激闘の幕明け④

 窓には遮光性の高いカーテンがかけられていた。外の明るくなった感じから、すでに時刻は昼近くと思われた。スタンガンで出来た首筋の火傷には膏薬が貼られて痛みが和らいだが、鳩尾みぞおちに食らった一撃の痛みが鈍く続いていた。本当に昨晩から体のあちこちを痛めつけられっぱなしだ。本田は我ながら腕力の無さが情けなくなっていた。

 本田が腰かけているソファは水牛の皮製で、テーブルはマホガニーのようだった。足元の絨毯も朱色の毛羽だったものでとても柔らかだ。貴賓室に通されたと言っていいだろう。

 ただ、重厚な木製ドアの前には、一九〇センチ近い長身の筋肉流々とした、いかにも警護役といった男が後ろ手を組んで立ち、虚空を見つめている。ダークブラウンの髪の毛に薄緑色の瞳。白人だが、西欧人よりもやや平たい顔の作り。遠い先祖が中央アジアあたりから来たことを偲ばせるスラブ人の顔だ。昨夜からの出来事を思い返せば、今、自分がいるのが港区狸穴のロシア大使館だと本田にも想像がついた。

 状況としては軟禁状態——いや匿われていると見るべきか。恐らく外では、CIAと日本の捜査当局が本田と矢吹の行方を捜しているだろう。或いは、ロシア大使館に連れ込まれたものと見て建物を外から監視しているかもしれない。いずれにせよ今、この国に自分の身の置き場はなくなった。せっかく真鈴とやり直すきっかけがつかめたというのに、もう帰れそうもないのか……本田の思考は結局、悲観的なところへ落ち着いて、この一時間近くは両腕を膝の上に乗せ、俯いた姿勢でため息ばかりを繰り返していた。

 ふいに木製のドアをノックする音が聞こえた。警護の男はドアを開けると弾かれたように挙手の礼をして、入ってきた男を出迎えた。ユリアン・コンドラチェンコだった。青いデニムのジーンズに白いシャツの上から作業着風の紺のジャンパーを羽織っている。本田と目が合った。本田が意識的に睨みつけたせいか、顔には戸惑うような表情が浮かんだ。

「伍長、少し彼と二人きりで話をさせてくれないかな? 」

「ダー! 」

 伍長と呼ばれた警護役は、きびきびとした動きで一礼すると退室してドアを閉めた。

 ユリアンは応接テーブル向かいのソファに腰を下ろした。暫し、二人は無言で向き合ったが、本田の怒気を含んだ視線にたまりかねて目をそらしたユリアンは自らの素性について話し始めた。

 自分の正体はSVRロシア対外情報庁工作指揮官ケースオフィサーであること。モスクワで名乗っていた「セルゲイ」という名は偽名であり、アリアンナともども本田を協力者にするために近づいたこと。アリアンナは配下の工作員であり、実妹ではなくウクライナ出身の孤児で、ミシチェンスキーの元で兄妹同然に育てられたこと。などなど、ユリアンはかいつまんで流暢な日本語で打ち明けていった。

「矢吹の具合はどうなんだ? かなり殴られていたようだが」

 黙って睨みつけていた本田が初めて問いを返してきた。取り付く島ができたと思ったのか、ユリアンの表情が少し和らいだ。

「頭部に裂傷があったけれど、幸い頭蓋内に出血はなかった。頭をかばったせいか左の腕と手の指を骨折していたけどね。大丈夫、命に別状はないよ」

「矢吹はいつからあんたたちの協力者になっていたんだ? 」

 ユリアンは一瞬口を噤んだが、今更隠し立てしても仕方ないと観念したようだ。

「モスクワに留学していた時にSVRウチのスカウトに遭ったと聞いている。もっともそういう含みで父親からモスクワ留学を勧められたらしいから、二代に渡って潜伏協力者スリーパーだったということになるのかな」

「そういう子飼いのモグラのところに、俺はまんまと飛び込んでいったというわけか」

「いや……きみを作戦に巻き込むつもりはなかったんだ。もともときみの果たした役割はタクヤに引き受けてもらうつもりだったんだが、彼が苦労しているところへ偶然きみが現れた。私には正直抵抗はあったんだが、きみならばクロサキ側も取材に応じるはずだと、タクヤが強くきみを協力させるよう勧めたものだからね。結果的には彼の勘は当たって、クロサキの秘書を取材することもできたし、国策捜査の一端を世に知らしめることができた」

「あの記事で焦った東京地検特捜部は、さらに国策捜査の網を広げて出口の見えないところへ追い詰められた。そこへあんたらは検察内部の協力者を使って幹部の裏金帳簿を盗み出して揺さぶりをかけた。たまらず飛び出してきた特捜検事を俺に取材させて、とうとうCIAと江藤が組んで黒崎の失脚を仕掛けたことを自白させたというわけか。ふん、俺もとことん利用されたもんだな。それよりも俺が知りたいのはアリアンナのことだ。なぜ、彼女は殺されたんだ? もしくはあんたが始末したのか? ならば訳を知りたい」

