激闘の幕明け③

 徐行運転の車輪の音が遠ざかっていった後、うごめく人影の方からは、何かささやきあう声が聞こえてきた。だが、耳鳴りのせいで内容までは聞き取れない。

 周囲には機械油のような臭いが立ち込めている。目を凝らすと、本田が転がされているコンクリートの床にはレールが敷かれていて、その上に並んだ電車の車両のシルエットがいくつも見えた。「耳たぶ男」たちに襲撃を受けたのは、東京メトロの車両基地にかかる歩道橋の上だった。その時も、先ほどと同じ車輪の音が響いていた。すると、ここは車両基地内にある車庫の中か……。

 やがて人影の見える方から、何か弾力のあるものを叩く音が聞こえてきた。合間に男の悲鳴らしきものも聞こえた。どうやら金属製の得物で誰かが殴りつけられているようだ。得物が肉に食い込む音が十回ほどした後、急に静かになった。

「なんだ? 伸びちまったのか? おい、水をくんできてぶっかけろ! 」

「いやいや、これだけぶっ叩いても口を割らないんだ。どこに録音があるのか、こいつは本当に知らないんだろう。用済みだな。今度はあっちの男に聞くことにしよう」

 二人目に口をきいたのは「耳たぶ男」のようだ。どうやら今度は本田を拷問にかけようということらしい。すると強い懐中電灯の光が本田の顔に急に浴びされた。思わず本田は顔をしかめてしまった。

「ほう、ちょうど目を覚ましたようだ。早速、話を聞かせてもらうとしようか」

 強い光のさす方から男たちが歩いてきた。先頭に立っているのは「耳たぶ男」だった。

「本田さん、乱暴なことをして申し訳ないんだが、これも仕事なのでね。できるだけあなたに苦痛を与えずに事を済ませたいとは思っている」

 転がされた本田の顔の間近に「耳たぶ男」はしゃがみこんだ。手元には警察官が使う伸縮式の特殊警棒が握られていた。

「お、俺に何の用があるんだ? 」

「あなたたちが接触した東京地検特捜部の検事が、告白した内容を録音した音声データをいただきたい。どこにあるのかね? このスマホの録音アプリには記録されていなかったから、恐らくあなたの仮住まいか、出版社かと思うのだが」

 「耳たぶ男」は、本田の顔の前でスマホを見せた。気絶している間に本田から奪って録音データを確かめたらしい。

「あんたたちには渡せない、と言ったら? 」

「ならば、あなたの体に聞くしかないね」

 「耳たぶ男」は右手に持った特殊警棒で左手の手のひらを軽く何度かたたいてみせた。闇の中で、金属性の警棒に薄明りが当たって鈍い光を放っている。本田は生唾を飲み込んだ。

「ただし、使うのはこいつじゃない。あなたが死体で見つかっても不審に思われないものを使わせていただく。ちなみにあちらの方には、そういうわけで、少々手荒なことをさせて頂きました」

 仲間の男たちが先ほどまで拷問していた男の体を引きずってきた。髪の毛をつかみあげられた男の顔が懐中電灯に照らしだされた。光の輪の中に頭から血を流し、内出血で腫れあがった矢吹拓也の顔が浮かび上がった。

「この男は、父親の代からロシアに飼われているモグラでね。ずっと泳がせていたんだが、とうとう虎の尾を踏むようことをやらかしたんで消えてもらうことしました。もともと学生の頃から極左暴力集団の連中とも付き合いがあったことが、公安のデータベースにも載っている男ですからね。まあ、この後、殴り殺しても内ゲバで殺された線で警察は片づけてくれるでしょう」

(矢吹がロシアのスパイ? すると、あいつが俺を使って記事を書かせたり、「裏金帳簿」を手に入れて特捜検察に脅しをかけたのは、ロシア側の工作だったというのか……)

 本田は口をつぐんで黙り込んだ。こちらが衝撃を受けたことが伝わったのか、「耳たぶ男」は、本田の沈黙をせせら笑った。

「ハハハ……。あなたって人は、とことんロシア人に利用される星の元に生まれているようですね。だからもう、ここらあたりで手を引いた方があなたの身のためだ。大人しく音声データを渡してもらって、私たちとコンタクトがあったことも口外しないと約束していただけるなら、無事にお帰ししますよ。さもないと……」

 「耳たぶ男」が仲間の男たちに促すと一人が、薬用瓶を取り出した。中には白い錠剤が詰まっているのが分かる。

「睡眠導入剤です。あなたにはこいつを大量に飲ませればいい。統合失調症で治療中のあなたが、発作的に睡眠薬を過剰摂取して亡くなっても、何も不審には思われませんからね」

 準備がいいことに二リットル入りのミネラルウォーターも何本か男たちは用意していた。

「耳たぶ男」は薄ら笑いを浮かべながら、本田の返答を待った。再び、徐行運転する車輪の音が近づいてきた。

 本田の脳裏に、肩を寄せ合う妻の真鈴と絵里奈の姿が浮かんだ。今の本田には、帰りを待ってくれる者たちがいた。

(このまま、ロシアの謀略に利用されて死ぬわけにはいかないな……)

本田は、か細い声で「耳たぶ男」に問いかけた。

「音声データのありかを話せば、本当に助けてくれるのか? 」

「ええ、私たちも決して人の命を奪うのは本意ではない」

「だまされるな! 」

 いきなり、息を吹き返した矢吹がうめくように声を上げた。

「だまされるな、本田! こいつらは、どっちみち俺たちを殺す気だ。音声データを消せれば安心できるんだろうが、そうでなくても俺たちを殺してしまえば、あの副部長検事が漏らした国策捜査の事実は永遠に葬れるんだからな! 」

