激闘の幕明け②

 幸い、輝子の熱中症の症状は軽く、電解質溶液の点滴を受けると熱も引いて落ち着きを取り戻した。今夜は、そのまま病院で安静に過ごすよう本田は医師から指示を受けた。

 「心配かけてすまなかったね。私の方は落ち着いたから、お前はもう家へお帰りよ。風呂にでも入って疲れをとらないと」

(そうそう、まずは婆ちゃんに確かめておかなきゃいけないことがあったんだよな……)

 背後からかかった声で、本田はきょう祖母の輝子と行動をともにした本来の目的を思い出していた。

「婆ちゃん、ちょっと聞いてもらいたい話があるんだけど」

「何だい? 」

 本田が振り返るとベッド上で仰向けに横たわった輝子がこちらを向いていた。蛍光灯のせいか顔は青白く見える。もともと細い体がきょう一日炎天下で過ごしたために、やつれて一回り小さくなったように思えた。

「黒崎さんをめぐって贈収賄の事件が取りざたされたけど、俺、ずっとその背景に何があるかを取材していたんだ。そこで分かったことをお話したいんだけど……」

 本田は、一連の贈収賄事件やその前に起きた「ルスモスコイ・スキャンダル」が、アメリカCIAと江藤総理が共謀して黒崎を失脚させるために仕組まれたこと。特に江藤総理には、来年の保守党総裁選で対抗馬となる黒崎を叩くことで再選を確かなものとし、「二島返還決着」という方針で北方領土交渉の主導権を握るねらいがあったことを告げた。

「……つまり、江藤総理は、四島返還をめざす黒崎さんをスキャンダルで失脚させて来年の総裁選の勝利と北方領土交渉の主導権を握ろうとした。黒崎さんがロシアの反体制派とも通じていて危険だと見たCIAは、江藤総理の意をくんで特捜検察を動かして国策捜査が行われたということなんだ」

 ベッドに横たわり天井を見つめていた輝子は、本田の話がひと段落すると、大きなため息をついた。

「結局、北方四島しまのことがどうなろうが大事なのは自分の権力維持ということなんだね。そんなことだろうとは思っていたけど……でも、おかしなことになっちまったね。黒崎さんを陥れた江藤総理を私たちは応援しなけりゃならなくなるなんて……」

 輝子の声は消え入りそうにか細く、常日頃とは異なり弱々しかった。内閣府で総理秘書官たちと対峙した後には、悔し涙を流していた輝子だったが、今はそんな激しい感情は影を潜めて、言葉からは諦めがにじみ出ていた。

「そのうえで、婆ちゃんに聞いておきたいことがあって……。俺がつかんだこの事実を、メディアで公表しても構わないもんだろうか? そうしたら江藤総理は少なからぬ打撃を受けるし、二島返還で日ロ交渉を決着させる方針も社会の批判を受けて進まなくなるかもしれない。でも、千島協会の中には、せめて二島だけでも返ってきてくれたらと願っている人もいると聞くし、総理に協力する方針をとった協会にも迷惑をかけることになるんじゃないかと思って……」

「千島協会の理事としては、余計なことはしてくれるな、ということになるんだろうね。私らはもう江藤総理に北方領土交渉を委ねたんだから。総理の足を引っ張るようなことはしてくれるなと……」

 天井を見上げてきた輝子の顔が本田の方を向いた。虚ろだった目には再び意思の光が宿ったように本田には見えた。

「でもね、北方四島しまに生まれた者の思いは、故郷を取り戻してみんなで一緒に帰ろうってことのはずさ。切り捨てられる国後や択捉の出身者にとって二島返還で手を打つなんてことがいいはずなんてありゃしない。今の千島協会は、そもそもの理念を無くしちまって、組織を残すことしか考えなくなった連中の集まりだよ。私も含めてだけどね……」

(言ってくれた。俺の思いを、代わりに……)

 心の底では思っていても、本田には決して言えないことだった。七十年以上、返還運動を続けてきた元島民たちを貶めるようなことは。

できれば輝子の口から聞きたかった——それが本田の本音だった。自身の迷いを振り切って、記事を書くために。

「お前が婆ちゃんたちのことを思ってくれることはありがたいけどね。運動を続けることそのものが目的になった私らはこの先、足元を見られて大和フォーラムや江藤総理に利用されていくことになるだろうよ。靖国参拝やデモは、ほんの手始め。これからは選挙応援にだって駆り出されることになるだろうさ。そんな私らなんかに気兼ねするよりも、あんたにはもっと大事なことがあるはずだろう? 分かっているよね? 」

「……うん」

 本田は、輝子たち戦後の返還運動を担ってきた人々への申し訳なさから俯いてしまった。一方で、輝子の声には普段と変わらぬ精気が戻り、本田の背中を強く押す力がみなぎっていた。

「真実、誠のことを伝えること。それが、お前が果たさなくてはならない務めだよ。真実を知ることで、人は動く。世の中は変わっていくものだからね。

 私らの世代は運動を続けるために国に頼って、結局、利用されることになっちまった。だけどお前たち若い者は、もう国なんかに頼らないで、どんな政治家にも……江藤総理にも、黒崎さんにも、利用されない生き方をすればいい。自分が信じたこと。やらなければならんと思うことを存分にやっていけばいいんだよ」 

 本田が顔を上げたとき、輝子の顔には安らかな微笑みがうかんでいた。その笑顔を見て、本田の思いは決まった。


輝子と別れて虎ノ門の病院を出た後、本田は矢吹と記事の打ち合わせをするために神保町の出版社に戻った。その後、地下鉄の最終便で南千住みなみせんじゅ駅にたどり着いたのは、午前〇時半を過ぎた頃だった。

本田が、南千住駅の南口を出て、東京メトロの車両基地の上を通る歩道橋を歩いている時だった。本田の仮住まいのマンションがある泪橋なみだばしの方向から、青くライトアップされた東京スカイツリーを背にして暗闇の中を歩いてくる五人の男がいた。真ん中にいたのは、CIAに協力していると思われる「耳たぶの潰れた男」だった。

 本田が男に気づいて立ち止まると、後ろからも複数の靴音が足早に近づいてきた。振り向くと、こちらからも五人ほどの人影が迫っていた。

 気づいたときには「耳たぶ男」をはじめとした男たちは本田の手前、五メートルほどのところまで来ていた。どの顔も口角を上げて冷笑を浮かべている。

「こんばんは、本田さん。虎ノ門を出た後は、会社で残業されていたようですね。随分とお待ちしましたよ。では、ちょっとそこまでご一緒してくださいますか? 」

 「耳たぶ男」が話しかけてきた直後、本田は、後ろの首筋に激しい衝撃を受けた。青く輝くスカイツリーが一瞬、真っ赤な炎に包まれたように見えた。が、直後に視界は漆黒の闇に包まれて、本田の意識は飛んだ。


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