂き、ユリアンはベレッタM9を取り落としてしまった。帽子のツバには刃物が仕込んであったらしい。

 ユリアンが銃を拾い上げた時には、イーグルは船縁のロープに手をかけていた。イーグルが再び本田とユリアンの方を振り向いた時、船縁についた照明が、風に白髪をなびかせる老人の顔を浮かび上がらせた。そこには相手に一杯食わせたことに得意満面な悪童にも似た晴れやかな笑みが浮かんでいた。

「いい話を聞かせてもらったお礼に忠告しておこう。私から見て、今のきみたちは、結局のところ、ミシチェンスキーの思惑どおりに動いている。自分たちは己の意思だと思っているようだがな。あの男はきみたちを操ることで途轍もないことを企んでいる。

 うなされるような情熱に突き動かされている時には用心しろ。自分たちを躍らせている何者かがいるかもしれん。それが、国家という奴に散々踊らされてきたこの年寄りが、きみたちに残せるせめてもの花向けだ! 」

 言葉が途切れた後、イーグルの姿が船縁から消えた。本田とユリアンは駆け寄って船縁の下を覗き込んだ。そこには風雨が吹き寄せる音と、船が波濤を蹴立てて泡立つ白い航跡が、暗闇の中に薄っすらと見えるばかりだった。

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