 とたんにユリアンの表情が強張った。小刻みに口元が震えている。容易に物事には動じない男には珍しく、感情が噴き出すのを懸命にこらえていることが本田にも伝わってきた。

「私にも詳しいことはよく分からないんだ。何か重大な秘密をきみに伝えようとしたところ、FSBロシア連邦保安庁の殺し屋どもの手にかかったとミシチェンスキーのオヤジからは聞かされている…」

「重大な秘密って何だ? FSBの誰が殺ったのか分かっているのか? 」

「それはオヤジも分からんと言っていた」

「それで納得したのか? 妹同然のアリアンナが殺されたんだぞ」

「私も、SVRやFSBだけじゃない。GRU連邦軍参謀本部情報総局の連中にも当たってアリアンナを殺った奴を探したよ。でも皆目分からない。むしろ、SVRの中に犯人がいるんじゃないかって情報もあって…」

「じゃあ何か? 組織の身内にアリアンナは殺されたのかもしれないわけか? よくもまぁ肉親同然の人間を殺されて、犯人がいるかもしれない組織のために働くことができるな! やっぱりあんたは根っからの犬ってことか! 」

 本田の言葉が飛んだ途端に、ユリアンのブルーの瞳が怒りを帯びて光り、本田は首元を締め上げられていた。

「俺はロシア国家のためなんかに働いているわけじゃない! 最初はミシチェンスキーの親父に泣きつかれたからだったが。今はな、この作戦がロシアを締め上げることにつながるってことが分かってきた。俺はロシアという国家に復讐してやりたい。だからやっているんだ! 」

 殺しの訓練を受けたユリアンが本気なら、すでに息の根を止められているだろう。手加減しているとは思いつつも本田は息が詰まりそうになっていた。本田は苦しい息の中で懸命に喚き返した。

「これまで散々騙してきたくせしやがって、今さらどうしてそんなことが信用できるっていうんだ! 」

 すると本田を締め上げる手を緩めたユリアンはジャンパーの懐からスマホを取り出して、録音アプリを再生させた。

『……あきらめがいいのもプロらしくてよろしい。私の話を聞いてくれるようだな……』

 聞こえてきたのはしわがれた男の声だった。どこかで聞き覚えのある声だ。目をつぶると、薄暗いオーセンティックバーのソファ席でウイスキーをちびちび飲んでいた痩せぎすで白髪の男の顔が浮かんできた。

「きみにも聞き覚えのある声だろう。イーグルというCIAの工作指揮官ケースオフィサーだ。このじじいが、今、きみが追っているヤマの全ての裏側を話してくれたよ」

 再生されたアプリからは、黒崎昭造がロシアの反体制派とつながりを深めていること。ベゾブラゾフ大統領との友好関係を望むアメリカの現政権は、反体制派に近い黒崎を排除したいと考えていること。

 さらにイーグルは、CIAの工作を暴いて黒崎を復権させる作戦が、SVR本部の正式決済を受けたものではなく、ミシチェンスキーが、自分の息がかかった極東の国境警備部隊庁と日本大使館を使って単独で進めているとして、ロシア当局に中止を求めたとも語っていた。

「イーグルは、これ以上作戦を進めるとロシアとアメリカ、ひいては日本との関係にも大きな亀裂を生んで、ロシアがますます追いこまれるだけだと警告してきたよ。いいじゃないか。アリアンナを殺したこの国を締め上げることができるんだ。ミシチェンスキーの親父が何を考えているのか知らんが、俺はこの作戦を最後までやり遂げることに決めたんだ! 」

 いつもの冷静さは影を潜め、ユリアンの目は血走り、かなり興奮していることがうかがえた。この男にとってアリアンナを殺されたことへの怒りは大きく、また彼女に寄せていた愛情も深かったということか。実の兄妹でないことを考えると、それは思い人を失ったことへの怒りであるようにも思われた。

「で? あんたたちの作戦はこの先、どうなるんだい? 」

 問いかけを発した本田に、ユリアンは血走った眼を向けてきた。

「この先もきみには協力してもらう必要がある。きみと矢吹が掴んだ事実を、メディアを通じて公表してもらいたいんだ」

「ここまでいいように俺を利用しておいて、まだ足りないっていうのか? 」

「かと言ってきみに他の選択肢があるかね? 私の申し出を断ってここから放り出されたらどうなる? またCIAの殺し屋どもに命を狙われるしかないわけだろう? 」

 冷たく突き放すようなユリアンの物言いに、本田は思わず舌打ちした。

(俺が生きるも死ぬも、こいつ次第ってことか。よりによって俺を騙し続けてきた男に…)

