闇に生き闇に死す①
夕暮れ時になって雨が降り始めた。
午後六時過ぎに
警察の検問が行われている様子はない。周囲を見渡したが、「耳たぶ男」をはじめ追手らしい男たちの姿も目に付かなかった。夏休みを北海道で過ごそうという家族連れや若者たちの歓声があちこちで上がっていた。
乗船手続きを終えて駐車場に戻るため、ターミナルビルを出ると風が勢いを増していた。フェリーの船体と岸壁に打ち寄せる波が、オレンジ色の照明に照らし出されて白く泡立つのが見えた。これから沖に出ればますます時化になる。船酔いに弱い本田は、これから十七時間余りの船旅が苦悶することの連続になりそうで憂鬱だった。
ユリアンがトラックの運転席に乗りこんだ途端、さらに気が重くなることを聞いてきた。
「カズマ。きみ、銃は扱えるか? 」
「軍務の経験がない俺にそんなもの、扱えるわけがないだろう。普通の日本の民間人は、本物の銃なんて一生、手に取ることはないさ」
「じゃあ、後でマカロフの扱いを教えるようにする。これから先、いつ奴らが襲ってくるか分からん。最低限自分の身は自分で守れるようにしておいてもらわないとな」
「俺と矢吹を拉致した連中のことか? あいつら一体何者なんだ? CIAの指揮で動いているようだが、大和フォーラムの会員でもあるようだし」
「特情というのを聞いたことがあるか? 」
「トクジョーだって? 」
「統合幕僚監部運用支援・特別情報班。通称『
特情の活動は、通信や信号を傍受して解読・分析を行う「
本田にも「
「ところが政権に返り咲いた保守党政権の江藤総理のもとで『特情』は生き残ったんだ。江藤は、組織の存続を約束する代わりに『特情』を完全に自らの支配下に置いた。そして、CIAや
降りしきる雨が大きな音をたててフロントガラスの表面を流れ落ちていた。その様子を見つめるユリアンの横顔をふ頭のオレンジ色の照明が照らしている。表情には猛禽類のような険しさが漂い、赤みを帯びた横顔が本田には赤鬼のように見えた。
午後七時四五分。フェリーは大洗港を出港した。
本田とユリアンは、人目につかないよう二〇人余りが雑魚寝をする大広間や、二段ベッドの並ぶキャビンを避けて、二人用の和室を予約していた。
部屋の広さは四畳半でテーブルが一つ。壁掛けの液晶テレビが据え付けられ、二組の布団が畳まれていた。三陸沖に中心を持つ低気圧の影響で沖に出るにつれて波は高くなり、船の揺れが次第に大きくなっていくのが分かった。
部屋に入って三〇分。少し酔い始めていた本田は気分が優れず、ほとんど口を利かなくなった。本田の体調の悪さをユリアンも察していた。
「これから長丁場になるからまずはしっかり食事をしておいた方がいい。レストランが、あと三〇分ほど営業しているから行ってみないか? 」
「この後、時化てくるとみんな吐き出すかもしれないぜ」
「それでも幾分かは体に栄養は吸収できるさ。戦う前に何も口をしないのがいちばん悪い。最低限のコンディションを整えることを自ら放棄しているんだからな。命を落としても自業自得ということになる」
やはり実戦経験のある男が言うことには説得力がある。本田は青い顔をしながらユリアンの後についてレストランへ向かった。
閉店時間が近いせいか、部屋へ帰っていく客が多い。食事はバイキング形式だったが、どの総菜も残りが少なくなっていた。どのみち吐くようなことになってもたくさん食っておけば栄養も多めに摂れるだろうと、本田は些か自棄気味に総菜を山盛りにすくっていった。
フェリーがめざす北海道・苫小牧市に隣接する
「一回の食事には適度な分量ってものがあるぞ」
「この後、何回まともな食事がとれるか分からないんだろう。だから、思い残すことがないように食っておくことにしたんだ」
「きみは神経が細いんだか、図太いんだか分からないところがあるな」
フェリーに乗り込んで以来、緊張気味だったユリアンの表情が幾分緩んだ。いくら優秀な兵士でも緊張の連続では精神が持たない。まずは「ザンギ」にかぶりつきながら本田は、自分の開き直った態度を見てユリアンがリラックスできたことを喜んだ。
閉店時間を三〇分余り過ぎて店内に残る客も殆どいなくなった。テーブルに向き合って座る本田とユリアン。いつの間にか、それぞれの背後に一人ずつ背を向けて座る男性客だけが残っている状態になった。
本田が食後のコーヒーをもらってくると言って席を立った。すると本田の背後に座っていた男が立ち上がって本田の後を追った。
男の動きにユリアンが不審なものを感じた時には、すでに手遅れだった。ユリアンは背中に筒状の物を押し当てられるのを感じた。
「そろそろ“最後の晩餐”もおしまいの時間だ。あんたも思い残すことがないくらい食事はできただろう。もうじき仲間があの記者と一緒に戻ってくる。くれぐれも大人しく一緒に着いてきてくれ」
流暢なロシア語だった。ユリアンが背後をうかがうと髪をGI風に短く刈り込み、吊り上がり気味の目と酷薄そうな薄い唇をした東洋人の男が立っていた。
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