 どこにそんな力が残っていたのだろう。矢吹は手足を縛られているが、猛然ともがき始めた。暗闇の中で、男たちも取り押さえるのに手を焼いているようだ。男たちに向かって「耳たぶ男」が叫んだ。

「そいつはもう済みだ。さっさと殴り殺してしまえ! 」

「本田! お前を騙してすまなかった! 本当に申し訳ない! でもな、もう少しの辛抱だ。もうすぐ助けがくる! だからもう少し頑張ってくれ! 」

 男たちが再び、矢吹を殴りつける音が聞こえてきた。特殊警棒が肉に食い込む音と、矢吹の悲鳴が響き渡る。その間にも、徐行運転で近づいてくる車輪の音がどんどん大きくなっていった。

 その時、爆発音とともに車庫内部を照らし上げる光が走った。本田は、一瞬、近づいてくる車両が事故を起こしたのかと思ったが、光は本田を含め、その場にいた者たち全員の目を眩ませた。続いて二回の爆発が起きて同じようにまぶしい光が走った。

閃光せんこう手りゅう弾というやつか……)

 本田がぼんやり考えていると、視界に三、四人の黒い影が躍り出るのが見えた。次の瞬間、黒い影の手元あたりから火花が走り、「プスプスプスプス……!」と、くぐもった連射音が聞えた。

 本田の周囲では、痛苦の悲鳴をあげて数人の男たちが倒れ、血の臭いが立ち込めた。黒い影は猛烈な速さで近づいてきた。その間にも連射音は鳴り続け、男たちの悲鳴が次々とあがった。倒れた男たちのうめき声とともに、革靴を履いた数名の足音が近付いてくるのが本田にもはっきりと聞こえてきた。

 黒い影は一〇メートルほどまで近づくと発砲をやめて、ゆっくりと歩き始めた。いずれも暗視ゴーグルをつけて消音装置付きのサブマシンガンを構えた男たちだった。

 そして、男たちが五メートルほどまで近づいた時だった。今度は、倒れていた男の一人が、急にむっくりと膝を立てて身体を起こした。後姿から拳銃を両手で構えて射撃姿勢になっているのが分かった。続いて銃声が四、五発連続して響き渡ると、サブマシンガンを持った男たちはもんどり打って次々と倒れた。とっさに伏せた一人だけが難を逃れたようだったが、少し頭を上げた瞬間、拳銃弾に側頭部を撃ち抜かれて弾かれたように横向きに倒れた。

「おい! しっかりしろ! 動ける者は俺に続いて来い! 撤退だ! 」

 拳銃を発砲した男が周囲に声をかけた。声の主は「耳たぶ男」だった。よろめきながら数人の男たちが立ち上がり、「耳たぶ男」に続こうとした。が、瞬く間に二人が頭を撃ち抜かれて次々と倒れた。本田の耳に走る靴音が近づいてくるのが聞えてきた。やがて右手にサイレンサー付きの拳銃を持った黒い影が走り込んでくるのが見えた。その時、「耳たぶ男」は黒い影に狙いをつけて射撃姿勢に入っていた。

 黒い影が十メートルほどまで近づいた時、「耳たぶ男」が発砲——その寸前、黒い影は、前方に飛び込むようにして倒れ込むと伏せたままの姿勢で、「耳たぶ男」に銃弾を放った。

「うっ! 」

 本田の耳にも「耳たぶ男」のうめき声がはっきりと聞こえて、手に握られた拳銃がコンクリートの床に落ちるのが見えた。そして再び、爆発音とともに周囲を照らしあげる閃光が走り、本田の視界はホワイトアウトして失われた。


「……だめです。少佐、イワノフとオルロフは頭をやられて即死です。あとの二人も重傷です」

「大使館へ急報! 緊急手術だ。ドクターを叩き起こしておけ! 」

「少佐、こっちの男、意識が混濁していて相当殴られています。急いで処置しないと」

「重傷の二人とともに救命処置を急げ! あと、一〇分もすれば日本の警察が駆け付けてくるぞ。ぐずぐずするな! 」

 視界が回復してくるにつれて矢継ぎ早の会話が本田の耳に飛び込んできた。すべてロシア語だ。その中に、聞き覚えのある声が混じっていた。少佐と呼ばれている男の声だ。まさか、こんなところで再び耳にすることになろうとは。

 本田は手足の拘束が解かれ、猿ぐつわ代わりのタオルも取り外された。背中から抱き起してくれた男が話しかけてきた。

「間に合って良かった。タクヤが、GPS付の警報装置をONにしたので急いで駆け付けたんだが……。また、生きてきみに会うこと出来てうれしいよ、カズマ」

 今度は流暢な日本語だった。ぎょっとして本田が振り向くと、若い頃のケビン・コスナーを思わす男の顔があった。

「セルゲイ、貴様ぁ! 」

 本田は、ユリアンの襟首をつかんで殴りかかろうとした。だが次の瞬間、ユリアンは本田の右手の動きを巧みに制して後ろから羽交い絞めにしていた。

「カズマ、きみの怒りはもっともだ。後でいくらでも受けとめさてもらうよ。でも、今はここを脱出することが最優先なんだ。すまんな」

 ユリアンは、本田の体の前に回り込むと鳩尾みぞおちにパンチを見舞った。うめき声をあげて崩れ落ちる本田の体を肩に担ぎ上げると、ユリアンは周りの男たちに目配せをして闇の中へ走り出した。

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