 無念さと怒りが込み上げてきたが、感情的になっても仕方がない。それに冷静に考えて、ユリアンの思惑通りに事を運ぶことは容易ではないはずだ。

「メディアで公表しろって、一体どこでだ? テレビも新聞も雑誌もネットメディアも、必ず政府の横やりが入ってくる。そうでなくても江藤総理に媚びを売りたい奴はメディアの中には多いんだ。必ず途中で潰されてしまうぞ」

「何も日本のメディアでと言ってるわけじゃないさ。ロシアへ行くんだ」

「ロシアへ? 」

「ロシアメディアと、ロシアで欧米各国のメディアに向けて事実を公表するんだ。日本政府は伝統的に『外圧』に弱い。あのロッキード事件だってアメリカで事実が暴露されて、日本を揺るがすスキャンダルに発展したそうじゃないか。ロシアから世界に情報を発信することで、江藤政権とCIAに打撃を与えてやるんだ! 」

 ユリアンが語気を強めて今後の作戦について語った直後、マホガニーの応接テーブルに置かれた電話が鳴った。受話器をとって耳を傾けるユリアンの顔が強張った。ユリアンは電話を切るとすぐにテレビのスイッチを入れた。公共放送の昼ニュースが流れ始めた。

『……きょう未明、東京都港区台場のオフィスビルに面した道路で男性が転落死しているという通報がありました。警察が調べたところ、亡くなったのは東京地検特捜部で副部長検事を務める東堂啓介さんと確認されました。遺書のようなものは残されておらず、警察は東堂さんの死因について慎重に捜査を進めています……』

 黒崎昭造への国策捜査を告白した東堂検事が死んだ。いや、自分の身に起こったことを考えると殺されたとみるべきだろう。CIAは、事実を知る人間を抹殺することで自ら仕掛けた謀略を闇に葬り去ろうとしている——本田は底知れぬ恐怖が、足元から全身に震えとなって伝わってくるのを感じた。

「これは早く日本を脱出しないとこちらの身が危うくなるな。それにSVRウチの本部から正式に作戦の中止命令が大使館に届けば、我々も身動きがとれなくなってしまう」

 ユリアンも東堂検事の転落死をCIAによる犯行と見たようだ。眉間に皺を寄せた表情から事態を深刻に受け止めているのが分かる。

「しかし、どうやってロシアへ行くんだ。恐らく日本中、国際線の空港や港には非常線が張られているだろうし……」

「いや、ひとつだけ空港や港を通らずにロシアへ脱出できるところがある」

「ええ? 」

「北方領土だよ。根室海峡を突っ切って国後島か歯舞群島のどこかに上陸して、国境警備隊に保護されればロシアに入ることができる」

「どうやって根室海峡を突っ切るんだ。あそこには海上保安庁の高速巡視艇が目を光らせているんだぞ。第一、我々には船がないじゃないか」

「船を用意してくれる協力者はすでに確保済みだ。根室で今、俺たちの到着を待っている」

「根室で? おい、まさか……」

「そう、ケイサクさんだよ。古河恵作だ。東京に来る前、根室に寄って作戦への協力を頼んでおいた。巡視艇を振り切れるだけの高速エンジンを積んだ船を用意すると言っていたよ。古河の親父さん、北方四島周辺の海は、レポ船をやっていた頃から走り回った庭みたいなもんだ。海上保安庁の連中など俺の船でぶっちぎれると胸を張っていたぜ」

 それから一時間後、ロシア大使館から十五分ほどの間隔をおいて後部席の窓を黒くマスキングしたハイヤーが三台相次いで出て行った。それぞれ東京駅、羽田空港、成田空港へと向かっていた。どの車にも出張や出迎えを装った大使館員が乗り込んでいた。ユリアンと本田の替え玉たちである。

 そして夕暮れ時、クリーニング業者の軽ワゴンが大使館に入っていった後、十数分後に再び出て行った。運転していたのは作業帽を目深にかぶった本田だった。衣類を積んだ車体後部には、ユリアンが身を潜めていた。

 ユリアンの指示に従い、本田は軽ワゴンを晴海の倉庫街に向かって走らせ、ある水産会社の倉庫の前に着けた。尾行を受けた形跡はない。だが、先行した三台のハイヤーがブラフだと分かれば、この軽ワゴンが怪しまれるはずだ。

車体後部から素早く飛び出したユリアンは、水産会社の倉庫に走りこむと四トントラックを運転して出てきた。

「早く乗ってくれ。ここからはこいつで移動する! 」

 ユリアンの怒鳴り声で軽ワゴンから飛び出した本田は、駆け足でトラックの助手席に飛び乗った。

トラックは常磐自動車を東へ向かった。目指す先は茨城・大洗おおあらい港。北海道・苫小牧とまこまい港行き旅客フェリーの発着港だった。

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